10-2 悪代官を追放したが代わりなどいない - プィス -
「自己紹介から始めましょう。あ、私は貴方のことをよく存じていますので必要はありません。私は――」
「家庭教師か」
「はい。私はプィス、前皇帝に仕えた左大臣の孫にあたります。ですがその祖父が政争に敗れて以来、当家は没落してしまいまして……。ですが今はゲオルグ様の支援もあって、王立学問所で勉学に勤しんでおります」
典雅で仰々しいお辞儀をされた。
頭を低くしたまま彼は俺を見上げて、そのまま視線を一度も外さない。それにどうも距離が近いような気がしてならん……。
「ではプィス、質問だ。俺がおとなしく授業を受ける人間だと思っているなら、それは間違いだ。俺は俺の意思で学ぶ、教師はいらん」
「はい。ですが従わないようなら、アシュレイ様が不在の間に、貴方の部屋の掃除をするとおっしゃっています。何やら意味深ですね……」
言葉に血の気が引いていった。
物欲に捕らわれない食い気ばかりの俺が唯一執着する物が、俺の部屋にはある。
異界の本だ。兄上はそれを人質にするというのか……。
「これは私からのアドバイスです。あの方はやると言ったらやります」
「ああ、よく知っている……」
青ざめる俺を見て、彼は書斎のイスを引いて見せた。
座れと言っているようだ。今は要求に従う他にない。
天領エリンに本を移すべきだろうか。
だがそれでは、読書の楽しみが遠のくことにもなる……。
「では始めましょう。ああご安心下さい、代官探しならばゲオルグ様が代わりにやると仰っていました。その間あなたはここで、エリンの領主になったことですし、政治の基礎教養を覚えていただきます」
「ま、待て……。それはいつまでかかる……?」
「今日はここに泊まっていただきます。では始めましょう」
彼が持っていた分厚い本が書斎机に置かれた。
見ればそれは司法書だ。面白くもなんともない、完璧に娯楽性が欠如した、俺の趣味の対極に位置する物だ。
「ゲオルグ様と相談しまして。まずは帝国法の、丸暗記をしていただくことにしました。お覚悟を」
「なあ、冗談だろう……?」
「何がですか? 皇帝、あるいはその補佐役になるかもしれない者が、法律を知らないのでは何も始まりませんよ。しっかりと、覚えていただきます」
「無理だっ、俺はこういう本は嫌いだ!!」
とりつく島もない鋭い目が俺を見ていた。
恩あるゲオルグ兄上に命じられた使命感がそうさせるのか、そこに鬼教師がいた……。
「まずは国の根幹である憲法からです。ああ、ゲオルグ様には、厳しくしろと命じられましたので、そうさせていただきますからご了承下さい」
「アンタ、怖いぞ……」
まゆ一つ動かさずに彼はそう言い切った。
もし逃げようと思えば簡単に逃げられる。鍵だって破壊すればいい。窓から飛び降りるという手もある。
だが、本棚の全ての本を抱えて、ゲオルグ兄上の追撃を受けながら逃げるのは無理がある……。
やはり従う他になかった……。
◆
「ウグッッ?!」
「間違いです。それは7条。ですが条文はちゃんと覚えているので手加減しておきました」
彼が出した設問を間違えると、竹の定規が風を切って俺の手のひらを叩きつけた。
嘘だ。手加減なんてどこにもないぞ……。
「すみません。ゲオルグ様にこうしろと命じられておりまして……フフフ」
「その割に、俺からはアンタがとても楽しんでいるように見えるのだが……?」
「愛する弟の為に、心を鬼にするあの方になりきっているだけです」
「なおさらたち悪いぞアンタ!? 痛ッッ!」
「私語はほどほどに。集中して下さい」
「恨むぞ、兄上……」
プィスとその後ろにいる兄上が怖いのでやむなく従った。
どんなに強くなろうとも、怖いものは怖いのだ。俺は兄上の弟なのだからな……。
おとなしく勉強に集中すると、プィスは態度を軟化させて、熱心に勉強を教えていってくれた。
◇
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◇
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◇
「少し休憩にしましょう。がんばりましたね、アシュレイ様」
「ああ……」
俺は爺がいかにやさしい人であるかを知った……。
最近の爺は古巣に戻ったっきり、なかなか俺の前にも顔を出さなくなっていた。プィスを前にすると、爺が恋しい……。
「しかし……そこまで大切にしている物が部屋にあるのですね。いえ、ゲオルグ様には、物欲のない方だと聞いていたので……」
「俺は本が好きなのだ。その中でも異界の本を蒐集していてな。どれも世に二つもない物だ、誰にも奪われたくない……」
プィスが返事を返さなくなった。
この短時間に、すっかり俺はプィスに対する恐怖心に染まってしまったので、気分を害したのかと顔を直視するのも怖かった。
「もっと詳しく教えて下さい。それはもしかして、こんな文字が出てくる本ですか……?」
ところが驚いた。彼のペンが暗記用の紙の上を滑り、俺の知る[ひらがな]と呼ばれる文字を刻んだ。
それが恐怖心すら忘れさせて、プィスの顔を見上げさせた。すると彼もまた興奮していた。
「そうだ。アンタ、ひらがなを知っているんだな」
「ええ。その本、どれくらい持っていますか?」
「大きな本棚二つ分だ。しかしひらがなを読める人間が、俺の他にいるとは思わなかったな」
「そんなに! ならぜひ見せて――あ、いや、なんでもありません。今の私は貴方の教師でした」
思わぬところで初めての同志を見つけることになった。
あちらの世界にも詳しいジラントをのぞけば、彼が初めてだ。
「プィス先生、俺の部屋に来ないか?」
「それは……あ、ありがたい申し出ですが、ゲオルグ様に貴方を頼まれた手前、それは……」
「アンタになら貸したっていいぞ」
「本当ですか!?」
「息抜きにちょっと見に行かないか? その後でも授業はできるではないか。このままここに缶詰なら、息抜きの本が必要だな?」
「それは一理ありますね……。幸い貴方は優秀な生徒です。少しくらいならのいいのかもしれません」
「では行こう。俺の部屋に」
厳しくて付き合いづらいやつだと思っていたが、プィス先生は趣味のいい男だった。
彼と蔵書の説明をしながら、俺は己の部屋へと戻っていった。




