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紅い眼の守人が魚人の頭部に手斧を振り下ろすたびに、グシャリと嫌な音が聞こえてくる。遺跡の壁から出現した〝鎧の戦士〟によって敵魚人が撤退し、キピウの群れが駆逐されると、その場に残った敵の止めを刺すため、紅い眼の守人は恐ろしいオオカミを連れて神殿の敷地を出た。しかしその守人を手伝おうとする傭兵はひとりもいなかった。
魚人との戦いで誰もが傷つき疲れていた。それなのに、どうしてわざわざ安全な場所から出ていって、虫の息になっていた魚人に止めを刺す必要があるのだろうか。
けれど、紅い眼の守人は何かが違う。まるで血に飢えた獣のように、彼は横たわる魚人に向かって斧を振り下ろし、その身に気色悪い体液を浴び、黒衣をヌラヌラとした返り血に染めていく。
「見ろよ、吸血鬼が殺しを楽しんでやがる」
傭兵のひとりがとなりにやってくると、弓を手にした狩人は不快な表情を見せた。
「やめろ、あの青年は俺たちを助けるために最善を尽くしてくれたんだ」
「最善ね……。俺には、いかにも戦いを楽しんでいるようにしか見えなかったが」
「なら、お前の目は節穴だな」
細身の傭兵は肩をすくめる。
「あの守人は吸血鬼なんだろ? 俺たち人間を助けたことにも、きっと深い意味はないぜ」
「どういう意味だ」狩人は顔をしかめ額に皺を寄せる。
「あのバッタ野郎を見てみろよ」
傭兵が顎をしゃくると、死体から装備を回収していた大柄の昆虫種族の姿が見えた。
「あれは味方のことなんて考えていない。いや、そもそもあの醜い頭のなかで何を考えているのかも分かりゃしない。所詮、奴ら亜人は俺たちと価値観を共有できない生き物なのさ」
「虫野郎なんてどうだっていい。それより守人だ。彼のことを悪く――」
「おいおい、いったいどうしたっていうんだ。あの戦いで助けてもらったからって情がわいたのか?」
「だったらなんだって言うんだ」狩人は舌打ちする。「それに吸血鬼なんてモノは存在しない。それは過酷な環境に耐えきれずに北部から逃げてきた部族の戯言だ」
「北部の広大な地域を占める〈赤霧の森〉には――」と、細身の傭兵は自分自身の言葉に酔っているかのような、どこか得意げな声で言った。「人間の血を好む〝夜の狩人〟と呼ばれる悪鬼が徘徊している。真っ白な肌に真っ赤な瞳を持つ怪物は、生命あるものを見境なく襲い、その血を啜ると信じられている……」
それを聞いた狩人はウンザリした表情をみせた。
「そう、その馬鹿げた戯言だ。夜の狩人なんてモノは存在しない。そいつは子どもに聞かせる出来の悪い寝物語でしかない」
「でもよ、そいつが本当だったらどうするよ。お前も知ってるだろ。奴はネコの姉妹に好かれていて、いつも一緒に行動してやがる。北部からやってきた者同士、何かと気が合うんだろう。……いや、もしかすると――」何かを思いついたのか、傭兵は厭らしい笑みを浮かべる。
「あの背の高い美人も、男を知らない初心な少女みたいに、いつも奴のことを見つめている。きっと吸血鬼が使う〈魅了〉の呪いの所為だ。でなければ、いいとこのお嬢さんがあんなガキにいい顔をするはずがない」
「そいつはただの妬みや僻みにしか聞こえないな」
狩人の言葉に傭兵は唾を吐く。
「だったら、あの化け物じみたオオカミはどう説明するんだ。どうして奴にだけ懐いてるんだ。怪しげな呪術を使っているに決まってる」
「それは〝黒い人々〟の商人が説明してくれただろ。あのオオカミは古の盟約で守人と協力関係を築いていて、辺境の森で混沌の化け物と戦ってくれているんだ。それにな、狩りに使うために捕まえてきた凶暴な犬だって、長年一緒に仕事をしていれば懐いてくれるものさ」
「犬畜生はそうだろうよ、でもあれはオオカミの化け物だ。それにな、黒人どもは口が達者なだけで、本当はなにも知りはしないのさ」
「おい、言葉に気をつけろ」狩人は細身の傭兵を睨む。「お前がどう思おうと、あの若い商人は俺たちの雇い主なんだ。お前が〈抵抗の丘〉を出るときに、とびっきりの高級娼婦を買って、そのうえで無様に腰を振れたのも彼のおかげなんだ、忘れたのか?」
細身の傭兵は素手で鼻をかんだあと、ボロ切れにしか見えないマントで汚れた手を拭く。
「ふん、成金の小僧がなんだっていうんだ。奴が何を思おうが俺の知ったこっちゃない」
「成金じゃない。フォレリの姓を名乗れるのは由緒正しい一族だけだ」
「フォレリ……ね。まぁ、なんだっていいさ。それより俺たちはいつまでこんな場所にいなくちゃいけないんだ。また魚人どもに襲われて蛆虫の餌にされちまうぞ」
「さぁな、守人に訊いてくれ」
狩人は意味のない会話にウンザリしていたが、傭兵は少しも気にしている様子はなかった。
「どうして守人に訊くんだ。俺たちの隊長はバヤルじゃないのか?」
バヤルの名を聞いて狩人は舌打ちする。かれには、傭兵たちが戦いから逃げ出した臆病者のことを慕う理由が理解できなかったのだ。確かにバヤルは普通の傭兵ではない。呪術師たちにしか使用できないような、攻撃のための呪術を使うことができる。しかしそれも守人の前では霞む。なにより、戦っている部下を見捨てて逃げる指揮官がどこにいるというのだ。
「ずいぶんと不機嫌なんだな」傭兵はニヤついた笑みを浮かべながら言う。「でも分かるよ、俺も鬱憤が溜まっていて、どこかで気晴らしがしたい気分だからな。それに女の肌が恋しい。なんだったら、あの青い魚人を相手にしてもいいって思ってるくらいだ。お前、アレの身体を見たか、亜人のくせにやわらかそうな胸をしてやがった。あいつらを捕まえて縛り上げたあと、みんなで楽しむのもいいんじゃないか」
狩人は傭兵の言葉に心底嫌な気分になると、その場に彼を残して壁の頂上に続く階段に向かう。退屈な見張りをしている方が、よほど気を紛らわすことができると考えたからだ。
一方、黙々と魚人を始末していたアリエルは手を止めて、近づいてくるルズィとバヤルに視線を向けた。
「どうしたんだ?」
アリエルの問いに、ルズィはどこか不安そうな表情を浮かべながら答える。
「遺跡から出てきた〈青の魚人〉が、俺たちを神殿に招待している」
「あの神殿のなかに入る許可が出たのか?」
「そうらしいな。ラライアが話をしているから、ちゃんと魚人の言葉を理解できているのか疑問だが」
「理由は聞けたか?」
「いや、魚人の考えていることは謎のままだ」
「そうか……。でもこれで湖を渡るために、何かしらの手助けを得る交渉ができるかもしれない」
「あの魚どもに話し合いができるほどの知恵があるとは思えないが――」と、バヤルが口を挟む。「でもとにかく、その交渉とやらが終わるまで俺たち傭兵は外で見張りを続けながら待機する」
「一緒に来ないのか?」
かれは鼻で笑うようにしてアリエルに返事をした。
「南部の怪しげな儀式や呪いにはウンザリしてるんだ。俺たちは遺跡の周囲を見張ってるから、気にせず交渉してきてくれ」
仲間を見捨てて逃げ回るような臆病者の言葉が信じられるほど、お前には俺たちが愚か者に見えるのか。ルズィはそう言ってやりたかったが、その言葉をぐっと我慢した。たしかにバヤルのことは信じられないが、誰かを見張りに残さなければいけないことも分かっていた。〈黒の魚人〉は撤退していたが、まだ攻撃の機会をうかがっているはずだ。
「よし、分かった。ザザを残していく。彼と協力して――」
「いや」バヤルはルズィの言葉を遮る。「虫野郎の助けはいらない、見張りくらい俺たちだけでやれるから、あいつもつれていってくれ。余計なことをされたらかなわない」
ルズィはじっと何かを考えていたが、やがて溜息をついた。
「わかった。遺跡の警備はお前たちに任せるから、敵が接近してきたら連絡してくれ」
「了解」
バヤルはそう言うと、鼻歌を口ずさみながら仲間のもとに向かった。




