魔法使いのピアノ
ーーねぇ。音楽の魔法って、知ってる?
小学生の頃、あいつは不意に聞いてきた。
「おんがくのまほう? なんだよ、それ?」
意味が分からなくてそう聞くと、あいつはクスクスと笑う。
「演奏を聴いたみんなを感動させることだよ。ボクは、ピアノでみんなに魔法をかけたいんだ」
やっぱり意味が分からなくて首を傾げると、あいつは俺に聞いてきた。
「ーーキミは、音楽の魔法を信じる?」
信じるか、と聞かれてもその頃の俺はよく分かっていなかった。
だから、はっきりと答えた。
「ーーよく分かんねぇから、信じねぇ!」
それが今まであまり話したことがなかったけど一応幼なじみで、俺よりも先にピアノを始めていた友達で、今となっては勝手にライバル視しているあいつとの……一番記憶に残っている古い思い出の一ページ目だった。
♪
あいつと俺を言い表すなら、「天才」と「凡人」だろう。
俺よりも先にピアノを始め、その天才ぶりを発揮していたあいつは小学生の頃から何回もコンクールで優勝。機械で出来てるのかと思うぐらい一度もミスをしない正確な演奏。
どんな難しい曲でも完璧に演奏するその姿に、付いたあだ名は「機械仕掛けのピアニスト」だ。
それに比べて俺はーーまさに凡人。
何度もミスはするし、演奏も走りがち。曲だって完璧に弾けるようになるまで何度も何度も何度も……数えるのが馬鹿らしくなるぐらい練習してようやく物になるレベル。
それでも凡人の意地、というべきか。それなりの評価は得られてるけど……コンクールはいつも二位止まり。
つまり、一度たりともあいつに勝ったことがない。
あいつの才能に嫉妬しながらも負けたくない一心で食らいついて……中学三年を迎えてしまった。
もちろんその間、あいつには勝ってない。それどころか突き放されているような気がしていた。
公園のベンチに座っていた俺は、ため息を漏らす。
今日はコンクールの日だった。そして当然のように俺が負け、あいつが優勝した。これを今の今まで何回も繰り返している。いい加減、勝ちたいんだけどなぁ。
すると、俺を見つけたあいつが声をかけてきた。
「ーーやぁ」
爽やかな微笑みを浮かべながら声をかけられ、俺はふてくされたように目を反らす。
「ーーよう」
ブスッとした表情で返事をすると、クスクスと小さく笑いながら俺の隣に座った。
「いい演奏だったよ」
「なんだ、皮肉か? 優勝者は敗者にお優しいなぁ?」
「むぅ、そういうつもりじゃないよ。ボクは……」
「分かってるよ、冗談だ。優勝おめでとう」
「うん、ありがと」
言葉を交わしながら、二人で笑い合う。
爽やかイケメンと、目つきの悪い俺。でもって、天才と凡人。
正反対の俺たちだけど、話してみると何故か馬があった。
だからこそ俺は友達だと思ってるし、今日まで幼なじみをしている訳だ。
それに、天才だけどその才能にかまけて偉そうにする奴じゃない。優しいし、音楽に真摯に取り組むし、努力もする。
努力する天才とはこのことだな。だからこそ、実力が追いつかないんだけど……友達としては最高、ライバルとしては悔しさを覚える、そんな奴だ。
「なぁ、どうしたらお前に勝てると思う?」
ライバルにするような質問じゃないとは、俺も分かってる。
だけど、どうしても聞いてみたかった。
すると困ったように苦笑いを浮かべながら、俺の問いかけに答える。
「それ、ボクに聞くの? でも、そうだね……音楽の魔法を信じてるかどうか、かな?」
「またそれかよ……ほんと、ガキの頃から変わってねぇな」
子供の頃に言っていた「音楽の魔法」とやらを、まだ信じているのか。
俺にはいまだによく分かってないことだ。
「ボクは今でも信じてるからね。ボクたちピアニストは音楽の魔法を聴いてくれている人にかけるーー魔法使いなんだよ」
「うわ、ファンタジー。その歳でまだそんなこと言ってんのかよ」
これが世に言う「中二病」って奴か?
聞いてる俺の方が恥ずかしくなっていると、真剣な表情で真っ直ぐに見つめてくる。
「うん。ボクは今も、これからもずっと言い続けるよ。ボクは信じてるんだ、音楽の魔法を。ボクの演奏はきっと、誰かを感動させられるって」
「……そっか」
「そして、キミもね?」
「は?」
どういうことだ?
聞き返す前に、ベンチから立ち上がって話を続ける。
「ボクからすると、キミの方が才能あると思ってるよ」
「……完全に皮肉だな」
「ううん、皮肉じゃないよ。本心だ」
思わずカッとなって睨みつけると、純粋な眼差しにたじろぐ。
その目には嘘はなかった。本気でこいつは、俺に才能があるって思っているようだ。
急に怒りが静まり、ガシガシと頭を掻く。
「それはねぇよ。お前の方が才能あるって」
「そうは思わないよ」
譲る気はなさそうだ。
仕方ない、ここは俺が折れよう。こいつ、変なところで頑固だからな。
「はいはい、分かったよ。俺には才能がある。んで、それ以上に才能があるお前に負けまくってる」
「だから、キミはボクよりも……」
「あーはいはいはい! もうこの話は終わり! 次の話をしようぜ?」
「次って言うと……」
次、というのは来月のピアノコンクールのことだ。
数年に一度、市で開催されるピアノコンクール。これが中学最後のコンクールになる。
俺は、このコンクールで今度こそ優勝する。絶対に。
「ーー次は負けねぇぞ?」
俺の宣言に、微笑みながら返事をしてくる。
「ーーうん、ボクも負けないよ」
こうして俺は来月に向けて練習を始めた。
あいつに勝つにはミスをしないこと、正確に譜面を追うこと。
楽譜を暗記するぐらい読み込み、頭の中で譜面を思い浮かべ、必死にピアノに向かう。
指がつりそうになりながら、寝不足でぶっ倒れそうになりながら、何度も何度も練習する。
凡人が天才に勝つには、努力しかない。
死ぬ気で、寝る間も惜しんで、魂を削りながら何回もピアノを弾く。
そして、あっという間に一ヶ月が経過しーーピアノコンクールの日を迎えた。
その予選であいつは……姿を現さなかった。
♪
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
俺は必死に走る。
予選が終わってもあいつの姿がなく、どうしたのかと思っていると電話があった。
それは、あいつの母親からだった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
母親は泣きながら俺に電話口で話した。
ーー交通事故に遭った、と。
「はぁ、はぁ、はぁ、クソ……ッ!」
ピアノばかりで運動してこなかった俺は、痛む腹を堪えながら走り続ける。
あいつがいるーー病院に。
「ここ、か……ッ!」
病院にたどり着いた俺はその足で病室に向かう。
あいつがいる病室は聞いている。消毒の独特な臭いがする白を基調とした清潔感のある廊下を走っていると、病室の前にある長椅子にあいつの母親が座っているのが見えた。
母親は目を真っ赤にして涙を流しながら、俺に気付くと力なく頷いた。
病室の扉の前で荒くなった息を整えてから、俺はノックするとーー。
「ーーどうぞ」
扉の向こうで、あいつの声がした。
俺はゴクリと息を呑み、ゆっくりと扉を開く。
「ーーやぁ」
そこにはいつもと変わらない微笑みを浮かべながら、ベッドに横になっているあいつの姿があった。
だけど、いつもと違うところがある。
それは、頭に包帯が巻かれーー右腕をギプスで固定していることだった。
「それ……」
掠れた声で聞くと、苦笑しながらギプスを撫でる。
「うん、ちょっと事故ってね。右尺骨骨折だってさ。しかも、尺骨神経損傷もしてるって」
なんともないように、怪我の状況を説明してくる。
これでも長い付き合いだ。何を思っているのか、そしてどうなってしまったのか。俺には分かっていた。
「んなことどうでもいいんだよ……治るのか?」
だけど、俺はそうであって欲しくなかった。
だから、俺は聞いた。
ーーお前はピアノを弾けるのか、と。
俺が問いかけると、驚いたように目を丸くさせ……今にも泣きそうな顔で俺から目を反らす。
「骨がくっついてギプスが外れても、後遺症は残るってさ。前腕から手のひらの感覚が麻痺して、指の細かい動きが出来なくなる……ピアノは、絶望的だって言われたよ」
絶望的。
その言葉に膝を着きそうになるのを、必死に堪えた。
一番ショックを受けたのは、俺じゃない。こいつが一番、ショックに決まってる。
「で、でもよ、リハビリすれば、弾けるようになるんじゃねぇのか?」
「出来ないことはないらしい」
「じゃ、じゃあ!」
「一年半から三年ぐらいのリハビリで、可能性としてね」
「か、可能性はあるんだろ!?」
「……難しいってさ。弾けるようになったら奇跡、のレベルでね」
諦めたように、どうでもいいと言わんばかりに吐き捨てていた。
その姿に俺は、思わずカッとなってしまう。
「ふざけんなよ! リハビリすりゃ、弾けるようになるかもしれないんだろ!? どうしてお前は、そうやって諦めてんだよ!」
俺の怒鳴り声に、あいつは目を閉じて顔を背けた。
「勝ち逃げするつもりかよ……俺が、どんな思いでお前に勝とうと頑張ってきたと思ってんだよ! こんな終わり方、俺は許さねぇぞ! 絶対に治して、俺と……」
「ーー無理なんだよ! もう、ボクはピアノが弾けないんだ!」
怒鳴り返しながら勢いよく起き上がり、左手で俺の襟首を掴んできた。
こんなに感情をむき出しにするこいつを、俺は初めて見た。
「リハビリすれば治るかもしれない! だけど、前と同じように弾けるはずがない! ボクは、もうピアニストとして終わったんだ!」
我慢していた物が爆発したように叫ぶと、俺の襟首から手を離してうなだれる。
「ーーボクはもう、魔法使いになれない……音楽の魔法なんて、ないんだよ」
あれだけ子供の時から言っていた「音楽の魔法」を、みんなに感動を与える「魔法使い」になる夢を、こいつは諦めてしまっていた。
そんな姿なんて、見たくなかった。
「……ざけんなよ」
心の奥底から沸々と何かが燃えたぎっているのを感じる。
これは、怒り? それとも、悲しみ?
「ーーふざけんなよ!」
違う。これは、そんなんじゃない。
怒りや悲しみ、ましてや喜びなんかでもない。感情じゃない。
俺は唖然としているこいつの襟首を掴み、額同士をぶつけて睨みつける。
「だったら、俺が見せてやるよ」
心からこみ上げてくるのはーー覚悟。
「コンクールの本戦、絶対に来い」
絶対にこいつに、諦めて欲しくない。
だから、俺は覚悟を決めた。
「ーー音楽の魔法を、見せてやるよ」
こいつに「音楽の魔法」をかける「魔法使い」になってやる、と。
♪
本戦当日。
俺は控え室で自分の出番を待っていた。
出番はもうすぐだ。椅子に座り、組んだ手に額を乗せながら目を閉じる。
心臓が爆発しそうだ。今にも口から飛び出そうだ。
あいつは来るだろうか? 怪我をしてすぐだ、病院から出られないんじゃないのか?
来たとしても、俺があいつに魔法をかけることが出来るのか?
そもそも、今の状態で弾けるのか?
「……クソッ! 落ち着け、俺!」
不安と緊張で頭の中がこんがらがってきている。
気合いを入れ直すために頬をパチンと叩くと、スタッフから声をかけられた。
ダメだ、まだ、まだ俺の心が落ち着いてない。
どうする、このままステージに上がったら、俺は……ッ!
「はぁ……はぁ……」
緊張で息が荒くなってくる。
舞台袖から出てピアノに向かっていくけど、いつもよりもピアノが巨大に見えて俺に迫って来るように見えた。
震える足でどうにかピアノの前に立ち、ゆっくりと観客席の方に顔を向ける。
「ーーあ」
観客席の出入り口付近に、あいつの姿があった。
あいつの顔を見た瞬間、緊張感が吹き飛んでいく。
心に残るのはーー覚悟。
そして、子供の頃からずっと思い続けていたーー負けたくない気持ち。
俺よりも才能があって、いつも俺の先を走っていたあいつに追いつきたいと、追い抜きたいと思って頑張ってきた。
今、あいつは立ち止まっている。膝を着いて諦めようとしている。
俺はそれが、許せないんだ。
「ーー行くぞ、俺」
ピアノの前に座り、天井を見上げる。眩しいぐらいのスポットライト。光に舞う雪のような埃。
静かに目を閉じ、ゆっくりと鍵盤に指を置く。
ーー音楽の魔法を信じる?
子供の頃のあいつの言葉が頭を過ぎる。
俺は笑みを浮かべ、答えの代わりに演奏を始めた。
高速に、長く激しい和声的な短音階から始まるショパンの曲ーー練習曲ハ短調作品10ー12<革命のエチュード>を。
左指を滑らかに、激しく、正確に、落ち着いて演奏する。ただ激しいだけじゃダメだ。楽譜の通りに、速く、雑音にならないように気をつけて一気に弾いていく。
忙しく左手を動かしながら、右手は一定に、器械的に。
今のところミスは一つもない。楽譜通りに弾けている。今日は今までで一番調子がいい。
そのはずなのに、どこか足りない。何かが足りない。
これじゃあ、俺はあいつに魔法をかけられない。
悩みながら、考えながら弾く。
足りないものはなんだ?
俺になくて、あいつにあるものは?
あいつになくて、俺にあるものは?
深く、楽譜に、曲にのめり込め。探し出せ。足りないものを、必要なものを。
「ーーッ!」
全力で練習してきただろ。
寝る間も惜しんで、指がつりながら、必死に。魂を削って。全力で。
なのに、どうして?
俺の迷いが指の動きに伝わっている。このままだと、ミスる。一度でもミスったら、この曲は取り返しがつかないことにーー!
「演奏を聴いたみんなを感動させることだよ」
あいつの言葉が頭を過ぎる。
そうだ、俺はーーあいつに、みんなに、伝えたいんだ。
ーー音楽の魔法の素晴らしさを。感動を。
その瞬間、不思議なことが起きた。
かなり難しいはず曲なのに指が軽やかに動き、自然と踊るように動かせていた。
音が広がるのを感じる。俺の感情に乗せて音色が観客に届くのを感じる。
もっとだ。もっと、伝われ。
もっともっと、届け。
あいつにーー絶望して膝を着いているあいつに届け。伝われ。
どんなに苦しくても、俺たちは弾かなきゃいけないんだ。そうやって生きていくしかないんだ。
もう俺たちはピアノなしでは生きていけないんだよ。
だって俺たちはーーピアニスト。
ピアノに心を奪われた、ピアノの可能性を誰よりも信じてるーー魔法使いなんだから。
熱く、燃えたぎるような情熱を持ってピアノを弾いていく。
もう少しで曲が終わってしまう。まだ続けていたい。もっと弾いていたい。まだまだ弾き足りない。
俺の意志とは裏腹に、曲は最後の小節に入った。
全力で、俺の全てを込めてーー惜しむように最後はリダルダンドで弾き終える。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
息をするのを忘れてたみたいだ。肩で息を吸いながら脱力する。
ーーそして、観客席から爆発するように歓声と拍手が巻き起こった。
コンクールで歓声はあまりよくないことだけど……素直に嬉しかった。
俺の演奏は観客に伝わったんだ。感動を与えられたんだ。魔法をかけることが出来たんだ。
俺は立ち上がり、観客に向かって頭を下げる。そして、顔を上げて出入り口付近にいるあいつに目を向けた。
あいつは涙を流しながら、俺に向かって手を振っていた。
伝わったかな。届いたかな。
いや、絶対に伝わったはずだ。
だって俺たちはーー。
だってボクたちはーー。
ーー魔法に魅せられた、魔法使いなんだから。
♪
あの日から三年。高校生活最後の演奏が始まろうとしていた。
薄暗い舞台袖で、俺は不意に問いかける。
「なぁ、音楽の魔法を信じるか?」
俺の質問に、あいつは笑みを浮かべて答えた。
「もちろんだよ。ボクは魔法使い。ピアノで色んな人に感動を与えるピアニストなんだから」
あいつは意趣返しにように問いかける。
「キミは音楽の魔法を信じる?」
俺も同じように笑みを浮かべて、はっきりと答えた。
「あぁ、当然だろ?」
俺の答えに気をよくしたのか、俺に右腕を向けてきた。
俺はその腕に左腕をコツンとぶつける。
「じゃ、やろうか」
「あぁ、やろうぜ」
俺たちがステージに上がると、観客が盛り上がっていた。
みんなが俺たちを見ている。俺たちの音楽を聴きに来ている。
それがどうしようもなく嬉しくて、楽しい。
「ミスるなよ?」
「誰に言ってるの?」
二人で笑い合い、並んで椅子に座る。
ゆっくりと深呼吸してから、俺たちは鍵盤に指を置いた。
「ねぇ、ふと思ったんだけど……ボクたちが魔法使いなら、ピアノは杖になるのかな?」
こんな時に脳天気に聞いてこられ、俺は思わず吹き出した。
「そうかもな。さしずめ、このピアノはーー」
『魔法使いのピアノ』って言ったところか?
その言葉を最後に、俺たちは同時に一つのピアノを弾き始めた。