13
神殿の大扉は開放されていて、すぐ近くに刀を手にした守人たちが立っているのが見えた。ミジェ・ノイルの部隊が神殿前の広場に到着すると、彼らはクラウディアたちが待機している神殿内に入り、そこで女性たちを護衛することになった。
『……これは、混沌の残り香だな』と、ラガルゲの背に揺られていたミジェ・ノイルの声が聞こえる。『人間の能力者が操る呪術でも、ここまでハッキリと混沌の気配は残らないだろう』
森は呪術で溢れている。それは人々の生活を豊かにしてくれるだけでなく、森の脅威から人々を守るためになくてはならない神々の奇跡だった。でも、その仕組みについては今も分かっていない。〈血を継ぐもの〉と呼ばれる人々に流れる血が関係していることは誰もが知っていたが、その能力を発現させるための〝力〟が何処からやってくるのか、それを知るものはいない。
呪術を研究する集団は〝混沌の領域から漏れ出る力〟によって、それらの能力が利用可能になると考えていた。だからこそ使用される能力が強力であればあるほど、混沌がこの世界に及ぼす影響も大きくなるのだと。けれど明確な答えを手に入れたものはいない。探究者たちは呪術の研究に明け暮れているが、彼らも世界の理を解明できるとは考えていないのだろう。
しかしこの場所には、たしかに混沌の気配が残されていた。地面に横たわる戦士たちの死骸の側を通ったとき、その気配は濃くなったように感じられた。その変化にミジェ・ノイルはすぐに気がついた。広場に放置された無数の死体にはカラスや獣が群がっていたが、その奇妙な死体には――何度も切り裂かれ叩き潰されたような死骸の近くに、生物の姿は見られなかった。
ミジェ・ノイルは数人の部下を調査に向かわせると、彼のすぐ側に付き従っていた背の高い人間の女性に指示を与えた。すると彼女の周囲で空気が陽炎のように揺らめいて、その瞳には呪術の光が宿る。彼女に〈神々の遺物〉の痕跡を捜させているのかもしれない。しかし濃密な混沌の気配によって、彼女の呪術は阻害されていた。
ノノにはその理由が分かっていた。アリエルの能力がこの場所に及ぼした影響の所為だ。しかし彼女はそのことを決して口にしなかった。自分はなにも知らないという澄まし顔でアリエルのとなり立っていた。
それからアリエルとノノは、数人の部下を連れたミジェ・ノイルを神殿内に案内することにした。入り口付近には長机が置かれ、地下から運び出された数十冊の書物と、金や宝石で飾られた神具が無雑作に積み上げられていた。その近くには、守人に護衛されているクラウディアたちが行儀よく立っていた。
彼女たちは不安そうな表情を見せていたが、地下にいたときに身につけていた薄着の小袖ではなく、粗織りの野暮ったい旅衣を着ていて、神殿を管理していた上品な人間には見えなかった。その格好なら、戦闘で昂っている野蛮な戦士たちに問答無用で襲われる心配はないだろう。
『これはすごい光景だな』は、軍団長は黄金で飾られた神殿の美しさに心を奪われていた。
それはアリエルの趣味ではなかったが、彼は適当に話を合わせたあと、神殿で手に入れたモノについて簡単な説明を行った。
「――それで、こちらが機密文書になります」
ミジェ・ノイルは部下に書物の内容を確認させてから、それを外に運び出させた。
『それで彼女たちが、例の?』
「はい」と、青年はうなずく。
「彼女たちの容姿は戦場で目立ちますので、着替えさせています」
『賢明な判断だな……。それにしても人数が少ない、これだけの規模の神殿だ。管理するための人手があっても不思議ではないのだが……神官と一緒に死んだか?』
「わかりません」と、アリエルは首を横に振った。
あるいは、すでに逃げてしまっていたのかもしれない。戦の足音を聞いて真っ先に逃げ出して首長に寝返ったのは、それなりの権力と財力があったものたちだった。諜報活動によって手に入れられる情報に、戦の兆候が見え隠れしていれば、嫌でも戦いが近いことに気がつく。
最後まで神殿に残っていた高位の神官が、なぜあのような最期を遂げたのかは分からないが、少なくともこの場に残された彼女たちには、初めから逃げ場などなかったのかもしれない。
『外の広場に天幕を用意させよう。首長と話をつけるまで、彼女たちはそこにいてもらう』
「彼女たちの近くに仲間をつけてもよろしいでしょうか」
『なんだ、心配なのか。……まぁいい好きにしろ』
アリエルは念話を使いラファと兄弟たちに引き続き護衛を頼んだ。
『さて、お主と少し話がしたい』
「〈神々の遺物〉についてなら、すでに呪術を使い問い質しましたが、彼女たちからは何の情報を得られませんでした」
『あれは身分の低い人間が触れられるモノではないからな、そのことは心配していない』
実際のところ、ミジェ・ノイルはアリエルの言葉のすべてを信用しているわけではなかったが、疑う必要性も感じていなかった。〈境界の守人〉の権威は失墜していたが、守人の活動を評価しているものたちは存在する。現実問題として、今でも守人は混沌の脅威に立ち向かい続けている。ミジェ・ノイルはそれを評価する人物のひとりだった。
彼らが会話している間に神殿前の広場には陣が敷かれ、戦士たちによって多くの天幕が張られようとしていた。
『お主も耳にしたことがあると思うが、戦のあとには各方面に配属されている軍団長たちを集めて会議が行われる』
砦にいるときに何度か聞いたことがある。幹部のみを集めて開かれる会議。戦果報告会議とも呼ばれる集まりだ。そこでどのような話し合いが行われているのかは分からない。その名の通り、戦果を報告しあうためだけの会議なのかもしれない。
『今回は〈境界の守人〉を代表して、お主にも参加してもらうつもりだ。良いな? これは首長からの要請だ』
「承知しました」アリエルは胸に手をあて、軽く頭を下げた。
それを見たミジェ・ノイルは、不思議な魅力がある青年だと面白く感じた。この若造は辺境で暮らす蛮族のような格好をしているが、口の利き方や立居振舞は高貴な生まれの人物のようでもある。不思議な人間もいたものだな、と彼は感心する。いや、あるいは古の人々に近い存在なのかもしれない。いずれにせよ、その深紅の瞳には古代の秘密が隠されているのかもしれない。
『日取りが決まったら連絡するから、部下に会って〈呪術器〉を受け取ってくれ』
アリエルはすぐに呪術器について質問しようとしたが、ミジェ・ノイルは部下を連れて神殿の地下に向かう。
彼は質問を諦め、ノノと一緒に神殿を出る。そして広場のあちこちで天幕を張っている蜥蜴人たちの間を小人になった気分で歩きながら、片耳の守人に護衛されながら神殿を離れていたリリと連絡を取った。
「リリ、そっちは問題ないか?」
『大丈夫だよ』と、すぐに彼女の声が頭のなかで響いた。『あの子は眠ったままだけど、今のところ大きな問題は起きてないね』
「そうか……。それなら、予定通りルズィとの合流地点に向かってくれ。彼とはすでに話がついている。安全な場所でふたりを匿ってくれるはずだ」
『この子の存在は勘づかれた?』
「いや。混沌の気配とやらが、その子の気配を消してくれたみたいだ」
『そっか、この子もだいぶ弱ってたからね』
「とにかく、略奪を目的とした部隊が徘徊しているから充分に注意して移動してくれ」
『了解ぃ』
クラウディアたちのために用意された天幕の前に到着すると、ふたりのもとにラファがやってくる。
「それで、なにか問題は起きたか?」と、アリエルは小声で訊ねる。
「いえ、えっと、すべて順調に運びました。唯一の懸念だったリリたちの脱出も滞りなく行えました。それに、今は女たちの……じゃなくて、クラウディアたちの天幕も警備しているので、問題が起きてもすぐに対処できるはずです」
「了解、いろいろと助かったよ。――ところで、地下の様子はどうだ?」
「細心の注意を払いながら、あの子の痕跡は消してきました」
「ありがとう。これで〈神々の遺物〉の存在が有耶無耶になってくれたらいいんだけどな……。せめて俺たちが砦に帰るまでの数日の間、あの子の存在は隠しておきたい」
敵対する部族の生き残りのなかには、龍の存在を知る者もいるだろう。そういった人間の証言で、我々の企みが明らかになるかもしれない。しかし首長にも手が出せない場所にいれば、対策を講じることができるかもしれない。とにかく今は、何事もなく無事に時が過ぎるのを祈ることしかできない。
アリエルがクラウディアたちに会いに行こうと考えていたときのことだった。見慣れない人間の戦士に声をかけられる。
「アリエルですね」
「そうだけど、あんたは?」
「名はイン。ミジェ閣下から会議と呪術器の説明を仰せつかった者です」
彼は背筋を伸ばし、ハッキリと一語一語、丁寧に言葉を口にした。東部の人々に見られる凹凸の少ない平面的な顔立ちをしていて、アリエルより少しばかり背が高かった。身につけている衣類は仕立ての良い狩装束で、見事な毛皮が使用されていた。
遠目に見れば森のどこにでもいる部族の人間に見えたが、間直に見る彼の風貌や腰に吊るしていた刀でそれなりに身分の高い人間だと分かった。