24
その〈黒の魚人〉は、たしかに黒く艶のある鱗に覆われていて、特徴的な金色の網目模様があることが確認できた。しかし〈青の魚人〉の死体を吊るした灰色の枯れ木を旗竿のように背負っていることもなければ、体格や鱗のあちこちにできた傷も以前遭遇した個体とは異なっていた。
『べつの魚か。しかし網目であることに変わりない』昆虫種族のザザは四本の腕に、それぞれ異なる武器を手にする。『覚悟しろ、忌々しい魚よ。今度こそ八つ裂きにしてやる!』
ザザが昆虫じみた瞬発力で飛び掛かった瞬間、魚人が腰に吊るしていた斧を手にするのが見えた。持ち手は捩じれた枯れ枝を加工した醜い代物で、それは汗や泥で変色していた。錆びついた刃は酷使されてきたのか、刃こぼれしていてひどい状態だった。しかしその劣悪な斧でも、ザザの強烈な一撃を難なく防いでみせた。
『ハッ! まさに真の戦士に相応しい武器ということだな!』
いつもの調子で大顎を鳴らしたあと、渾身の前蹴りを叩き込む。衝撃で魚人が吹き飛び葦原に消えると、その後を追うようにザザは駆け出す。
「エル、あいつをひとりにするのは危険だ。助けに行ってやってくれ」
「いいのか?」質問をしたあと、アリエルはバヤルに視線を向ける。
「ああ、大丈夫だ、あいつは俺ひとりで対処できる。問題は網目の魚人だ」
「了解。行こう、ラライア」
アリエルたちがいなくなると、ルズィは腰に吊るしていた両刃の剣を抜いた。それを見ていた赤ら顔のバヤルは舌打ちすると、嫌な音を立てながら痰を吐いた。
「役に立たない野郎だ」
何か引っ掛かる言葉だったのか、ルズィは思わず顔をしかめる。
「あの魚人がここに来ることを事前に知っていたのか?」
「知ってるも何も、あいつは俺が連れてきたんだ」
困惑した表情を浮かべるルズィを見て、バヤルは嬉しそうな笑みを浮かべる。
「へぇ、いつも気取った顔をした〝守人さま〟も、さすがに今回のことには驚いているみたいだな。でもまぁ、その気持ちは分かるよ。あの魚もどきをここまで引っ張ってくるのには苦労したからな」
「何をしたんだ?」
「赤い眼のガキと昆虫野郎が手も足も出せないのを見て、ピンと来たんだ。あの魚はおまえたち守人を殺すのに使えるってなぁ。だからすぐに奴のあとを追わせて、監視するように部下に指示を出した。まぁ、あんたは仲間の心配で気づいていなかったようだが」
「〈黒の魚人〉に俺たちを殺すように頼んだのか?」
ルズィの疑わしそうな目に、バヤルはうんざりしながら言った。
「守人っていうのは、どいつもこいつも犯罪者っていう噂だったが、どうやら本当のことみたいだな。普通に考えれば、あの醜い魚どもと言葉が交わせないことくらい分かるはずだからな。でも知恵が足りない犯罪者にはそれすら理解できないみたいだ」
「認めるよ、たしかに守人の多くはお前の同類で、卑怯者で臆病な罪人の集まりだ。けど訓練と実戦によって得られた知識と経験は、彼らの人格にまで影響を及ぼす。そして彼らは森の守護者として、名誉のなんたるかを知る人物になる」
「てめぇはよ、さっきから何が言いたいんだ?」
感情を隠さなくなったバヤルは恐ろしい目つきでルズィを睨む。
「ただ存在しているだけで何も生み出さず、それでいて他人のモノを奪い、平気で殺しに手を染める無法者とは違うってことが言いたかったんだ」
「偉そうにしやがって、その他人を見下すような態度がずっと気に入らなかったんだ」
バヤルの言葉にルズィは肩をすくめて、そらから小馬鹿にしたような顔で鼻を鳴らす。
「知ってたよ。それにお前がどんなに嫌なことを言われても、俺の指示に従うことも」
実際、激しい怒りにバヤルの顔が赤黒く染まるのを何度も目にしていた。しかし彼は絶対に命令に背くようなことはしなかった。
「クソ野郎が!」バヤルは気持ちを落ち着かせるように息を吐いたあと、ルズィを睨みながら言った。「だが、それも過去のことだ。お前はここで死に、俺がすべてを手に入れる」
「すべて?」
「ああ、すべてだよ。そもそもこの遠征が成功するなんて俺はこれっぽっちも考えていなかった。もちろん夢のような財宝があるなんて信じていない」
「なら、どうして遠征に参加したんだ?」
「報酬だよ。あの商人からそれなりの額の報酬を受け取ることができたし、湿地に埋もれた遺跡には手付かずの宝が眠っている。古代文明の金貨やら呪術器が手に入れば、それで良かった」
ルズィは剣の重さを確かめるように軽く刃を振ったあと、得意げに話を続けていたバヤルに質問した。
「手に入れられるかもしれない宝の山を諦めたのは、〈白冠の塔〉を奪うためなのか」
バヤルの目つきは魚人のソレと同じように、冷たく生気の失せたものに変わる。
「ああ、そうだよ」彼はいとも簡単に認めた。「目の前に神々の遺物に匹敵する呪術器が――いや、神々の遺物そのものがあるんだ。それを手に入れたいと思わない野郎なんていないさ。そうだろう?」
「名刀を手にしたからといって、剣術の達人になれるわけじゃない。〈白冠の塔〉も同じだ。あれは誰にでも扱える代物じゃない、それくらいのことは知ってるんだろ?」
「俺を馬鹿にしてるのか?」
ルズィが黙っていると、バヤルは語気を強めた。
「俺を馬鹿にしてるのかって聞いてるんだよ!」
それから、だしぬけにバヤルは態度を変えた。
「まぁ、いい。転移門を開くために、てめぇの生体情報とやらが必要なことは知ってる。でもな、てめぇの血を手に入れることができれば、その問題を解決するのはそれほど難しいことじゃない」
「どうだかな」ルズィは素っ気なく言う。「その可能性は万にひとつもないと思うが、ここで俺を殺したあとはどうするつもりだったんだ。お前の敵は野営地にもいるんだぞ」
「なあに、厄介なのは猫の姉妹とオオカミだけだ。部隊を指揮する守人がいなくなれば、どうとでもなる。それに連中は今頃、あの醜い魚どもに襲撃されているはずだ」
「その魚人もお前が手引きしたのか?」
「ああ、当然だ。いつでも魚どもを挑発できるように、部下に連中の監視をさせていた。俺はなぁ、いいか、もう一度言うぞ。俺はどんなときでも準備は怠らない人間なんだよ」
バヤルの言葉にルズィは溜息をついて、それから言った。
「そんな稚拙な計画で、本当に〈白冠の塔〉が奪えると思っていたのか? お前には失望したよ。もう少し頭が回る男だと思っていたけど、俺の見込み違いだったようだな。……でも、お前が暗部と関係のない人間だってことが分かって良かったよ」
「暗部……? 何を言っているんだ?」
バヤルが間抜けな表情を見せると、ルズィは頭を横に振った。
「忘れてくれ、お前に関係のないことだ。それより――」
呪術の炎で炭化するまで焼き尽くして、灼熱地獄の痛みと苦しみを与えてもよかったが、ルズィはアリエルや豹人の姉妹のように大量の呪素を操作できるわけではなかった。だから今回は純粋な暴力で裏切り者を始末することにした。
ルズィの残忍な光を帯びた目で睨まれると、バヤルは怖気ついて後退る。けれど何かに期待しているのか、しきりに周囲を見回していた。
「……まさか、ほかにも〈黒の魚人〉がいるのか?」
その言葉に反応すると、バヤルは何かを口にしようとして得意げな表情を見せたが、それはすぐに苦痛の顔に変わる。何処からともなく飛んできた〈氷槍〉がバヤルの脇腹と太腿に突き刺さる。
「魚人の呪術師をつれてくるなんて、血迷ったのか――」
ルズィは咄嗟に横に飛び退いて鋭い氷の塊を躱すと、サッと視線を動かして遮蔽物を探すが見つからなかった。そこで彼は護符を使って傷を治療しようとしていたバヤルのもとに駆けて、その身体を盾にすることにした。直後、無数の〈氷槍〉がバヤルの胸に突き刺さる。
血を吐き出していたバヤルから離れると、横に薙ぎ払うように腕を振り、呪術の火炎で周囲の空間を焼き尽くしていく。呪素を温存するなんて下手な戦い方はできなかった。と、燃え盛る葦原を背景に、二体の〈黒の魚人〉が立っているのが見えた。