やまのかみ
霧深い山の奥、神の住まう樹木があると言う。
五、六人が手を繋ぎ円を作るほどに太い幹をした聳え立つその樹木の上部にある洞から神はいずると。
何十年かに一度、巫女が選ばれ神に目通りを願うと村が栄えると信じられていた。そして今年巫女に選ばれたのが村長の家の二女だ。
村の誰よりも働き者で器量もよく、子どもらの面倒も積極的に見たり機織りでは高く売れる反物を幾つも仕上げられる評判の娘。
村の者は彼女こそ村を代表して神の御前に行くに相応しいと祝福したが、ある一家だけは違った。その家にもまた村長の二女と同じ年頃の一人娘がおり、たいそう家族に大切にされ愛されていた。働くのも機織りも子どもの世話も何もしたがらない、楽をすることばかりを考えるような娘で肌は日に当たらない為かなま白かった。
そんな娘は村長の娘だからと言って特別扱いをされあまつさえ巫女になるだなんて卑怯だと涙を流して両親に訴え、両親らも口汚く村長一家を罵り評判を落とそうとあの手この手と方々へと金を積み、質の悪い噂を流行らせた。
最初はそんな根も葉もないことをと村人は取り合わなかったが怠け者の娘が色を仕掛けて篭絡していった男らが村長の娘に暴力を奮う事件が起きた。
巫女は純潔であらねばならない。たとえ本人の意思でそうされたわけでなくとも、男のものを迎えたわけでなくとも村長の二女はその資格を失ってしまったのだ。
その噂を嬉々として怠け者の娘の家族らが広めたために村長の二女は気を病んで家に引きこもり二度と表へは出たくないと閉じこもるようになった。村長夫妻と外に嫁に出ていた長女も彼女に起きた惨事を哀れみ、そしてひっそりと村長を降りる旨を信頼できる限られたものらに伝えると大きな家も何も残し、思い出のある品だけを持って長女の嫁いだ他村へと移っていった。
村長らが出て行った事を村の皆が知る頃、次の村長を誰がするかと相談が行われる前に自分たちが一番知識も家柄も古く村長を継ぐに相応しいと主張をした怠け者の娘の一家が村長の家に皆が止める間もなく住み始め、当然のように巫女も怠け者の娘が行う事になった。
神の元へと向かうまでの日々を怠け者の娘とその両親は豪遊とまでいかないが、好き勝手過ごした。村長の権限を使い他よりも多くの益を得たり、娘は男をとっかえひっかえと着せ替え人形のようにくるくると交際していった。もちろん身を汚す事はしなかったがそれでも多くの村の乙女らには十二分に恨まれ、憎まれていた。
そしてついに来る日は訪れた。
神の宿る樹木へと向かう神輿が組まれ、薄絹と華奢な作りでありながらも高価と一目見てわかるような金銀細工を着けた巫女を乗せた男らがゆっくりと森を進んで行く。
玉虫色の紅を唇に塗って美しく装った娘は満足げに踏ん反りかえるような姿勢で鬱蒼とした森の光景を流し見てはこれを終えさえすればもう貞操など気にせずに済むのだから村のどこそこの男と契りを交わそう、と汚らわしくも考えすらしていた。
神輿が止まり。大きな黒々とした洞のある樹木の前へと進むよう、娘は父親に言われその通り進み。
村長の家の書棚に儀式について記されたそれがあり、父親はその通りに儀式をするつもりであった。一応は娘が面倒くさがっても儀式を省略しては何が起こるかわからないからと娘を今だけだからと説得した上での成り行きであったはずだった。
娘が樹木の前につき、せっかく綺麗に装ったのに、と僅かに躊躇するように地面を睨んだ後大きく溜め息をついてその場に膝を着き三つ指をつくように頭を下げる。
「やまのかみさま、やまのかみさま。蝶が参りました。蝶が参りました。蝶が参りました」
呪文めいた言葉も文献通り。些かぶっきらぼうで棒読みであったがそれでも父親は何て純粋で愛らしい声だと娘の晴れ姿同様に喜んだ。
さわさわと木々が風で揺れる音がしばしした後、周囲の音が消える。誰も何もしゃべらない。巫女に倣い大地に膝を着いて額を擦りつける様にしている為に神が訪れているかもわからない。
「ッきゃあああ!?」
不意に静けさを裂くように巫女の甲高い悲鳴があがった。それに一番早く反応を示したのはやはり父親だった。ばっと音がたつほどの速さで頭を上げ、娘の方を見やれば娘の前に奇妙な姿をした女がいた。
ぬらぬらとなめくじのように滑りを帯びた、蛇のような鱗と下半身をした上半身裸の女だ。洞から垂れ下がるように娘の顔を覗く目はつるりとガラス玉がはまったような黒一色。虹彩と白目の境が一切ないその眼は女が出てきた洞のようだ。
どこまでその深淵が広がっているかわからず恐怖を身の内に抱くような得体の知れない不気味さがあった。
そんな生き物に迫られた娘は固まって動けない。動いたら喰われるかもしれないとの思いもあったのかもしれない。わなわなと唇を動かすばかりの娘を化け物は何も言わずに見つめた後に大きな大きな両の手を伸ばし、
『蝶、妾の蝶……』
指の一本で娘の頭など押し潰せそうなその手で娘を包みこんで、笑った。
ずぅる、ずぅる、ずるり。
何か化け物の手の内で必死に喚いている娘のことなど気にも留めない様子でその化け物は木の洞へと帰っていく。青黒く光る下半身からゆっくりと後退して。
神輿を担いできた男らと父親は彼女たちが消え去った後も暫くは腰が抜けて動けずにいたそうな。
正気に返って娘を取り返さんと叫び、神聖な樹木を傷つけるのを躊躇いもせずによじ登った父親は洞の中に手を突っ込んで娘の名を呼び続けたが不思議な事に手指はすぐに木の底を引っ掻くだけであった。
視界に映るは深く深い、底なしの闇ばかり。巫女が戻る事はもうないだろう。
村に帰り、村長の家をひっくり返すようにして儀式に関しての知識を探せば“神”の詳細と“巫女”の本当の関係はすぐに知れた。それは父親が見つけたわかりやすい位置に置かれたものとは別に、それこそ家を壊すようにしなければ見つからないような隠された場所にあった。
両親らが元村長の長女が嫁いだという村へと向かいどういうことだと聞こうにも、皆一族揃ってどこかへと越したと聞かされ娘を失った愚かな一家はそれ以上できることも無く途方に暮れることとなった。
これで村に災いでも起きれば目も当てられなかったが、村は前よりも少しだけ豊かに、恙なく年を重ねて行った。年若い娘っこひとりの犠牲などなかったように。
失った娘への悲しみや後悔、それに嘆きによって両親はやせ細り、消沈しながらも自分たちのような新たな犠牲者を出さないようにと儀式についての書を作り上げた。不都合だと闇にも葬られないように一言一句注意を払った愚かなものへの警告を認めた書を。
長家族らは神についてを知っていたか。
知っていた上で次女を贄にしようとしていたのか。
次女が傷付けられ怒り、復讐のために家族揃って越していったのか。
読者様の捉え方次第で物語の方向性は若干異なります。作者的にはどろどろしたり謎めいたお話が好きなのでそのような感じだと面白いかなと。