割を食った王子
「僕がナハトーク侯爵令嬢と?」
「そうだ。近日中にアレとの婚約を解消し、発表させる」
王国の全てを司る父上の執務室。
そこで本来ならありえない話をされた。
「ナハトーク侯爵令嬢は兄上の婚約者ではないですか。それを、第二王子の婚約者に落とすと?」
確かに兄上は婚約者がいながら他家の娘と懇意にしているという話は聞いた事があるが、彼女を婚約者から外すのを父上とナハトーク侯爵が認めるとは思わなかった。
「ナハトークから王妃を出すのは既に決定した事だ。だが、アレはそれの意味を解さず他の女を娶る為に解消を申し出てきおった。自らの地位に応じた役割も果たせぬ愚物は不要。故に、アレは廃棄する。代わりはお前だ」
父上の眼は決して鋭くは無く、むしろ眠気を憶えてるのかと思える眼が、僕を捉える。
だけどその眼に宿る力はどの大貴族の当主の眼よりも強く恐ろしい。
王国の混乱期に欲の儘に跳梁跋扈していた貴族達を支配しまとめ上げ、領土を切取ろうと暗躍する周辺諸国を逆に喰らった、覇王と呼ばれる父上の片鱗。
思わず竦みそうになる我が身を叱咤して、分かりましたと返答する。
「なら、良い。婚約前に一度ハナトークの娘との顔合わせの場を用意する故、心しておけ」
「はい」
まだ婚約解消前にそういう意味での顔合わせは不味いのではとも思うけど、この国で父上の言葉に逆らえるものは居ない。
それで湧く陰口も、それを決めた父上への批判とされかねない以上は余程命が必要のない者でなければ公で口に出したりはしないだろう。
退出の許可を受け自室へと戻るため歩を進めるが、どうにも足が重い。
いや、足じゃなくこれは気の問題だ。
兄上と彼女の婚約が解消され、僕に移るという事は僕が王太子に任じられるという事。
偉大な父上の跡を継げるだけの器と力は僕にはないし、それは父上も了解している。
だからこその、父上の第一の側近たるナハトーク侯爵家との婚約。
兄上や僕を王とするためではなく、長年の忠誠への褒美として王家に血を入れさせるため。
王家に血を入れたナハトーク侯爵家は摂政として政治を司る権利を得る事になる。
今回の婚約もその為の手続きにすぎない。
だけど、それらを差し引いても、彼女はこの国で一番の令嬢に間違いない。
その人格も教養も容姿も全て、望みうる最高の人だ。
あの兄上が僕でも知りうる暗黙の了解を察しない筈なのに、父上に逆らい彼女を捨ててしまえる程に欲しい者が居たのだろうか?
――――僕には、分からない。
「ミクリス・ナミア・ヴェル・ナハトークです」
「僕はヴェルモット・ルク・ライケンスモート。よろしく、ナハトーク嬢」
王宮での顔合わせ。
といっても、互いに知らない訳じゃない。
僕は王子で相手は侯爵令嬢、互いが参加するようなパーティや行事などでは必ず顔を合わせて挨拶していたから、こうして改まって自己紹介するのもおかしな気分だ。
「ナハトーク嬢には兄上の件で多大な迷惑をおかけしました。公的なものでは無くて申し訳ないけど、僕からも謝罪を」
「いえ、ヴェルモット殿下が謝罪される必要はありません。これも、私の不出来故ですから」
「貴女が兄上と婚約されてからどれ程に努力を重ねてきたかこの王宮で知らぬ者は居ません。そんな貴女が不出来であるのなら、大陸中の令嬢方の誰であってもそうだったでしょう。父上もナハトーク嬢に申し訳ないと思ってらっしゃるようでした」
ただしくは彼女の父上にだろうけど、それを言う必要はない。
「ありがとうございます」
儚げに微笑む彼女は、やはり兄上との婚約解消を引き摺っている様だった。
十年近くも婚約者として側にいたのだから当然で、しかもその次の婚約者が解消した相手の弟となれば口では言えない事をどれだけ貯め込んでしまっているのか想像もつかない。
かといって、どう接するのが正解なのかも僕には分からない。
それからしばらく彼女と話をしたが、深く踏み込む度胸もなくどれも当たり障りのないもの。
顔合わせ自体は体裁上は成功だろうが、当事者からすれば成功とは言い難い。
だが、こうして面と向かって話をして実感した。
彼女はやはり令嬢としてとても素晴らしい人で、王妃の座についても不足無く王を支えてくれるはずだ。
なのに、なんで兄上は自らの地位も名誉も捨てるのを分かっていて他の令嬢を選んだりしたのか。
それ程までに、その相手が愛していたのだろうか。
そうして結ばれても、王家とナハトーク侯爵家からの不信は残って社交界でも他家と碌な付き合いをする事も出来なくなるだろうに。
「…………兄上にお聞きするのが一番か」
彼女との婚約解消が決まってから、兄上の住居は王宮内から東征宮と呼ばれる離宮へと移されている。
華美な装飾などは一切なく、小さく変わった作りの要塞と言うべき風情の宮。
そこに封じられた兄上は前と一切変わる様子なく僕を迎え入れてくれた。
「良く来た弟よ。この宮ではやる事なぞ体を鍛える事ぐらいしか無くてな、話し相手が来て嬉しいぞ」
「兄上、単刀直入にお聞きします。なぜ彼女との婚約を解消するよう願い出たのですか」
面白そうに笑う兄上に、聞きたい事をぶつけた。
手順を踏む悠長さでは兄上にはぐらかされて終わってしまう。
「ほう?それが聞きたくて東征宮まで来るとはオレ以上に暇を持て余しているようだな。立太子目前で忙しくはないのか?」
「はぐらかさないで下さい。彼女を、地位も名誉も全て捨てる程に勝ちがあるモノがあったのですか?」
「そうだ」
短く告げられた言葉。
だけど、その短さに反して万感の想いが詰まった様な一言だった。
「せっかく来てくれたのだ。駄賃くらいはくれてやろう。そうさな、オレがアイツにあったのは偶然だった。鷹狩りに森へ出た時、殺されそうになってるアイツを見かけたのが始まりだ」
「はい?」
「黙って聞いていろ。殺されかけていた理由は、まぁアイツ自身にとっては重要な事だったがオレには興味の無い事故に割愛するが、まぁ事情が込み合い攫われ殺されかけていたのだ。普通の令嬢であれば口を塞がれ縛れているのであれば身体が恐怖で固まるなり、喋れないなりに泣き叫ぶなどするだろう?だが、アレはなんと自分を拘束して殺そうとする相手の顔に頭突きをかましたのよ!」
兄上が楽しそうに話してるけど、内容が理解しがたい。
何かの娯楽本の内容を言ってるだけじゃないだろうか?
「そして相手が怯んだすきに、無様に転がって逃げようとしていてな。まぁ逃げられる訳がないのだが、その滑稽さに免じて助けてやったのが出会いであるな」
「…………兄上」
「助けてやったついでにどんな顔をした道化か見てやろうと思い、顔を見たのだ。その時に見た瞳は、ああ。見た事もない程に強い意志と生命を感じさせるものであった。その輝きは今まで見たどの輝石よりも輝かしく、オレの眼に映った」
それまで笑い話を語るようだった兄上の声音が変わる。
それは、とても愛おしいものを語る声音。
「オレはあの瞳が見たくてアイツに逢いに行ってやってたのだが、アイツはオレの顔を見るなり露骨に嫌な顔をしていたわ。下級貴族の私が殿下と懇意にしてると思われたら色々と困るんですよ、等とほざいたりしながらな。オレの寵愛を受ける名誉を有難がるのではなく迷惑がるなど、あの頃から不敬の塊みたいな奴だった。だが、その時からであろうな。オレはオレが選んだモノを手にしたいと思ったのは。今迄オレに与えられてきたのは、全て父の都合に沿ったモノしかなかった。それはミクリスも同じ、ナハトーク侯爵が手塩をかけた人形をオレに与え支配しようとしていたわけだ」
「彼女は―――「ヴェルモット」―――ッ!」
「黙って聞けと言っただろう。それとも、話を切り上げるか?」
「……いえ。続きを」
「うむ。と言っても話す事も殆ど残っていないのだがな。まずオレはアイツを手に入れる事にした。アイツが側にいれば、どの様な魔窟に放り込まれようともオレは先に進む事が出来る。その為に引き換えにする必要があったのが、先程お前が問い掛けた内容のものだ。それでアイツが手に入れられるのであれば大した対価でもない。ミクリスはともかく、他の二つはその後でどうとでもなるものでしかないのだからな」
兄上がどれ程に、兄上が選んだ令嬢を重要視してるのかは分かった。
ここまで話を聞いても、それ程までに兄上が焦がれる相手というのは想像し難い存在だったけど。
「まぁそれでお前には苦労をかける事になってしまったがな。だが代わりにミクリスを手にしたのだ。不満は無かろう?」
「兄上、彼女は物ではありません。その様に話すのはお止め下さい」
「物……?ああ、先程に人形と称した事を気にしてるのか?それはあくまでオレの婚約者として振る舞っていたミクリスの事だが。だが、ふむ。ヴェルモット、もしやと思うが、ミクリスの事を薄く細いガラス細工の様に繊細かつ儚い者だとでも思っているのか?」
まるで違うとでも言いたそうに兄上は聞いてくる。
そんなもの、言うまでもない事なのに。
「僕は、そうだと思っています。前に顔を合わせ話した時も、兄上との婚約解消の事を引き摺っている様でした」
兄上はなんとも言えない表情をする。
「成程、な。うむ。まぁ所詮、男では女を超えられぬというとこか」
何か兄上が似合わぬ小声で何かを呟くが、何を言っているのかその内容は理解する事は出来なかった。
「何を……?」
「知らなくていい。とにかく、お前が問うた事への答と言えるのはこれぐらいだろう」
「……ありがとうございます。ですが、兄上。今回の婚約解消で兄上は父上にもナハトーク侯爵にも睨まれる結果となっています。今の御住いについてもそうですし、これからどうするおつもりですか?この国であの二人に睨まれたら生きていく事なんて不可能です。兄上が仰っていた令嬢の家もいつ取り潰されてしまうか」
「なんだ、そんな事を気にしているのか」
兄上が下らんと言いながら水差しから杯に水を注ぎ入れる。
「ヴェルモット。オレが何の手も打たずに婚約解消を申し出たと思っているのか?もしそうであれば、オレがこうして五体満足でいる訳がなかろう。既に両の手足の指では足らぬ程に殺されているわ」
「手を打つと言っても、何を?」
「弟よ。確かに父はこの国の絶対なる支配者であり、周辺諸国も父の威光に怯え縮こまっている程だ。ナハトークもその腹心として一家臣には過ぎた多大なる権力を持っている。だがな、父もナハトークも神ではなく生身の人間に過ぎない。であれば、生きていれば弱みの一つや二つ出てしまうもの。むしろ現在、オレとアイツの身の安全にもっとも気を配っているのはあの二人だろうよ」
そう言って笑いながら杯の水を一気に煽る兄上。
「さて、良い時間だ。そろそろ王宮に戻るといい。久々に楽しめた時間であったぞ」
存外に話は終わりだと切られてしまう。
このまま無理に聞いても兄上は答えてくれないのは、僕にもわかる。
席を立って謝辞を述べて帰ろうとすると、兄上が最後にこう言葉をかけてきた。
「弟よ。目に映り耳に届くもの全てがありのままとは限らぬ。誰よりも偉大で恐怖を体現している者、手に触れたら砕けてしまいそうな程にか弱き者。それらが真に正しいのか、まずはそれを疑う事を覚えるといい」
その真意は分からないけども、父上や彼女について考えろと言われてるのだと思う。
それで僕は兄上の代わりに、彼女を支えられるようになれるのだろうか?
未熟な僕には、分からない。