04
ラライアは黒く捩じれた枯れ木の枝が鳴るのを聞いて足を止めた。頭上に視線を向けると、灰色の雲が垂れこめているのが見えた。今にも雨が降り出しそうな天気だ。〈青の魚人〉を見かけていた場所からは、鼻にツンとくる血の臭いが漂ってきているのが分かった。魚人たちは狩りをしていたようだが、これは嗅ぎ慣れた動物のニオイではなく、〈赤の魚人〉が身に纏う腐臭に似ていた。
『まだ近くにいるみたい』
ラライアが牙を剥き出しにして低い唸り声をあげると、アリエルも抜刀して敵の攻撃に備えた。
『若き守人よ!』ザザの声が頭のなかで響く。『こっちだ、すぐに来てくれ!』
背の高い雑草を掻き分けるようにして湖に近づくと、複数の魚人の死骸が横たわっているのが見えた。〈氷槍〉で胴体を貫かれた者や、呪術の〈火炎〉で全身を焼かれた死骸もある。破壊され、強引に引き裂かれた鱗から内臓が垂れ下がっていて、すでに親指ほどの大きさのニクバエが群がっている。
『部族の戦士たちで間違いない』
ザザの言葉にうなずいたあと、アリエルは周囲に警戒しながら泥濘に横たわる魚人の側にしゃがみ込む。氷柱を思わせる鋭い氷の塊が首に突き刺さり息絶えていた魚人の鱗には、赤土が塗られていて、それらの魚人が湖に点在する遺跡を拠点にする〈赤の魚人〉だということが分かった。
「この場所で何が起きたんだ?」
アリエルの疑問に答えたのはザザだった。
『沼地から〈黒の魚人〉がやって来て殺したのかもしれない、奴らは血に飢えた化け物だからな』
「なら、ラライアが見かけた〈青の魚人〉も殺されたのか?」
『かもしれない、しかしそれはお前たちが考えることだ。俺は周囲を見張ってくる』
ザザは背負っていた大剣を片手だけで軽々と引き抜く。硬い殻に覆われた腕は、重い金属の塊を扱えるほど太くないように見えたが、強靭な筋肉が詰まっているのだろう。彼が沼地に向かって歩き出すと、重い毛皮の間から二本の腕があらわれるのが見えた。その腕には草を刈り取るための鉈が握られていた。
ずっと気になっていたが、あの毛皮のなかには、いったいどれだけの武器を隠し持っているのだろうか。
大柄の昆虫種族が雑草のなかに消えていくと、アリエルはラライアと協力して〈青の魚人〉を探す。しかし辺りに転がる数体の死体は〈赤の魚人〉のものだけだった。
「俺たちは思い違いをしていたのかもしれないな」と、青年はつぶやく。
『思い違いって?』
ラライアが近くにやってくると、フサフサの体毛に覆われた首筋を撫でる。
「こいつらを殺したのは〈青の魚人〉なのかもしれない」
『狩りをしていたときに襲われて、それで返り討ちにしたってこと?』
「そうだ」
『でも青いのは二人だけだったよ』
ラライアの問いにアリエルは首を振る。
「あの原始的で野蛮な生活をする魚人すら呪術を操るんだ。より文明的な〈青の魚人〉なら、もっと上手く呪術を使えるはずだ」
『そうかも――』
そこでラライアは口を閉じ顔をあげて、緑に苔生した巨岩をじっと見つめる。
「どうしたんだ?」
『生き物の微かな気配を感じた。やっぱり近くにいるみたい』
「〈認識阻害〉の呪術を使っているのかもしれないな……」
アリエルが巨岩の裏手に回り込もうとして一歩踏み出したときだった。
突然、巨岩の輪郭が霞むように朧気になると、岩の中から〈氷槍〉が飛んでくるのが見えた。アリエルは攻撃を防ぐために刀を構えるが、それよりも速く反応したラライアが青年の首根っこに咬みつくようにして毛皮のマントを引っ張る。ドサリと尻餅をついた青年の真横を氷の塊が飛んで行く。なんとか攻撃を避けることはできたが、安心するにはまだ早い。
アリエルはぬかるんだ地面に手をつけると、体内に蓄えていた呪素を一気に放出して瞬く間に泥を硬質化させて、障壁として機能する〈石の壁〉を垂直に形成する。と、次の瞬間、無数の〈氷槍〉が壁に衝突する音が聞こえた。準備もせず咄嗟に使用した呪術だったので、それなりの呪素を消費してしまったが、攻撃を防ぐために必要な行動だった。
「ラライア!」
アリエルの声に反応して戦狼は横に飛び退くと、巨岩に向かって咆哮した。その瞬間、ラライアが放った呪素によって爆発的に発生した衝撃波が放射状に広がり、周囲に存在するあらゆるモノを破壊しながら吹き飛ばしていく。
すると緑に苔生した巨岩が、まるで幽霊のように朧気な輪郭を残しながら霧散して、細身の魚人が水辺まで吹き飛ぶのが見えた。どうやら〈青の魚人〉は〈擬態〉の呪術をつかい、アリエルたちから巧妙に姿を隠していたようだ。しかし、どうも様子がおかしい。魚人はすぐに立ち上がるが、こちらに反撃することなく、倒れていた仲間のもとに駆け寄る。
『気を付けて、エル』
青年はラライアの言葉にうなずきながら、念話を使いザザと連絡を取る。しかし異変を察知していた昆虫種族は、すでにこちらに戻ってきていた。
『俺はここにいるぞ、若き守人よ!』意気揚々と登場したザザは、しゃがみ込むようにして仲間を抱きかかえていた魚人に大剣を向ける。『あれを殺せばいいのだな?』
「待ってくれ」と、アリエルは前に出る。「なにか様子がおかしい」
『たしかに怪我をしているようだ。あれは毛むくじゃらのオオカミがやったのか?』
「いや、攻撃の瞬間、身を守るために風の障壁を発生させているのが見えた」
『それなら、あれはどうして傷を負っているんだ?』
大きな複眼に睨まれると、アリエルは肩をすくめる。
「それを今から確かめるんだよ。ザザとラライアは周囲の警戒を続けてくれ」
『ふむ……了解した』
確かめるとは言ったものの、魚人と会話ができるのかも分からなかった。
念話は人間のように言葉が発せられない種族にも――たとえば、昆虫種族のように口吻を使い共通語を発音できない相手とも、会話ができて気持ちをつたえ合う手段として利用できる。それは言語にするのが難しい複雑な感情すらも的確に表現して、相手に伝えることができる。しかし思考体系が異なる生物では、それも難しくなってくる。
知能が低く本能のままに生きる獣や昆虫、破壊衝動に突き動かされている混沌の生物などは、そもそも人間や亜人が持つ複雑な情報を思考として処理する過程、またはそれに準ずる形態を持たないのかもしれない。そうなると気持ちを伝えることは難しい。端的にいえば、気持ちというモノが存在するのかも疑わしい相手とは念話ができないのだ。
あるいは、なにか別の方法が存在するのかも知れない。念話は、ある種の言葉にするのが難しい感情すら伝えることができるのだから、その伝え方を工夫すればいい。しかし感情を持たない生物には、それは効果的とは言えないだろう。壁に話しかけても返事をしてくれないように、それは無意味なことなのだ。では、どうすればいいのだろうか。
アリエルは溜息をつくと、理解してくれるのかも分からなかったが、敵意がないことを示すために手のひらを見せるようにしながら魚人に近づく。鳥を使った上空からの偵察では何度も目にしていたが、近くで〈青の魚人〉を見るのは初めてだった。彼女たちは森に潜む〈マツグの落とし子〉のように警戒心が強く、滅多に集落の外に出ようとしないからだ。
きめ細かい肌は人間の女性と大きく変わらないように見えたが、それは鮮やかな水色で、背中に見える群青色の鱗と相まって魅惑的な模様をつくりだしている。理由は分からないが、触れてみたくなるような不思議な気分になる。けれど魚人のひとりが威嚇するように牙を見せると、自身が何を相手にしているのか思い出し、その気持ちも失せてしまう。
「さてと……」
アリエルはどうすればいいのか、まだ迷っているようだったが、とにかく〈青の魚人〉と会話ができないか試みることにした。少なくとも彼女たちは呪術を使えるだけの思考を持ち、傷ついた仲間を心配する感情を持っているのだ。会話ができないなんてことはないだろう。