10
時折吹きつける冷たい風の中に、濃い煙の臭いと腐臭が混じっているのが感じられた。アリエルは何度も戦を経験していたが、この臭いに慣れることはできなかった。鉄臭い血液と饐えた糞尿の臭いが数日間、鼻について離れなかったこともある。その臭いを嗅ぐたびに、この手で殺してきた者たちの顔を思い出すこともあった。
足元に注意しながら通りに出ると、時と共に朽ちて倒壊した宗教建築物が連なる通りで、大柄の豹人が指揮する部隊と対峙した。
『……首長が贔屓にしている守人さまじゃないか』と、額に腫瘍のような大きな瘤がある豹人は唾を吐き、それから手の甲に付着していた血液を舐めて唸る。
濃い赤墨色の体毛を持つ豹人は死体の上に座っていた。その背後では、彼の部下だと思われる豹人が大の字に倒れた死体の側に屈みこんで、手斧を使って首を切断しようとしているのが見えた。
彼の側には人間の戦士が立っていたが、女戦士の遺体を辱めている仲間の猟奇的な行動に関心を示すことなく、別の死体から奪った背嚢の中身を物色していた。
『おいおい、無視するなよ。こう見えて俺は小さな部隊の面倒を任されている戦士なんだ。お前のような辺境の野蛮人が無視していい戦士じゃない」
アリエルは豹人の言葉を無視すると、通路の反対側、神殿の数少ない侵入口である窓を必死に破壊しようとしていた集団に視線を向ける。しかし鉄製の格子が破壊できなかったのか、彼らは侵入することを半ば諦めているように見えた。
その集団のひとりと目が合うと、彼は連れの戦士に向かって何かを口にした。次の瞬間、彼らは遊び相手を見つけた子どものような、残忍な笑みを顔に張り付けながらこちらに歩いてきた。
『無視か……。どうやら礼儀も知らないみたいだな。まぁ無理もないか。辺境の砦で生きる守人には、部族の常識は通用しない』
彼はそう言ったあと、仲間の戦士たちと一緒になって下品な声で笑う。それを見ていたアリエルは真剣な面持ちでうなずいた。
「あんたの言っていることは間違っていない。残念ながら俺たち〈境界の守人〉の多くは追放者だ。もちろん例外はあるが、盗人や犯罪者として辺境の砦に送られる。そこにまともな教育を受けている奴なんていない、文字が読めるのかも怪しい。でも砦の守人たちに家族として迎えられ、森で生きるすべての生命の守護者としての命を捧げる覚悟をした戦士たちは、決して死体を辱めて楽しむようなことはしない」
アリエルの言葉が気に障ったのか、豹人は表情を歪めながら唸る。
『俺たちのことを馬鹿にしているのか?』
けれど部下に冷静なところを見せようとしているのか、彼はすぐに取り繕うように喉を鳴らした。
『まぁいいだろう。それより、お前たちが神殿からやってくるのが見えたんだ。あそこに入る方法を知っているんだろ』
「どうだろうな」と、アリエルは余所見しながら気のない返事をする。
『いいじゃないか、神殿に入る方法を俺たちに教えてくれないか』
青年は軽蔑するような目で豹人を見つめる。
「悪いが、神殿にあるモノは誰にも譲る気がないんだ。お前が死体に群がる蠅よりも哀れで惨めな奴だってことは分かるが、あれが欲しいのなら戦って勝ち取ればいい」
『ダメだ』
彼は頭を横に振り、薄汚れた黒い鬣を揺らしながら鼻を鳴らして近くの死体に痰を吐きかけた。
『戦闘で得られる捕虜と物資、それに金銀財宝に至るすべての略奪品は我らの首長のモノだ。そうだろ? ここで争うことに意味はない』
アリエルは肩をすくめて、それから言った。
「悪いけど、あれは俺の首長じゃない。それに、俺たちの行動を制限できる掟が存在するというのなら、それは〈境界の守人〉の掟だけだ」
豹人のとなりに立っていた男は、つまらなそうな表情で笑ってみせた。
器用なことをする男だ。
『勇ましい戦士を演じたいのは分かった』と、豹人は顔を歪める。『けどな、死ぬのは痛くて、とても苦しいことなんだ。お前もイヤだろ。そういうことを経験しながら死んでいくのは』
青年は押し黙ったまま略奪部隊の人数を数える。通りの向こうから近づいてくる敵対者は人間と豹人を合わせて十三人になる。アリエルは兄弟たちと別れていたので、今はノノとふたりだけだった。まともに戦えば勝ち目はないだろう。しかし彼には切り札があった。それなりに体力を消耗するが、生き残るために最善を尽くすべきだと考えていた。
『おい見ろよ、もう口が利けなくなった。森の守護者さまは戦士たちの姿を見て怖気づいたみたいだ』
醜い豹人が奇妙な声で笑うと、彼の部下も一緒になって笑う。
『おい、赤眼。さっきまでの軽口はどうしたよ?』
アリエルは豹人の言葉を無視しながら考える。神殿内にはリリと片耳の守人を残してきていたが、彼らの安全のためにも略奪部隊は排除しなければいけないだろう。彼らは好戦的に過ぎる。首長の戦士だが、厄介なことになる前に対処したほうがいい。
『なぁ、悪いことは言わない』と、豹人は下品な笑い声を上げる。
『その神殿を俺たちに譲っちゃくれないか。俺は教会やら神殿やらが大好きなんだ。とくに神に仕える女が大好物だ。お前、巫女を犯したことがあるか? これが楽しくてなぁ、必死に神さまとやらに助けを求めるんだ。そのくせ最後には生にしがみつく。なんでもするから殺さないでくれって、必死に泣き縋るんだ。神との誓いはどうしたんだろうなぁ。もっとも、罪人のナニを咥えた女を救おうとする神なんていないと思うが……。なぁ、この話、面白いと思わないか、俺は笑いが止まらないよ』
ノノが抜刀するのとほぼ同時に、略奪部隊も武器を構えて戦闘態勢をとる。
アリエルは手を上げると、ノノの動きを制した。
「まったく笑えない。芸人になりたいのなら諦めたほうがいい」
その挑発とも取れる言葉に豹人はじっと堪えていた。その爪でアリエルを八つ裂きにしたかったに違いないが、見かけによらず慎重なのか、その機会を窺っているように見えた。
『考え直す時間はたっぷりある。俺に従う気がないのなら、その気にさせればいいだけだ。そのときは、ついでにその娘も頂くことになるがな』
「なぁ、神々の子供たちについて知っているか」
アリエルの言葉に豹人は顔を歪める。
『てめぇ、なに言ってんだ。俺が毛のないサルどもの神を信じるとでも思ってんのか』
「いや、人間が信仰する偽りの神々のことを話しているんじゃない。古の神々のことだ。俺の身体にも流れているんだよ、その神の血が」
『それが何だって言うんだ!』豹人は怒りに任せて唸る。
『今さら俺たちが怖気づくとでも思ってんのか。呪術師なんてな、何人も殺してきたんだ。夜襲のときにも派手な攻撃をしてきた能力者がいたが、いつの間にか死んでやがった。お前たち毛のないサルの呪術なんて、その程度なんだよ』
『哀れな獣』と、ノノが小さく唸る。
『部族から追放されて、女神さまにも見捨てられ加護を失った。だから貴方には見えない、エルのなかに潜むモノの正体が』
アリエルの視界はゆっくり白黒に染まっていった。世界が色を失うと、あちこちに倒れていた敵守備隊や略奪部隊の死体から、黒い靄のようなモノが立ち昇るのが見えた。やがてそれは人の形を成す黒い影に変わる。
周囲の変化に気が付くと、豹人は声を荒げる。
『お前、なにをしたんだ!』
急に目の前に出現した影に驚いて彼は立ち上がろうとしたが、先ほどまで自分が椅子代わりにしていた死体に躓いて背中から地面に倒れてしまう。
『感謝してもらいたいものね』と、ノノは牙を見せながら微笑む。
『貴方たちがその呪術師に殺されなかったのは、私たちがいたおかげなんだから』
青年は前に進み出ると、狼狽える戦士たちを見ながら黒い影に言った。
「屠れ」と。
虚空より出現した十二体の影は、黒い靄で形成された刃で略奪部隊に襲いかかった。戦士たちは実体のない煙のような存在に対処することができず、悲鳴を上げながら殺されていく。
「おい」青年は醜い豹人に近づくと、地面に転がっていた誰のモノとも分からない太刀を拾い上げる。「どうした。女を泣かせるみたいに、俺を泣かしてみろよ」
豹人は立ち上がると目に見えない速さで刀を抜いた。
「ふ、ふざけるな。化け物が」
「化け物……? 違う、俺は――」
豹人は青年に向かって飛び掛かると、容赦なく刃を振り下ろした。
アリエルは人間離れした動きをみせた豹人の一撃を打ち弾いた。次の一撃も、その次の一撃も。金属が打ち合う甲高い音に合わせて、殺されていく戦士たちの悲鳴が聞こえる。
豹人が太刀を振り上げた一瞬の隙を突いて、青年は前に踏み込むと刀の切っ先で豹人の腹を突いた。彼が痛みに唸り吐血するのが見えると、刀の棟で顎を打った。グシャリと下顎が砕けると、ザラザラした長い舌が垂れ下がる。
豹人がよろよろと後退ると、その太腿をさっと斬りつけた。彼が地面に膝をつけると、肩口から刃を叩きこんだ。刃は古びた革鎧を裂いて、容赦なく骨を砕いた。
彼の瞳は揺れ、アリエルに手を差し伸べる。けれど青年は豹人の胸部に突き刺さっていた刀を手放すと、その手が身体に触れる寸前に距離を取る。
「お前の憎しみはいらない」
豹人が倒れ、自らの血溜まりで溺れるのを見届ける。それから青年は頬に付着した返り血を拭い、周囲に視線を向ける。
敵対する戦士たちが死んでも尚、黒い影の攻撃が止むことはなかった。悲鳴が聞こえなくなると、原形を留めないほどに何度も突き刺され叩き潰された肉塊ができあがっていた。
そこでようやく黒い靄は動きを止めた。その動きは奇妙で、生物の動きには見えなかった。死者の憎悪を糧にして出現した黒い影は、しばらく青年に顔を向けていたが、やがて風にあおられる煙のようにすっと消えていった。
不意に足元がふらつくと、アリエルはその場に倒れそうになる。ノノに身体を支えられると、彼は必死に吐き気をこらえた。死者の苦しみや憎しみ、痛みや悲哀といった無数の感情が流入してくる。青年は歯を食いしばる。そのまま地面に片膝をつくと、胸から飛び出しそうなほど早く打つ心臓の鼓動を聞きながら心を落ちつかせようとする。
『どうしてあんな無茶をしたのですか。エルの能力がなくとも、私の呪術だけでも対処できました』
ノノはそう言うと、青年の背中を優しくさする。
『どうか冷静にお願いします。貴方は我々種族にとって、いなくてはならない重要な人なのですから。憎しみに身をまかせて、死に囚われないでください』
アリエルは身体の中で渦巻く負の感情を吐き出すように大きく息を吐き出す。瞼をきつく閉じて、死者たちが残していった怒りや憎しみの感情を追い出すために、他のことを考える。しだいに戦場の片隅で、それも死体に囲まれながら、こんなことをやっている自分自身の姿がなんだか滑稽に思えてきて笑ってしまう。
『もうよろしいのですか』と、いつになく優しい声でノノが言う。
「大丈夫だ。心配を掛けたな」
青年は足に力を入れて立ち上がる。
「問題を片付けに行こう」