穢れを禊ぐ
「歳神様~、お乳頂戴?」
「ンモォォォォ!」
「あはは、ごめんなさい。あなた牡牛だものね。お乳はでないものね」
「ンモンモ」
ちょっとした冗談を言って歳神様をからかった私は、拗ねたように鳴く歳神様に抱きついてご機嫌をうかがう。
私がこの千載府に来た日から、穏やかな朝を毎日のように迎えていた。
日が昇り始める頃に自然と目が覚め、歳神様と一緒にじゃれあいながら身支度をして、千載府に仕えている神官が用意する食事を摂りながらお勤めを果たし、昼は歳神様とのんびりとお散歩をしたり、日向ぼっこをする歳神様の隣で一人遊びをしたりして過ごす。
忙しなく農作業をしていた村での生活や、寂しくつらい思いをした石牢での生活とは打ってかわって、とても温かで穏やかで平和な日々。
こんなにも平穏という言葉が似合うような日々を私が過ごせるなんて思ってもいなかった。
「ンモォォォ」
「そっち行くの?」
牛がのそのそと動いて、千載府の庭を歩いていく。
着いて行ったその先で、私は雪の下に春の芽吹きが顔を出しているのを見つけた。
「あら、ふきのとう……。もう雪解けの季節なのね」
「ンモンモ」
「ひと月も、あっという間ね」
目を細めて「そうだろう」とでも言いたげな牛の頭を撫でる。
元旦祭からしばらく経つと、歳神様と言葉が通じ会えない私を、千載府に仕える神官達が疑わしげな目で見るようになっていた。でも歳神様の意向故か、源順様が口添えしてくれているようで、神官たちは何も言わずに私を暦姫として扱ってくれている。
本当のことを言えば、偽物であることに気づかないことを喜べば良いのか、このままで大丈夫なのか、複雑な気持ち。
歳神様は私が偽物であることを分かっているのかいないのか……一年後の展望もなくて、不明瞭な未来が私を不安にさせる。
あの元旦祭の日、人の心なんて持ち得ていなかったあの父親の目がなくなった段階で正直に話していたら……って後悔することもあるけれど、言ったところで私が路頭に迷うのは明白だ。せめてもう少し暖かくなって、凍死と飢えの心配がなくなったら本当のことを話したい。
一人で悶々としながら牛を見ていると、私の視線に気づいたのか、牛は首を傾げる仕草をする。
私の表情や言葉を正しく理解しているらしいこの牛は、やっぱりただの牛ではなくて、歳神様なんだよね。
「歳神様、季節が巡りますね」
春風が氷を溶かし、鴬が鳴き、割れた氷の合間から魚が姿を見せ。
雪が雨となり、土が湿り気を帯び、早朝には霞がかり、草木が芽生え始めた。
春の初まりは、終わりを告げる。
◇
「四季の庭?」
「そうです。暦姫様には毎年、専用の庭が与えられ、そこの管理を任されます。これも歳神様のおもてなしの一貫でございますれば。春になりましたので、日々の合間に是非お世話をしていただきたく存じまする」
「そうなのね。面白そう。是非、やらせてくださいな」
源順様に促された私は、四季の庭というものの管理を勤めることにした。
四季の庭は千載府の宮の裏手にある庭で、四つの花壇があり、各々に旬の種を撒き、各季節の豊穣を歳神様と一緒に祈るらしい。
植えるものはなんでも良いらしい。花壇というには広々としているその区画を見て、私は源順様に幾つかの種や苗を用意してもらった。
慣れた手つきで冬の間凍っていた土を耕せば、源順様は意外そうな顔をしたし、歳神様として崇められている牛はゆったりと楽しそうにその尾を揺らして私の野良仕事を眺めていた。
数日かけて土を耕した私は、さっそく種や苗を植えた。
そして井戸から汲んできた水を撒こうとしたところで、源順様に止められる。
「お待ちください。こちらの庭に使用する水は、神域より汲むのが慣わしとなっております」
「神域、ですか?」
「はい。より神々の意思が通りやすくなりますよう、神の世のものを使用するのでございます」
水は水で、どこでも一緒じゃないのかな。
でも慣わしというのなら従ったほうがいいのかもしれない。
そう思って私が手を止めると、気持ち良さそうに日向ぼっこをしていた牛がのそりと立ち上がった。
ゆったりとした動きで歩きだした牛は、数歩歩いて私を見る。
そのまま動かない。
「付いていけば良いのかな」
「仮にも神々の領域ですので、凡人たる我ら神官は神域へ到達すること叶いません。歳神様と暦姫様のみで参られませ」
「分かりました」
よく分からないけれど、そういうものなのだろうと私は頷く。
そのまま私は、おいでおいでと尻尾を揺らす牛を追いかけた。
千載府はこの国の都が展望できるくらいに高い山の上にある。神域と呼ばれる千載府より奥まった場所は、当然自然が溢れていて、人の手が入らないまま美しい情景を保っているような場所だった。
私の乏しい言葉では、美しいものを美しいとしか言えないことが残念でならない。
水底が空のように青くて鏡のように煌めく泉や、柔らかく降り注ぐ黄色の木漏れ日。切り立ったような崖に這う蔦には鮮やかな緑の葉っぱが花のように咲いている。
心奪われる景色なんて、初めて見た。
ここから水を汲んで持っていくなんて、それこそ神様から罰があたりそう。
言葉もなく立ち竦んでしまった私の前で、牛がのっそりと泉の中へと入っていく。
「あっ、と、歳神様っ」
水を汲むだけで良いのになんで泉に入っちゃうの!
慌てて歳神様を追うけれど、泉の岸辺まで来て躊躇ってしまう。
だってここは、とても綺麗な場所だ。
本当なら神様と本物の暦姫しか入ってはいけない場所だ。
そんな場所に私が入って良いはずがない。触れることすら、水を汲むことすら烏滸がましい。
泉の真ん中で、牛がこちらを振り向く。
まるで私を待っているかのように私を見ていて、私は視線をそらしてしまう。
うつむいた先に見えるのは、水面に映る私の顔。
かつらとして売れるからとざっくばらんに伸ばしていた黒髪は、この一ヶ月でよくよく手入れがされて艶を取り戻している。夏には小麦のように日焼けしていた肌もわずかに白くなっていて、厚化粧をしなくたって見苦しくはなくなった。
でも私は、あの高慢ちきな妹のように華やかでたおやかな乙女の風貌とはかけ離れてる。
双子というのに、顔もそっくりなのに、どこか雰囲気が違うの。
これが育ちの違いと言われれば腹立たしいけれど、運命の違いと言われればどうしようもないものに思えてしまう。
今さらだけど、何でも持っているあの妹のことが羨ましくなった。
暦姫としえ選ばれた名誉を妹は疎んでいたけれど、蓋を空けてみればこんな穏やかで美しい日々。
泣きそうなくらいの幸せを感じるのに、偽物の暦姫であるという事実が、私はここで異質であることを思い出させる。
後ろめたい気持ちで泉に映る自分の顔を眺めていると、不意に影が差し込む。
波紋が水面に響くように広がって、私の表情が歪んだ。
そのかわりに大きくてがっしりとした体躯で、柔和な雰囲気をした男の影が水面に映る。
驚いて顔をあげれば、いつの間にか牛が目の前まで来ていた。
見間違いかと思ってもう一度水面を見るけれど、そこに男の影はなく、ただ私と牛の姿だけを鏡のように写していた。
「歳神様……?」
「ンモォンモォ」
牛が私の着物の襟元を咥えた。
え、と驚くうちにずるりと身体が傾く。
次の瞬間には、私は頭から泉の中に落ちていた。
雪解けの季節らしく泉は雪のように冷たい。
私の身体が冷たさに悲鳴を上げる。
声を上げようとすれば、口から、鼻から、水が入って、それに苦しくてもがこうとすれば、どちらが天地かを忘れて身体は沈んでいくばかり。
苦しさのあまりに私の涙が泉の水に滲み出す前に、身体がぐいっと何者かに持ち上げられた。
「かはっ、ごほっ、ぅ……っ」
『大丈夫ですか、暦姫。手荒なことをしてしまいました。申し訳ありません』
「大丈夫なわけないじゃない……!」
私は涙目で声の主を睨み付ける。
目の前には牛。
突然の暴挙が許しがたくて睨み付けたけど……そのまま眉をしかめる。
牛を見て、周りを見る。
誰もいない。
牛以外、誰もいない。
……どういこと?
穴が空くくらい牛を見つめていれば、牛が鳴く。
『私の声は聞こえますか、暦姫』
「……歳神、様?」
『はい、貴女の歳神です』
牛がわずかに目を細めて微笑んだような気がした。
唐突に喋りだした牛に、私は驚きよりも戸惑いのほうが勝る。
「えっ、しゃべっ……た……?」
『はい。ようやくお話しができるようになりましたね』
声が裏返る私とは違って、牛の声は嬉しそう。
心にじんわりと染み込むような低めの声。
理知的で優しそうな話し方は、知性のある存在として牛がそこにいることを表していた。
私の全身から血の気が引いていく。ガタガタと震える身体は、泉の冷たさだけではない。
「わ、わた……っ、私……!」
『震えていますね。雪解けの季節の泉は冷えきっておりますから。禊はできましたし、水を汲んで宮に戻りましょう』
ゆっくりと岸に上がる牛。
私はそれを視線で追いかけることしかできない。
『おや? 行かないのですか?』
「い、行けないです」
『何故?』
ゆっくりと向きを変え、牛が私を見る。
私は泉の中で身体を震わせながら、牛から視線をそらす。
怖かった。
ただの牛だと侮っていた目の前の動物が、理性的に言葉を操ることが怖かった。
自分の常識とはかけ離れた存在であることを、初めて実感した。
私が本物の暦姫じゃないことも、この牛に見透かされていまいか。
神を欺いた者として罰されないか。
そのことが瞬きの合間に頭のなかを駆け巡って、言葉がでなかった。
何故、という問いに答えられない。
じぃっと牛が私を見ている。
つぶらな瞳が私の全てを見透かしているように感じられて、私はひたすら顔をそらし続けた。
やがて、私が何も言わないのを汲んでか、牛がおもむろに鳴いた。
『暦姫。怖がることはありません。このままでは風邪を招いてしまいます。人の身は、もろいのですから』
私の身を案じる言葉。
そして私に向けられた言葉。
偽りに染まった私の胸をぎゅっと締めつける。
どうしても、私は歳神様の言葉を受け入れられなかった。
「――違うんです……! 私は暦姫ではないのです! 私は、顔がそっくりなだけの、偽物なんです。気にかけていただけるような人間ではないのです……っ」
知らないなら、言わなければ良いのに。
じんわりと涙が浮かぶ。
馬鹿正直に神様に打ち明けるなんて、どうにかしている。
でも言わずにはいられなかった。嘘つきなままの自分が、このまま平穏を享受し続けるのが嫌だった。
私は目の前にいる得体の知れない牛から次にかけられる言葉が怖くて、きゅっと瞼を閉じてしまう。
ちゃぷんと水音がした。
それから胸の辺りまである水が動く感触がする。
くい、と暦姫の衣装として着せられていた真白な衣の袖が引かれた。
『安心してください、貴女は暦姫ですよ』
「いいえ、いいえ、私は妹の身代わりにここへと連れてこられたのです。顔がそっくりな妹がいるのです。暦姫として選ばれたのは妹のほうなのです」
『奇妙なことですね。私は間違いなく貴女が暦姫であると確信しているのですが』
「神官様達も仰ってました。歳神様のお声が聞こえないなんて暦姫としてあり得ない、と」
『でも今は聞こえているのでしょう。声が聞こえるかどうかは些細なことなのです』
「でも」
『それを言うのなら、私の声が聞こえる者達が皆、暦姫だと言うことになりますよ』
「そ、それは……」
牛の言い分も一理あるけど……と、戸惑いがちに牛を見れば、牛が私の袖をくわえてくいっと引っ張る。
私はたたらを踏むように泉から引き上げられた。
『貴女が私の暦姫であるのに間違いはないのです。暦姫と歳神を結ぶ主神の導きの糸が私と貴女の間に見えるのですから』
「みちびきの糸……?」
『はい。故に貴女が暦姫で間違いないでしょう。ですが、どういうわけか貴女は人の世の穢れが濃かったのです。その穢れのために私の声が聞こえなかっただけなのですよ。きっと潔斎が不十分だったのでしょうね』
牛が言うには、元旦祭から一ヶ月かけて食事で胎内の穢れを落とし、若干乱暴ではあったものの、神域の泉に沈んだことで禊が完遂されて、羽化するかのように私の穢れを全て洗い流したそう。そうして歳神様の声を聞くために十分な清い魂と肉体が整ったからこそ、牛の声がようやく聞こえるようになったらしい。
本来なら年明け前のひと月の間に行うべき潔斎の儀があったらしいけれど、そんなもの身に覚えがないのだから、牛の声が聞こえなかったのも当然だったのかもしれない。
牛の話にようやく自分がもしかしたら本物の暦姫なんじゃないかと思い始めた頃、岸に上がった牛が腰を落とした。
『さぁ、水を汲んでお乗りなさい、暦姫。貴女の特等席ですよ。神官の視線が気になるのでしょう。気にしなくても良いのに。でも貴女が不安であればあるほど、私も気がそぞろになってしまいます。貴女が本物の暦姫だから、私は貴女を特別に扱っているということを神官達に見せてやりましょう』
そうのんびりと鳴いた牛が、さぁお乗りと私を見ている。
私は戸惑うあまりにどうするのが正しいのか分からなかったけれど、私が乗らない限り動く気配のない牛に、私はおずおずと身を任せることにした。
水を汲んだ桶を持ち、そぅっとなだらかな丘陵のような牛の背へと腰かける。こんな不敬は許されるのかなと不安に思いながらも、私は牛の背に揺られた。
緑豊かな山道をゆったり歩みながら、牛がぽつぽつと鳴く。
『暦姫。貴女が偽物であれ、本物であれ、私は気にしませんよ。このひと月、貴女と過ごしてみて、貴女の傍は心地良いと思いました。時の移ろいが優しく感じられる。この一年、貴女と共にこの箱庭で過ごせることを喜ばしく思っているのですよ』
「……それでも私は、偽物の暦姫なのです。選ばれたのは、妹のほうだったはずなのです」
『なかなか頑固なものですね、私の暦姫は。それもまた、一途で可愛らしい一面ともとれるのですが』
声を荒げることなく、耳にしっとりと染み渡る声で、牛は語る。
『私の暦姫。暦姫がどうやって選ばれるか知っていますか』
「……知らないです」
『まず初代暦姫の系譜に連なることが第一の条件です。この時点でだいたい貴族に絞られると聞きます。次に仙崙府に歳神様より言伝てがあるのですよ。どこどこの血筋の何番目の娘というように』
「具体的ですね」
『はい。だからこそ名の知れている家ほど、替え玉は難しいのです。稀に遠縁過ぎて平民になっている娘が選ばれることもありますが、当然貴族であればその家の姫君の顔も知れ渡っているでしょう。貴女のお家は貴族であると聞きました。だから私は貴女が偽物というのが理解できないのです』
なるほど……牛の言いたいことは理解できた。
それならある意味、間違ってはいなかったのかもしれない。
「きっと今年の言伝ては『蔡家の娘』とだけ伝わったのかもしれませんね。私は捨てられて存在が知られていないはずですから、言伝てがどこかで食い違ったのかもしれません」
それが巡り巡ってあるべき姿に収まっていたことが奇跡のよう。
私はすべすべと肌触りのいい牛の背を撫でる。
全身を冷たい泉に浸していたはずなのに、私も牛も、いつの間にか濡れていた場所が乾いていた。
『さぁ、暦姫。ようやく言葉が理解しあえるようになったのです。長いようで短いこの一年、貴女のことをお聞かせください。まず最初は、貴女がこのひと月、寂しそうにしていた理由を、私は知りたい』
「……知ってどうするんですか」
『来年からの貴女が笑顔で過ごせるよう、めいっぱいの祝福を差し上げましょうね』
来年からの私なんて想像ができなくて困ってしまう。
ありがたいはずの歳神様の祝福を素直に受け止めることができなくて、私は曖昧に笑うだけだった。