07
空はどんよりと曇っていたが、それでも水中に没した白い彫像の姿を目にすることができた。それはあまりにも巨大で全容を把握することはできなかったが、天気が良ければ、その彫像の正体が判明したのかもしれない。しかし湖に点在する多くの遺跡のように、それら遺物が存在している理由は分からなかった。かつて栄華を誇った偉大な文明が存在していたのだろう。
アリエルは上空を飛んでいた鳥に別の指示を与えると、〈青の魚人〉が目的地に決めた遺跡に接近させる。雨風の侵食によって崩れた尖塔や、白磁色の壁を持つ構造物が確認できたが、生物の姿は見かけなかった。建築物の多くは〈白冠を抱くもの〉たちの遺跡で見られる特徴を有していたが、いくつかの建物は、まったく異なる建築様式をもっていることに気がつく。
まるで都市の寄せ集めだ。アリエルは、遺跡を目にしたときに感じた妙な違和感の正体が分かったような気がした。どこか荘厳な古代都市の面影があるかと思えば、崩れて見る影もない建物や、寂れた墓地を思わせる情景が混在している。
そしてそれは決して広くない遺跡のなかに、無秩序に詰め込まれている。あるいは空間の狭間から――〈混沌の領域〉と呼ばれるような別世界から迷い込んできたモノなのかもしれない。
偵察を終えて上空の鳥を解放したあと、負傷していた〈青の魚人〉をラライアの背に乗せるため、いまだ警戒感を緩めない魚人と話をすることにした。身振り手振りを交えながら会話することになるので、相当な時間がかかると思っていたが、今回はすんなりと理解してくれた。というより、彼女も負傷していた仲間のことを心配していたのかもしれない。
異種族を信じることは一種の賭けだったが、危険を冒さなければ仲間を救うことはできないと理解していたのだろう。実際、〈赤の魚人〉が再び攻撃を仕掛けてくる可能性は否定できなかった。
魚人に手を貸しながらラライアの背に乗せたあと、遺跡に向かって移動を開始する。負傷していた魚人が地面に落ちないように、彼女にも戦狼の背に乗ってもらったが、落ち着かないのか終始そわそわしていた。あれほどの呪術を行使する魚人にも恐れるモノが存在するという事実に、あらためて南部の過酷さを思い知らされる気がした。
『このまま遺跡に向かうの?』と、ラライアが首をかしげる。
「ああ。途中でルズィたちと合流するけど、目的地は遺跡で問題ないよ」
『了解』
オオカミが歩き出すと、アリエルは魚人の装備を回収していたザザに声を掛けてから、そのあとを追うことにした。
『若き守人よ』
昆虫種族のザザがとなりにやってくると、青年は見上げるようにして彼の大きな複眼を見つめる。
「どうしたんだ?」
『まだ疑わしいが、何者かにつけられている気配がする』
「〈赤の魚人〉か?」
『連中は遠くにいても臭う。しかし我々を追跡しているモノは、巧妙に姿を隠している』
「たしかに奴らは魚が腐ったような臭いがするけど……」
アリエルは鼻を持たないザザが、どうやってニオイを感じ取っているのか気になった。昆虫は腹部にある気門と呼ばれる器官から空気を取り入れていると読んだことがあるが、ザザもそうなのだろうか? それなら、耳はどこについているのだろう?
緊張感が緩んでいたのか、青年があれこれと考えているときだった。前方に魚人が立っているのが見えてきた。黒く艶のある特徴的な鱗から、〈黒の魚人〉であることがハッキリと分かったが、彼らが支配する〝黒い沼地〟から遠く離れた場所で、どうして単独で行動しているのか分からなかった。
「待ち伏せか?」
『そうだろうな。しかし油断するな、若き守人よ。あれは今までの魚と異なる気配を持っている』
ザザは大顎をカチカチ鳴らすと、背負っていた大剣を引き抜いて構えた。
「たしかに異様な姿をしている」
魚人は旗竿のように、灰色の枯れ木を背負い、その先端には〈青の魚人〉の切断された頭部が複数吊るされているのが見えた。ひどく損傷した頭部には、気色悪い甲虫が群がり、〈黒の魚人〉が動くたびに翅を広げる様子が見られた。
また魚人の鱗には、金箔を貼り付けたような網目模様があることが確認できた。戦化粧のようなモノだと考えていたが、どうやら陽の光を反射する鱗が輝いているようだった。
網目の魚人は手にしていた何者かの腕を――おそらく〈青の魚人〉のモノだと思われる切断された腕を地面に捨てると、腰に吊るしていた太刀を引き抜いた。それは〈赤の魚人〉が使用する極めて原始的な石器ではなく、アリエルがこれまでに見たことのないような輝きを帯びた刃で、首長が所有している〈呪術鍛造〉された刀にも似ていた。
刃は側面から見ると、ほとんど見えなくなるほど薄く、鋼というより鋭利な水晶で造られているような刀だった。光を浴びた刀身は、青白い鬼火を宿すようにメラメラと燃えているようでもあった。
魚人と対峙したザザは、どこか緊張しながら言った。
『妖刀の類だ。若き守人よ、あの刀は厄介な代物だぞ』
「どうやら、そうみたいだな。ザザも気をつけろよ、あれは命を吸う刀だ」
『刀は命を奪うモノだ。命を吸うことはしない』
比喩や冗談が通じないザザに慣れたのか、アリエルは気にすることなく刀を抜くと、目の前にいる〈黒の魚人〉との戦いに備える。ラライアの背でひどく怯えていた〈青の魚人〉の様子を確認したあと、いつでも逃げられるように、ラライアには後方に待機してもらうことにした。
『気を抜くなよ』
ザザは地を蹴り、地面からの反発力を使って飛びあがるようにして一気に間合いを詰めた。昆虫めいた恐ろしい瞬発力によって生み出された動きに、しかし網目の魚人は対応して見せた。
ザザが振り下ろした大剣の一撃を受け流すと、すかさず強烈な蹴りを叩き込んできた。けれど昆虫種族は毛皮に潜ませていた二本の腕を使い、魚人の蹴りを受け止めて見せた。が、それでも衝撃を逃がすことができなかったのか、吹き飛ぶように後退してしまう。
魚人はその隙を逃さなかった。達人じみた動きで懐に飛び込んでくると、刀を横薙ぎに振り抜く。ザザは両手に持った斧で攻撃を受け流そうとした。しかし甲高い衝撃音のあと、まるで薄い氷が砕けるように、重い刃がバラバラに破壊されてしまう。
直後、ザザは死を覚悟したが、大上段に振りかぶっていた大剣を渾身の力を込めて振り下ろした。魚人は即座に反応して後方に飛び退き難なく攻撃を躱してみせると、離れ際にザザの胴体を守っていた鎖帷子を刃の切っ先で軽く撫でるようにして斬り裂いてみせた。
そのさい、旗竿の先に吊るされていた頭部から無数の甲虫が飛び立つのが見えた。それは見るにたえない悍ましい光景だった。
攻撃の機会をうかがっていたアリエルは、ザザが攻撃姿勢から身を守ることに徹していることに気がついていたが、すぐに手助けをすることはできなかった。おそらく攻撃の機会は一度しかやってこないだろう。失敗すれば警戒され、攻撃の隙を失ってしまう。青年は体内で呪素を練り上げながら、その時が来るのを静かに待った。
魚人に押されていたザザが思わず大剣を手放してしまったときだった。魚人が決着をつけるため刀を構えた瞬間を狙って、アリエルは背中で隠すように生成していた鋭い鏃を射出した。それは目にも止まらない速度で飛んでいくが、直撃の瞬間、不可視の障壁によって鏃の軌道が逸らされてしまう。
「〈矢避けの加護〉なのか……?」
アリエルはそうつぶやいたが、それよりも高度な呪術が使用されたのではないのかと考えた。どのような呪術であれ、それが発動するさいには、大気中に漂う呪素が反応して揺らめきのようなモノを捉えることができるからだ。優秀な呪術師であればあるほど、呪術の気配を感じ取り、事前に攻撃を察知できるようになる。
しかし網目の魚人が呪術を使用した形跡はなかった。攻撃が直撃するその瞬間まで、かれは呪術の障壁を纏っていなかったのだ。そこでアリエルはハッとして、ザザが追跡者について話していたことを思い出す。
振り返ると、枯れ枝にも似た奇妙に捩じれた杖を手にした二体の〈黒の魚人〉が、幽霊のように何処からともなくあらわれるのが見えた。




