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ルズィから杖を受け取った瞬間、ごく僅かだが――手のひらに呪素の流れを感じることができた。アリエルは枯れ枝にしか見えない杖をしっかり握り直す、すると指先に液体が沁み込むような冷たい感触があった。驚いて杖を手放しそうになるが、もちろんそれは錯覚で、手は濡れてなどいなかった。
その杖は捩じれて絡み合う三つの枝によって形作られていて、持ち手はしっかりしているが、杖先に向かって徐々に細くなっていてどこか頼りない。
青年は杖に宿る力を感じ取ろうとして、考えなしに軽く杖を振ってみた。すると呪素の影響で空間が微かに揺らぐのが見えた。彼は杖を再び握りしめると、体内の呪素を流し込もうとして、ふと思いとどまる。その杖は〈黒の魚人〉が所有していたモノで、混沌の影響を受けているかもしれない。であるなら、無闇に呪術を使用しないほうが良いだろうと判断したのだ。
『枯木人は、南部の湿地に棲む不思議な生物です』ノノは小さな声で可愛らしく鳴いたあと、物資が詰め込まれた木箱を興味深そうに覗き込んでいたリリを見つめる。『かれらは、森に呪われた存在とされています。その起源については諸説ありますが、北部の伝承によれば、ある種の――たとえば、神々の呪いに匹敵する力によって、かつて人だったものが樹木に変わり果てた姿だと言われています』
「森の呪いか、そいつは厄介な力だな」
他の混沌の生物のように自然発生する化け物だと思っているからなのか、ルズィはいい加減に聞き流す。けれどアリエルは〈枯木人〉について書かれた本を読んだことがあったので、彼女の話を真実として受け止めた。
枯木人は、枯れた古い樹木のような姿をしていて、人の顔に相当する目や口が確認できるが、それは異様に肥大化していて、肌は硬い樹皮のような黒色で、無数の枝を生やしているが滅多に動くことがない。基本的に遺跡の近くに生息しており、人間や亜人とは異なる発音で不思議な言葉で話すことができるとも書かれていた。
その特殊な体質から全身に呪素を帯びていて、自然環境を利用して様々な呪術を使うことができるとも書かれていた。たとえば、森の木々や植物を自在に操ってみせたり、樹皮の色や質感を変化させたりすることで、周囲の景色に溶け込むようにして姿を隠すこともできるらしい。
気になる点として、遺跡に侵入した盗掘者が枯木人になると記述されていることだ。古の遺物を求め、遺跡や神殿を破壊することが森の呪いを強めると考えられているためだと考えられた。実際のところ、枯木人は遺跡の守護者としての側面を持ち、ときには侵入者を襲うこともある。
その性質上、枯木人は危険な存在として知られているが、かれらが呪われてしまった理由や遺跡を徘徊する真の目的については謎に包まれていた。
『枯木人が呪術を使って森の木々を操る姿は、まるで悪夢のようだったと聞いたことがあります』ノノはそう言うと、長剣を手にしたリリが怪我をしないように注意して、それから天井付近に浮かんでいた光球を見つめる。
『巨大な樹木が倒れて、隆起した岩や土砂が崩れ落ちる様子は、まるで自然の猛威を感じさせると……。それに枯木人が操る呪術は、古の神々の時代に使用されたモノに似て、とても強力だと教えてもらいました』
生態について詳細が知られていないのは、周囲の環境に溶け込んで姿を隠した枯木人は非常に危険で、いつ攻撃されるか分からないため、多くの戦士が怖気づいて戦うことなく逃げ出すからだという。
遺跡から神々の遺物や財宝を持ち出した者がいた場合、枯木人は呪術を駆使して、相手を混乱させたり、大地を揺るがしたり、周辺一帯の環境を変化させるほどの攻撃を行うため、北部の呪術師でも容易に対処することはできない。
「魚人どもが、その枯木人の枝でつくられた杖を持っていたってことは、連中が生息する遺跡が近くにあるってことだな」ルズィは溜息をついて、それから訊ねた。「ところで、その杖にはどんな効果があるんだ?」
『そうですね』ノノは腕を組むと、長い尾を神経質そうに振る。『枯木人は呪いによって朽ちることのない身体を与えられていると信じられていて――』
「朽ちない身体か……連中は不死身なのか?」
『身体機能を維持できるだけの環境にいれば、あるいは半永久的に生きられるかもしれません。しかしそれは異常な生命力のおかげだと聞いたことがあります。たとえば、その杖に使用された枝は切断されてもなお、大気中の呪素を自然に取り込んでいて、まるで生きているかのように機能しています』
「異常な呪素の流れの正体はそれが原因か……」
『おそらく』ノノはうなずいて、アリエルから手渡されていた杖を見つめる。『呪術を使用するさい、この杖を用いれば、より多くの呪素を大気中から取り込み制御することができます』
「つまり、強力な呪術が使えるようになるってことだな。その杖を使う危険性は?」
『あります』と、彼女はキッパリと言う。
『〈黒の魚人〉がどうやって、〈枯木の杖〉を手に入れたのかは分かりませんが、混沌の残り香、あるいは瘴気と呼ばれるモノに汚染されていることが確認できました』
「浄化する必要があるのか」
『ええ。このまま使用すれば混沌の影響を受けて、いずれ正気を保てなくなる可能性があります。ですが長い間、魚人たちが所有していたモノなのでしょう。混沌の影響は薄れていて、浄化するのはそれほど難しいことではありません』
「なら、すぐに使えるようになるのか?」
『魚人の集落に向かうときまでには、浄化して使用できるようにしておきます』
「助かる」
ルズィは感謝を示すように軽く頭を下げて、それから言った。
「その〈枯木の杖〉は、呪術の扱いに長けたノノとリリが使ってくれ」
『貴重な杖ですが、よろしいのですか?』と、彼女はゴロゴロと喉を鳴らす。
「ああ、そいつの力を引き出せるのは、おそらく二人だけだからな」
『ねぇ、斧の説明はしないの?』
錆びた斧を手に持ったリリがてくてくとやってくる。
『忘れるところでした』ノノは妹から手渡された斧を両手で持つと、アリエルに差し出しながら言う。『この斧は特別なモノには見えませんが、実は驚くべき能力を持っています。刃には非常に希少な金属が使われていて、この金属は、呪素の力を安易に伝える性質を持つ導体としても知られています。そして呪素を流し込むことで、刃こぼれが修復されるという効果が付与されます』
戦闘で斧を使用したあと、通常であれば鋭い刃が鈍くなってしまうが、この金属の特性により、呪素を流し込むことで瞬時に修復されるとのことだった。そのため、刃を手入れすることなく、安心して戦闘で使用することができるという。
『それに持ち手には〈枯木人〉の枝が使用されているので、呪術を使用するさいの助けにもなります。その見た目に反して、この斧は古代の貴重な武器のようですね』
しかし泥や手垢にまみれた奇妙な持ち手は、〈枯木の杖〉のように貴重なモノには見えなかった。
アリエルは錆び付いた斧を手に取り、その汚れた持ち手を握りしめる。最初は何の変哲もないと斧だと思っていたが、意識すると、たしかに呪素の流れを感じ取ることができた。斧の刃先を見つめていると、呪素の導体としても機能する金属が青年の血に反応したのか、紅い輝きを帯びていくような気がした。
その妖しい煌めきに引き寄せられるように、アリエルは呪素を流し込もうとして思いとどまる。
『それが賢明です』ノノは小さな声で鳴くと、アリエルの手から優しく斧を取り上げる。『〈枯木の斧〉も、まず浄化する必要があります』
斧が放つ異様な気配に魅了されて息を止めていたのか、アリエルは深呼吸したあと、彼女の言葉にうなずいた。
「そう言えば、頼んでおいた護符は用意できそうか?」
ルズィの言葉に答えたのは、得意げに胸を張るリリだった。
『安心して大丈夫だよ。魚人の集落に行くときまでには、ちゃんと用意しておくからさ』
「さすが豹人だな、頼りなる」
『豹人じゃないよ、リリだよ?』
首をかしげるリリを見て、ルズィは思わず笑みを浮かべた。