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第一幕 プロローグ
私は猫である。いかにも猫に名前という概念が存在するのかという問題はさておくとして私は自分の呼び名とでも言うべきものが思い出せない。なにぶん気がつくと薄暗くじめじめとした所でニャーニャー鳴いており、それ以前の記憶が自分でも恐ろしくなるほどに無いのである。ここで私が「自分でも恐ろしくなるほどに」などと表現したのは、なにも言い回しに文学的センスのようなものをチラつかせ、私の語り手としての才能をひけらかしたかった訳では無い。正確に言えば私のそれ以前の記憶は無いのではない。確かに存在したという根拠の無い確信が私にはあるのである。あるのではあるがこれまた文学的な豊かさを含ませるのであれば、存在したはずの私の記憶は春を迎えた山々の白粉の如くいつの間にやら消えてしまったのである。