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蜥蜴と蛙の混血を思わせる悍ましい魚人が猛然と駆けてくるのが見える。ふたりの土鬼に守られていた照月來凪は、悪意から身を隠すことのできる角灯を使用していたが、醜い魚人はおそるべき嗅覚で彼女の存在を感じ取っていた。しかし照月家の武者は大太刀を手に、敵魚人の前に立塞がる。
数体の魚人が一斉に跳びかかってくる。が、横薙ぎに振るわれた斬撃によって、まとめて両断され辺りに青黒い鮮血と臓物が飛び散る。土鬼の体格から繰り出される一撃は、さすがの魚人の硬い鱗でも防ぐことはできない。しかしそれでも、龍の気配と女性の匂いに引きつけられた魚人が次々と姿を見せ襲いかかってくる。
魚人に取り囲まれたかと思うと、鉄紺色の甲冑に真っ白な陣羽織を身につけていた武者の身体から、赤い靄がゆらりと立ち昇るのが見えた。それは土鬼が身体能力を一時的に強化するために身に纏うとされる〈闘気〉だった。
ふたりの額にある二本のツノは赤熱するように真っ赤になり、大太刀は炎に包まれ、敵魚人の身体を溶かすようにして容易く切断していく。
女戦士のメアリーは長弓を使って照月家の武者を掩護し、黒煙の中から次々と飛び出してくる魚人を射殺していく。彼女は土鬼のように大柄で強靭な肉体に恵まれているというわけではなかったが、類まれな戦闘技術で魚人を寄せ付けることがなかった。
彼女たち敵魚人の猛攻に耐えながら、徐々に押し返していた。矢が風切り音を立てながら飛び、血に塗れた刃が激しくうちあう音が響き渡る。集落は混沌とし、鮮血によって地面は青黒く染まっていく。
遠征隊はこれまでにない過酷な戦場に身を投じることになった。炎と黒煙に包まれた集落に押し寄せる無数の敵魚人は、容赦なく襲いかかってくる。斧を手にしたアリエルは、血に濡れた刃を振り回し、憎しみに満ちた眸で敵を容赦なく殺していく。
凄まじい勢いで斧が振り下ろされ、敵の肉体を斬り裂いていく。血液が噴き出し、内臓が破裂し、力を失くした肉体がバタリと倒れる。しかし、その悍ましい肉体は――まるで混沌から新たな力を得て再生するように、青年の前に再び立塞がる。魚人は醜く歪んだ顔に冷酷な笑みを浮かべ、本能と怨念によって突き動かされる。
しかアリエルには関係のないことだった。かれは凄まじい力で斧を振り下ろして敵を斬り伏せていく。魚人の肉体は破壊され、断末魔の叫びが黒煙の中に吸い込まれていく。
魚人の呪術師がやってくると、青年に向かって無数の〈氷槍〉を放つのが見えた。が、鋭い氷の塊がアリエルに届くことはなかった。どこからともなくやってきた黒い影が――まるで悪鬼のように底のない怨念を身に纏う影が呪術を呑みこみ無効化していく。
異形の出現に困惑して動きを止めた呪術師たちは、豹人の姉妹が放った〈業火〉に包まれ灰に変わる。単身、群れのなかに突進していたアリエルを支援するため、姉妹は呪術を駆使しながら周囲の敵魚人を処理していく。〈黒の魚人〉は総力戦を仕掛けてきているのか、いつの間にか集落には数百を超える魚人が集まってきていた。
姉妹の近くで戦っていたルズィは、アリエルの異変と奇妙な影の出現に気がついていたが、混戦のなか、彼にはどうすることもできなかった。とにかく仲間に被害が及ばないように、戦いを支援しながら上手く立ち回るしかなかった。
その間もアリエルは斧を手に、敵魚人の群れに立ち向かっていた。叩き斬られた手足が宙に舞い、彼の黒衣は汗と鮮血で濡れ、息は荒く、身体は傷だらけだった。けれど鋼のような意志は揺るがない。彼は絶え間ない戦いの中で自身の限界を超えようとしていた。
その激しい闘いのなか、青年の心は徐々に闇に染まっていく。彼の中には怒りと狂気が渦巻き、呪素を体内に取り込む過程で混沌の力に魅入られていくのを感じていた。それは彼の心を蝕んでゆき、人間性を奪い、獣じみた衝動で精神を支配していく。しかしそれでも彼は敵魚人を殲滅することだけを考えて動き続けていた。
血塗られた戦場で、アリエルの斧は次々と敵の肉体を斬り裂いていく。その切り口からは青黒い血液が噴き出し、敵は不気味な断末魔を残して倒れていく。けれど、またしても倒れた敵魚人は肉体を再生し、這うようにして立ち上がる。
邪神の加護によって修復され肉体は異形へと変貌し、内臓が飛び出し、腐敗液と膿を吐き出しながら青年の前に立ちはだかる。彼らは怨念に満ちた眼を妖しく光らせ、狂気と殺意を宿した存在に変わる。
平和で穏やかだった集落は地獄と化していた。アリエルの周囲には数十体の戦士が集結していて、かれらは鋭い牙と錆びた刀を手に、獰猛な雄叫びと共に襲い掛かる。青年はひとり、魚人と死闘を繰り広げることになる。
飛び掛かってきた魚人の鱗を斬り裂いて、背後から迫ってきていた敵は地面から出現させた無数の〈土槍〉で串刺しにしていく。しかし敵の数は減るどころか増え続けている。彼らの攻撃は容赦なく、青年は追い込まれていく。痛みと疲労が襲いかかるが、青年は苦痛に抗い続ける。
けれど敵は倒れたあとも肉体を再生させて戦いを継続していた。魚人を完全に無力化するためには、その首を刎ねるか、呪術で灰に変わるまで焼き尽くすしかなかった。
その闘いの最中、ルズィは言い知れない気配が集落を覆っていることに気がついた。その存在すら不確かな〝邪神〟が暗躍しているのかもしれない。ソレは敵魚人に力を与え、戦闘は更なる地獄に突入しようとしていた。
一方、後方で戦っていた照月來凪は、襲撃を生き延びた〈青の魚人〉の避難を助けていた。そこで彼女は異変に気がつくことになる。
戦場に残された敵魚人の死骸は不気味な変化を遂げていた。破壊された肉体から腐敗液が溢れ出し、肉と絡み合いながら触手のように伸びて別の死骸に絡みついていく。その触手は生き物のように蠢き、恐ろしい生命力で脈動していた。
触手は魚人の死骸を締め上げ、すり潰すように破壊しながら混ざり合い融合していく。悪夢のような光景だ。すると触手が照月來凪に向かって伸びるのが見えた。闘気を纏っていた武者は素早く反応して、触手を断ち斬る。その触手の切断面からは黒い体液が噴き出し、地面を汚染していく。切断された触手は恐ろしい生命力を持ち、跳ねるように動き続けていた。
氷のように冷たく粘り気のある触手からは、鳥肌が立つような混沌の気配が感じられた。このままでは集落が混沌の領域に侵食されるかもしれない。その嫌な予感を払拭するように、照月來凪は呪術を使い触手を焼き尽くしていく。これ以上、森を穢すわけにはいかない。
そのころ、黒い影が生み出した怨念は冷たい暴風になって集落の一角を覆い尽くそうとしていた。あまりにも異質で危険な空間が生み出されてしまい、姉妹すら近づくことができなくなっていた。
その暴風の目のなかで、アリエルは魚人の精鋭と対峙していた。彼の前に立ちはだかるのは、〈青の魚人〉から剥いだ生皮を身に纏う〝網目の魚人〟だった。以前、湖畔で遭遇した強力な個体で、その手には青白い鬼火を宿す妖刀が握られていた。
青年が斧に呪素を流し込むと、刃の表面にある溝から毒が染み出すのが分かった。それが危険な神経毒だと理解しているのかもしれない。アリエルと対峙した魚人は刀を構え、そのときが来るのを静かに待つ。
と、口火を切ったのはアリエルだった。かれは力強く踏み込むと、目にもとまらない速さで魚人の懐に飛び込もうとする。しかし青年の動きを読んでいたのか、魚人は反撃の構えをとっていた。
暗闇の中から死が手を伸ばし、青年の肌をなぞり恐怖の念を植えつける。直後、死の予感に全身が怖気立つような感覚に襲われる。
けれど魚人の刃がアリエルに届くことはなかった。突如、虚空から雷を纏う豹があらわれたかと思うと、網目の魚人に喰らいついて、その身体を容赦なく引き裂いた。
それは豹人の姉妹が持つ膨大な呪素によって具現した恐るべき〈呪霊〉だった。




