鬼束と犬飼
_____「正義」が「正しい」なんて、いったい誰が決めたのかしら____
蠱惑的な、美しい鮮血色の唇。
彼女は非常に純度の高い「悪意」を込めて、そう言った。
僕はその一言を、忘れることが、できない。
01
「鬼束さん?」
僕の質問に、犬飼はその大きな瞳をパチパチさせながら、小動物みたいに首を傾げる。
カールのかかったポニーテールが、クエスチョンマークの形で揺れた。
「いや、最近うちの学校で話題になってるだろ。知らないのか?」
「、、ほえ?」
僕のその言葉にもいまいちピンとこないのか、犬飼は小文字のダブリューみたいな口のままキョトンとしている。
そうだった。こいつはこの手の察しがヤモリ並みに悪いんだった、、、
「ええと、ほら、あれだよ、魔女の。」
僕はこの少女でもなるべくわかりやすいだろうというキーワードを捻り出す。
魔女。
彼女のことを端的に表現するならば、この言葉が1番適切だろう。
もちろん、彼女が魔術や魔法なんて非現実的な能力が使えるという訳ではない。
けれど、人は彼女を魔女と呼ぶ。
「あ、ああ魔女ね、、、」
さすがの犬飼でもこのワードには聞き覚えがあったようだ。彼女は目を伏せ少し俯いた。
頭上を一匹の烏が、音を立てずに飛び去ってゆく。
「そうだね。知ってるよ、鬼束さん。」
そう言った犬飼の表情は、陰になってしまって伺うことができない。
夕日が、東京湾を望むデッキを歩く、二人の影を遠く遠くへ伸ばしてゆく。
彼女なりに何か思うところがあるのだろうか。
「なんであんなことするんだろうな。」
意味もなく、僕は呟く。
なんであんなことを。
別に僕は、鬼束氷雨について特別詳しいというわけでもない。知っていることといえば、僕たちと同じ、都立台場高等学校に通っているということ。そして僕たちよりも一つ上の、三年生であるということ。
そして彼女は、自らのクラスメイトを、友達を「傷つけている」ということだけだ。
無論、その「傷つける」という表現は、比喩的な、精神的な話ではない。彼女は暴力的に、武力を以って人を傷つける、、、そうである。
これは遠い三年生の話なので、上級生と交流の少ない僕の知識だけでは、この話は噂の域を出ることはない。
だからこうして学校からの帰り道に、わざわざ顔の広いであろうところの犬飼を呼び出して事情を聞いているのだ。
しかし彼女の反応は、僕の期待していたものとは違った。俯けていた顔を上げ、僕に向ける。
普段なら基本どんな話でもニコニコしながら聞いてくれる犬飼だったが、そのときは、いつもより真剣な眼差しをしてこう言った。
「悪いことは言わないからさ。魔女、、鬼束氷雨には関わらない方がいいと思うよ。」
きつい潮の香りの海風が、二人の間を抜ける。夕凪前の、最後の海風だ。
犬飼のポニーテールが激しく靡く。
「、、え?どうして」
予想外の答えに返答に困っていると、彼女はまたいつもの優しい眼差しに戻る。
「もも君のいつもの悪い癖だよ。何か問題が起こっているとすぐ首を突っ込もうとする。」
「それは、、仕方がないことだろう。」
頬を膨らましながらそう続けると、プイと向こうを向いてしまった彼女の後ろに向けて、僕は力なく反論した。
犬飼は、どうやらちょっと怒っているらしい。
それを言われては弱る。事実、僕はここ最近、犬飼の言うその悪い癖というとののせいで、彼女に迷惑をかけてばっかりなのだ。
なんだかこのままの流れで、そのことについての説教をされるような予感がしたので、僕は話を逸らすことにした。
この際仕方ない。鬼束についてはまた別の人に尋ねることにしよう。
「そういえば犬飼。おまえ今回の期末テストはどうだったんだ?」
さて、先ほどの鬼束の話から突然変えたこの話題に、果たしてこいつは乗ってきてくれるだろうか。
「話逸らさないで!」なんて言われたら素直に謝るしかなくなってしまう。
、、、乗ってきてくれないかなあ。
「ふふん!驚け!600点中!597点!」
「…」
乗ってきた。
しかも嬉々として。
いったい先ほどまでの怒りはどこへ行ったのかと聞きたくなるほどに、見事なドヤ顔だった。
ポニーテールがぴょこぴょこと揺れる。
くそう、天才め。腹の立つ奴だ。
話を逸らせたのはいいものの、結果別部分へのダメージを受けてしまう形になった。
だが仕方ない。腹に腹は変えられぬ。
それにまあ、彼女がこの点数を取るのはいつものことで、分かっていたことではあるのだ。
分かっていたことではあるんだけれども、、くそう、、なんでこいつが。
今度は深い意味を込めて、僕は呟く。
犬飼桜は、俗に言う優等生である。
だからきっと、先ほど彼女が言った冗談みたいな一学期中間テストの結果は、紛れもなく真実だ。そう認めざるを得ないほどに、彼女の学業における成績は飛び抜けて優秀なのである。
だから別に学業成績が秀でているわけでもない平凡な僕からすれば、それは本来なら雲の上の話で、本当ならこのドヤ顔に対して何も感じないのが当然というものだ。
けれど犬飼桜は秀才であると同時に、紛れもなくアホなのである。しかもそれは、一般的に言われるアホの尺度で表せるレベルではなく、もはや形容詞に人間以外の生物を使うしかないほど、にアホなのである。
だから毎回毎回、この少女に成績で敗北を喫することを、この上ない屈辱に感じずにはいられないのだ。
、、なんで「フライパンあったまったかな?」って指をフライパンにつけて温度確認しようとして火傷しちゃうような子に200も点差をつけられなきゃならねえんだ。
なんて、僕の心の叫びは彼女に届くはずもなく。
「ねえねえ!もも君は何点だったの!ねえってば!教えて!」
とさっきからぐいぐいと腕を引っ張っている。
どうしてこう、ここまでパーソナルスペースが狭いのだろうか、この子は。
まあ、また馬鹿にされるのは目に見えているから、ここはうまくあしらうことにしよう。
「いやいや、今回は598点だったよ。だいぶ難しかったからね。2点ほど落としてしまった。僕としたことが、全くつまらないミスだったよ。次はサボり癖をなんとか直して、ちゃんと勉強してからテストを受けないとな。」
犬でも分かる安い芝居。
いや、さすがに馬鹿にしすぎたか。
「ええ!すごい!一点負けちゃったよ!次は負けないからね!」
「…」
犬飼にはわからなかった。
間違いない。
僕が詐欺師なら、まず世界で誰よりも先に、この子から狙う。
天才ってこういうものなのかなあ。
一つのことを極めると他が、みたいな。
「いや、、すまん実は372点だ。」
いたたまれなくなった僕は、蚊の鳴くような声で、正直に本当のことを言った。
なんだかこいつと一緒にいるといつもこう、格好悪いな。どうしてだろう。
ふと想像する。
どんな悪人でも、素直すぎる人間を相手取るとこうなってしまうものなのだろうか。
悪人になったことがないから、僕には理解できないけれど。
ちなみにその素直すぎる当の本人はというと。
「えー!騙した!嘘ついた!嘘は悪いことなんだよ!嘘はボロドーの始まりだよ!悪人!」
「いや、そこは素直に泥棒でいいだろう。」
何でマリオシリーズに出てくる、青い巾着をかぶったテレサみたいな、コインとか盗んでくる超脇役に例えてボケるんだ、、
こいつが時々使うボケは基本変に分かりにくい。
それにしても。
「悪人、か。」
またもや、頭の中で彼女は口角を上げた。
悪意で赤に染まったような口。
一体何人の生徒が、その蠱惑的な微笑みを前に傷付いていったのだろうか。
春と夏に挟まれた、五月の夕日は東京湾に沈んでゆく。
その痛々しいほどに真っ赤な光で、空と街を染め上げながら。
「綺麗だね!」
犬飼の言葉に、僕は返せない。