16〈女神ンヌゥウルキト〉〈変身〉
石柱に囲まれた神殿は、アリエルがこれまでに見てきた建築物のなかで際立って美しいモノではなかったが、見る人を圧倒するような気配に畏怖の念すら感じられた。
その神殿の入り口にラライアが立っているのが見えた。けれど彼女はオオカミの姿ではなく、人の姿としてそこに立っていた。オオカミの体毛は魚人の返り血と泥でひどく汚れていたので、臭いを気にして人の姿に戻ったのかもしれない。
戦狼の巨体は種族特有の呪い――おそらく神々の血に関係する能力と、大気中の呪素によって維持されていて、人に姿を変えると、それまで存在していた肉体は崩壊し消滅してしまう。しかし変身について厳密に説明するなら、その肉体は別次元に存在する異空間に転送され格納されたにすぎない。
彼女の意思でオオカミの姿に変身するさいには、再び〝こちら側の世界〟にオオカミの肉体が召喚され、彼女の精神や魂と呼ばれるモノと融合することになる。
ソレが次元を超えるさいには、呪素によって肉体の組織が再構築され、本来の姿――あるいは、そうあるべき自然の状態で肉体が召喚されることになるため、体毛の汚れや傷がない状態で出現することになる。もちろん、それにも限度というものが存在していて、治療に膨大な呪素を必要とする傷は修復されない。それを理解しているからこそ、ラライアは人の姿に変身することにしたのだろう。
ちなみに変身の能力について知られていることは少ない。呪術を研究する〝赤頭巾〟と呼ばれる組織には、〈変身〉の呪術を使い、その姿を自在に変えることのできる呪術師がいると噂されていたが、身体の一部を変化させるにも膨大な呪素が必要になるため、その呪術を扱える者が本当にいるのか疑問視されていた。
結局のところ、戦狼のように種族特有の能力を持たない者にとって、変身というものは理解の及ばない呪術であり続けるのかもしれない。
神殿の入り口でラライアと話をしていた〈青の魚人〉は、アリエルたちが助けた魚人のひとりで間違いなかった。馴染みのない種族の顔を区別することは難しかったが、彼女は獣の皮と植物を加工して作られた特徴的な腰巻を使用していたので、すぐに見分けることができた。
その魚人はアリエルの姿を見つけると、彼が来てくれたことに安心したのか、ニコリと笑みを浮かべる。獣の牙を思わせる鋭い犬歯が見えなければ、それは幼い子どものように無邪気な笑みに見えただろう。彼女はパタパタと小走りでやってくると、アリエルの手を取って神殿に連れて行こうとする。
上空から〈青の魚人〉の集落を観察していた段階では、彼女たちは総じて警戒心の高い部族に見えていた。しかし元々人懐こい性質の種族だったのか、アリエルに敵意がないことが分かると、途端にそれまで見せなかった一面を垣間見せるようになった。
『油断するな、若き守人よ』と、いつの間にかやってきていたザザが言う。『その魚は子どものように振舞っているが、それは我々を安心させるための罠なのかもしれない』
昆虫種族の言葉を理解したのか、それともザザが打ち鳴らした大顎に反応したのか、彼女は牙をみせながら威嚇してみせた。しかしザザは魚人を相手にせず、神殿の入り口にある巨大な扉に複眼を向けた。
『見ろ、偉大な神々に捧げるために刻まれた芸術だ。これこそ部族の誕生を、そしてその創造の秘密を描いた場面で間違いないだろう!』
アリエルは感嘆の声をあげるザザのとなりに立つと、重厚な扉を見上げ、そこに刻まれた精緻な浮き彫りを眺める。赤銅色の重金属だろうか、傷ひとつない未知の金属で造られた扉は古代遺跡に存在する遺物だとは思えないほど綺麗に磨かれていて、アリエルたちの姿を鏡のように映していた。
その扉に描かれていたのは、無数の巨人と異形の姿をした神々に囲まれた小さな人々の姿だ。無秩序に配置された眼と口、それに複数の触手を持つ不定形の肉塊のとなりには、女性の上半身に山羊の下半身を持つ得体の知れない化け物が描かれている。悍ましい化け物の集会かと思えば、そのすぐとなりには、人間の理想を形にしたような肉体を持つ裸の男性が立っている。
そこに描かれている神々同様、人々も多種多様な姿で描かれ、性別の違いはあれ、ひとりとして同じ種族は存在しなかった。ザザが言うように、一見すれば創造主である神々に首を垂れ、跪いている姿にも見えた。
しかし武器を手にした小さな人々を見て、アリエルは奇妙な違和感を覚える。まるで神々との決別を描いているような、そんな場面にも見えたからだ。であるなら、これは人々の創造ではなく、人々の罪を――己の創造主に抗う人々の原罪を描いている場面ではないのだろうか?
『それにしても美しい』
ザザが扉にそっと触れる様子を見ながら、アリエルは疑問を口にする。
「ザザは事あるごとに女神の名前を口にしているから、創造主に熱狂的に傾倒する種族のように、あまり他の神々に興味がないんだと思っていたよ」
『若き守人よ、昆虫族の女神〈ンヌゥウルキト〉は寛大なのだ。我々は自由に森の神々や、数え切れないほど存在する古の神々に祈りを捧げることが許されているのだ』
「女神さまは、他の神々のように嫉妬深くないと?」
『当然だ』ザザは振り返ると、魚人に複眼を向ける。『そのような些細なことで気分を害するような御方ではない』
大柄の昆虫種族に見つめられて驚いたのか、青い肌を持つ魚人は青年の側を離れて、ラライアのもとにペタペタと駆けていく。その様子を見ながら、アリエルは気になっていたことを訊ねる。
「ところで昆虫族の女神さまは、どんな姿をしているんだ?」
やはり女神というのだから、絶世の美女の姿をしているのだろうか……いや、そもそも昆虫種族の美醜は、どのように判断するモノなのだろうか? 正直、アリエルには昆虫種族の男性と女性を見分けることもできそうになかったのだ。
触覚や色鮮やかな体表で区別するのだろうか、それとも翅の色や体格の違いで判断するのだろうか。昆虫種族とされる亜人には多くの部族があり、ザザのようにバッタめいた姿の部族もあれば、イモムシや蝶のような身体を持つ種族も存在する。それが問題を余計に複雑に、そして難しくさせているのかもしれない。
しかし想像力の欠如なのか、どんなに女神の説明を聞いても、アリエルには複数の複眼を持つ巨大な〝蚊〟の姿しか思い浮かべられなかった。どうして昆虫族の女神は、よりによって虫一匹殺せないような蚊の姿をしているのだろうか?
恐ろしい病を媒介する蚊が存在することは森の部族にも知られていたが、果たしてそれは女神に相応しい姿だと言えるのだろうか?
アリエルがあれこれと考えている間、ルズィとザザは神殿の扉を動かそうとしていたが、それはビクリとも動かなかった。けれど魚人が水掻きのついた手で触れると、扉は簡単に開いてしまう。微かな音も立てず滑らかな動作で開く扉からは、呪素の気配は感じられなかったが、何かしらの呪いが開閉の仕掛けとして使われているのは間違いないだろう。
魚人は舌を鳴らすようにして奇妙な音を立てたあと、ラライアの手を引きながら神殿に入っていく。舌打ちするようにして発生する音は、〈青の魚人〉が言葉を発するときに聞こえる独特な言語音だった。
舌を鳴らす位置や音の強弱で様々な感情を表現しているのだが、似たような音にしか聞こえないため、発音を正確に聞き分けることはできなかった。そこから言葉として理解することなど不可能に思えた。
しかし〈青の魚人〉と意思の疎通を図るのなら、まずその僅かな音の違いを理解して、彼女たちの感情につなげることが重要になってくるのかもしれない。
「やれやれ」
アリエルは思考を打ち切ると、上空の鳥を使って周囲に敵がいないことを再度確認して、それから神殿内に足を踏み入れることにした。