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遺跡の地下で見つけた広大な空間は、半球形の高い天井に覆われていたが、時間の経過とともに損傷が進んでいるのか、天井や壁の一部は崩壊していて、植物の侵食も確認できた。
あちこちで壁材が剥がれていて、ひび割れが見受けられ、天井の隙間からは細い光の筋が差し込んでいる場所もあった。しかしそれでも深い闇のなかに沈み込んでいることに変わりない。
その空間の中央には、不気味なまでに静まり返った石の祭壇が鎮座している。石壇の周囲には供物や装飾品の類は一切なく、また他の遺跡のように盗掘された痕跡も確認できなかった。
祭壇そのモノも時間の流れのなかで荒れ果てていて、崩壊が進んでいる。しかし見る者を魅了する奇妙な引力を持っていて、祭壇から目を離すことができなかった。
静謐さに支配されていたが、足音ひとつ響かない場所に違和感を覚えているのか、リリとノノは警戒して長い尾を神経質に振っていた。その静寂の中に潜む不気味な気配に反応しているのだろう。それは呪術の扱いに長けた豹人にしか感じられない気配だったのかもしれない。
壁の傷跡と祭壇の荒廃が、かつてこの場所で何かが起きたことを物語っているかのようだった。床には古代の石材が敷かれ、いたるところにぼんやりと発光するキノコが生えていて、薄緑色の光が薄暗い空間に微かな生命の気配をもたらしている。が、湿気やカビの悪臭が漂っているのも事実だ。
近くの壁からは時折、水滴が滴り落ちる微かな音が聞こえてくる。視線を動かすと、祭壇近くの床が赤黒く変色しているのが見えた。かつてこの場所は、神に生け贄を捧げる儀式の場として使われていたのかもしれない。多くの者が血を流してきたのだろう。そこで微かな音が響いていることに気がつく。風の音が天井や壁の隙間から漏れ、耳元に聞こえてくるのだろう。
やがて自分以外の生物の鼓動が聞こえてくるような錯覚に陥る。
「聞こえているのは俺だけか?」ルズィは周囲を見回して、眉間にしわを寄せた。
「いや、俺にも聞こえてるよ」
アリエルは暗黒に沈み込む空間に向かって歩いていく。そこには石柱が静かに立ち並び、暗闇の中で脈動するように青みがかった淡い光を放っていた。
その表面には謎めいた模様が刻まれている。青年はその異様な光景に心を奪われ、石柱のひとつひとつを確かめながら歩いていく。彼の背後にはノノがいて、つねに周囲に警戒していた。
石柱の模様を指先でなぞるたびに、アリエルは不思議な力を感じる。浮き彫りが微かに震えて淡い光を放つのだ。それぞれの柱には異なる模様や図像が彫り込まれており、その意味や目的は青年にとって未知のモノだった。
彼は目を細め、その古代の模様が何を伝えようとしているのかを理解しようとするが、それと同時に、踏み込んではいけない領域なのだと感じていた。
ノノは複雑な幾何学模様が刻まれた石柱の前で立ち止まる。それらの模様は光によって浮かび上がっているように見えた。その幾何学的な図形は、世界の裏側で蠢く謎めいた力の存在を連想させ、ノノの想像力をかきたてた。
となりの柱に視線を移すと、光輪を背負う神秘的な生物の姿や象徴的な風景が――主に尖塔を背景にした風景が彫り込まれていて、古代の神話や数々の伝説を思い起こさせた。
石柱が発する淡い光は、地下空間の闇をさらに引き立て、それぞれの模様に独自の意味を与えた。その光のなかには、遥か昔の叡智と神秘が宿るかのように感じられて、アリエルの心を震わせた。が、人間や土鬼には居心地が悪い場所なのか、青年のように感動している者はない。
時折、指先で触れた模様から微かな震動が伝わり、青年は得体の知れない存在の気配を身近に感じるような奇妙な錯覚に襲われた。彼の思考は底のない深みに引き込まれ、己の存在意義や、原生林に眠る遺跡の真実を解き明かすための鍵が石柱に隠されているのではないかと信じるようになった。
アリエルは興味と好奇心に駆られ、ふらりと祭壇に近づく。祭壇の表面には未知の網目模様が彫り込まれており、それが地を這う蛇のように見えることがあった。しかし、その模様を完全に理解することは不可能だった。絡み合う蛇のように模様は蠢き、つねに模様を変化させていたからだ。
青年は祭壇に近づくにつれ、微かな声を耳にする。その声は囁き声のように静かで、古代の――神々の言語の響きを持っているようにも聞こえる。心が騒めく不思議な感覚が青年を包み込んでいく。
それと同時に、祭壇の周りに靄が揺れるように漂っていることに気がつく。それは神秘的な光を帯びていて、ぼんやりと祭壇を照らしている。
青年は心の奥から湧き上がる好奇心と恐怖心と戦いながら、祭壇に手を伸ばした。彼の指先が祭壇に触れると、光が破裂するように、一瞬にして広がるのが見えた。青年は別次元に引き込まれたかのような錯覚に襲われ、目の前に広がる光景に息を呑む。
祭壇の周りには漆黒の闇が立ち込め、その中には幻想的な風景が浮かび上がる。上空から俯瞰して見る都市の光景が頭のなかに流れ込んでくる。いくつもの塔が――雲に届くような構造物がいくつも聳える都市の光景だ。
その都市に植物はなく、木々も見えない。あるのは石と金属で造られた構造物、そして人間だ。これまでに見たことのないような大勢の人々が、光に溢れた都市で生活している。
それらの風景が見えなくなると、まるで暗い空に輝く星々のように、地下空間を照らす無数の光球が浮かび上がるのが見えた。拳大の光球のひとつひとつに異次元の、あるいは異星の景色が映し出されていた。その光景に記憶の深淵に眠っていた何かが、青年の心を震わせて魅了する。
祭壇から青年の耳に届いていた微かな囁き声はさらに増えていく。その声は意味を持った言葉にならないまま、青年の心の奥深くに響き渡っていく。古代の知識と叡智が一瞬にして彼に注ぎ込まれ、世界そのものを統べる上位存在から託されていた使命を呼び起こすような感覚に陥る。が、それは流れいく川のように彼の心を通り過ぎていく。
祭壇は輝きを増していき、その光で地下空間を満たしていく。と、その眩い光の中に無数の影が浮かび上がるのが見えた。それらの影は人に似た形状をしており、祭壇の近くに立つ青年を囲むように佇む。
しかしそれはあくまでも影であり、実体を持っているようには見えなかった。が、まるで生きているかのような気配を纏っている。かれらの存在は不可思議で神秘的であり、遺跡の守護者としての役割を果たしているかのようにすら思えてくる。
アリエルが周囲を見渡すと、静寂の中でただただ揺れ動いていた無数の影が、彼を包み込むように集まってくる。青年を守ろうとしてノノが咄嗟に前に出るが、彼女が練り上げた呪素は瞬く間に霧散してしまうのが分かった。この場所では呪素にすら影響する力が働いているようだ。
影は青年の存在を知覚し、彼の心にだけ語り掛ける。と、その時だった。青年は大きな存在が近くにいることを感じ、その声に従うように〝老いた豹人〟から託されていた遺物を収納の腕輪から取り出すと、導かれるように祭壇の前に立つ。その石壇には、いつの間にか未知の輝きを放つ白銀の鋳塊が三つ置かれていた。
青年の手を離れた遺物は不思議な力で宙に浮き上がると、液体に変化し、鋳塊に混ざり合い融合するように流れ落ちいく。やがて祭壇は目も開けていられないほどの眩しい光で満たされていく。どうやら老人が話していた転移門の鍵が生成されているようだ。