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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第四章 南部
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28


 アリエルは底のない暗闇に落ちていくような、奇妙な感覚に思わず(まぶた)を閉じて、現実とも幻ともつかない世界に意識を馴染ませていく。それは嫌な感覚だったが、すでに何度も経験していた感覚でもある。慌てることなく、心を落ち着かせる。しばらくすると、暗くて不気味な石造りの廊下に立っていることに気がついた。


 薄闇のなか、壁掛け燭台(しょくだい)(あか)りだけが周囲をぼんやりと浮かび上がらせている。不意に廊下の暗闇の中で(うごめ)く異様な存在の気配を感じる。その長い廊下のさきからは、誰かの足音がコツコツと響き渡り、どこからか小さな音が――誰かの(ささや)き声のような(かす)かな音が聞こえてくる。


 それは静かに忍び寄るような、どこか恐ろしげな響きを持った声に――世界に対する激しい恨みを持ったまま死んでいった者たちの怨嗟(えんさ)の声にも聞こえた。


 だしぬけに不気味な静けさに包まれると、青年は周囲の動きに警戒しながら暗闇を見つめる。すると前方から不気味な音が聞こえてくる。その音は、重い粘液質の物体がズルズルと近づいているような恐ろしいモノだった。


 青年は闇のなかに目を()らして、そこに潜む得体の知れない存在を確かめようとしたが、その音がますます近づいてくるにつれて恐怖に身を縮こまらせた。廊下の奥から強烈な悪意を持った存在があらわれるのではないかという、根拠のない恐怖に身体(からだ)が震える。暗闇を見つめているうちに、形容しがたい恐怖感に(とら)われてしまったのだろう。


 目には見えないが、何かが暗闇に潜んでいる。それはやがて確信に変わり、心の中に追い払うことのできない恐怖を根付かせていく。不気味な気配がますます強くなってくるのを感じながら、アリエルは懸命に、ただただ恐怖に耐えなければいけなかった。それでもどういうわけか、廊下のさきに進まなければいけないという強迫観念(きょうはくかんねん)にも似た感情に囚われる。


 アリエルは背筋が凍るような恐怖を感じながら、前に足を進める。暗闇のなかで何が待っているか分からなくて恐ろしかった。しかし進むほかなかった。どのみち、暗闇のなかに潜む不気味な気配が消えることはないのだから。


 ここは俺がいるべき場所じゃない。そう叫んですぐにでもその場から逃げ出したかった。でもできなかった。背筋の凍るような――世界の(ことわり)(もと)づく強制力によって、青年は歩き続けることしかできなかった。


 と、その時だった。突然目の前の暗闇のなかで何かが白く輝いたように感じられた。直後、廊下のさきから足音が聞こえてくることに気がついた。誰かが息を切らせて走ってくる実体を持った音だ。


 淡い燐光を帯びた白い外衣を(まと)った〝顔の見えない女性〟が近づいてくるのが見える。理由は分からなかったが、彼女を一目見た瞬間、彼は心の中で小さな安堵を感じていた。


 ゆったりとした上等な衣服を着た彼女の姿は、その不気味な廊下の中で唯一安心できる存在であり、暗闇と恐怖から少しでも逃れる手掛かりだった。そうして青年は不安な気持ちから解放され、安心感を覚えることができた。


 その瞬間だけは、彼女を無条件に信じることができた。彼女の存在は自分が置かれた不可思議な状況から逃れられる唯一の希望だったからなのかもしれない。彼女はフードで顔を(おお)っており、正体は分からないが、自分を助けてくれると確信していた。


 彼女はそっと手を差し出して、優しく青年の手を引いてくれる。彼女の手を力強く握りしめたとき、心の中で〝助かった〟と叫びたい気持ちを抑えるのがやっとだった。相変わらず廊下には不気味な気配が漂っていたが、彼女と手をつないだことで、その恐怖を忘れることができた。


 しかし、その感覚が長続きしないことも知っていた。いずれ彼女が去ってしまうことも。青年は奇妙な既視感とともに、周囲に存在する気配に恐怖を感じるようになった。


 両開きの大きな扉が見えると、彼のなかの不安は確信に変わる。暗く(ほこり)っぽい部屋に入ると、扉を背にした女性は優しく微笑む。それから躊躇(ためら)いをみせながら青年の頬にそっと触れる。それは指先に止まった(ちょう)のように(はかな)げで、今にも壊れてしまいそうなほど弱々しかった。


『何も心配する必要はありません』と、彼女は悲哀(ひあい)に満ちた声で言う。


 喉が締め付けられるような感情に耐え、返事ができずにいると、それを見た彼女は微笑んで、それから何かを口にした。でも彼女の声は青年の耳に届かない。


 彼女が言い残した『何も心配する必要はありません』という言葉には、あやふやな希望が込められていたが、それを信じるしかなかった。アリエルを残して彼女が扉を閉めたあと、暗闇と静寂が彼を包み込んでいく。青年の心は再び言い知れない恐怖に押し潰されそうになる。


 しばらくして、アリエルは不気味な存在が――おそらく化け物の(たぐい)が、暗闇のなかに静かに立っていて、自分に向かって何かを訴えかけようとしていることに気がつく。青年はソレが何を求めているのか分からなかったが、その存在は彼に不安を与える。理由は分からない、己の血に宿る能力を使い呼び出す死者から向けられる憎しみを含んだ感情に似ていたからなのかもしれない。


 と、アリエルは、ひとり部屋に取り残され、不気味な静寂が辺りを包み込んでいるなか、子どもの姿を見る。こちらに背中を向けた幼い子どもの姿が、ゆらゆらと揺れる蝋燭(ろうそく)の灯りに照らされている。顔を見ることはできないが、子供の手には首と腕が欠けた布人形が握られており、その残酷な姿は彼の心を震わせた。


 どうして城の地下に子供が?

 いや、そもそもどうして城の地下にいると分かったのだろうか?


「まずは、ひとり」と、子供のクスクス笑いが響き渡った瞬間、アリエルは全身の鳥肌が立つのを感じた。その声は、喉を潰されて死んだ子どもが無理やり発音しているような、不気味で耳障りな響きを含んでいた。


 アリエルが近づこうとすると、子供は布人形を投げ捨てる。その人形は放物線を描きながら闇のなかに落下して、そしてついに何も見えなくなった。



 そして青年は〈白冠の塔〉の自室で目を覚ます。

「いつもの夢か……」

 しかし青年が見た夢は、現実と区別がつかないほど鮮明なものであり、その不安と恐怖はまだ胸のなかに残っていた。


「いやな感覚だ」

 身支度するために立ち上がる。まだ身体(からだ)の節々が痛むが、つねに呪素(じゅそ)を循環させているからなのか、そこまでひどい状態ではなかった。呪素で臓器を保護していた魚人を真似(まね)て始めたことだったが、それなりの癒しの効果があるようだ。


 水筒と桶を手に取ると、呪術器によって生成される水を使いながら顔を洗い、周囲の様子を観察する。広い空間に窓はなく外の様子を確認できる手段はなかったが、呪術による照明が天井付近に浮かんでいるので、視界が悪いということもない。


 その空間には豹人の姉妹のための寝台や、ラライアの寝床も用意されていたが、彼女たちの気配は感じられない。ちなみに彼女たちの生活空間は、布と木材を使った間仕切りが立てられていて、アリエルが彼女たちの着替えや何やらを覗き見ることがないように配慮されていた。


 アリエルに性的な下心がないと分かっていたからなのか、彼女たちは間仕切りが必要ないと言っていたが、そこは青年が(ゆず)らなかった。彼も健全な男子であり、女性の身体(からだ)に興味がないと言えば嘘になる年頃だった。それに彼女たちに不快な思いをさせたくなかった。もっとも、青年はその感情を持て余している(ふし)があった。


 アリエルは、その年齢しては驚くほどしっかりしていて、思慮深く落ち着いた青年だった。しかし彼のこれまでの人生の多くは〈混沌の脅威〉との戦いが占めていたので、異性に接するという経験が圧倒的に不足していた。だから分からなかったのだ。自分のなかにある性欲や、女性に対する気持ちをどのように扱えばいいのかを。


 とにかく黒衣を着て身支度を済ませると、ノノが作業机に残してくれていた書置きを確認して、それから武器庫に向かうため転移門として機能する〈転移の円環〉の中央に立つ。どうやら敵魚人から回収していた戦利品の確認をするため、ルズィに呼ばれていたようだ。


 あの奇妙な杖や斧を彼女たちの呪術で鑑定してもらっているのかもしれない。そんなことをぼんやりと考えていると、アリエルは空間移動のさいに発する光に包まれて、その場からフッと消えた。

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