そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)vol,02<chapter,06>
ロドニーは屋敷の正面玄関から飛び出し、結界を張っているデニスに言う。
「騎士団本部に連絡! この屋敷、地下にホムンクルスの製造プラントがある! それと、爆弾が仕掛けられている! 爆発力ほか一切の性能は不明!」
「え? なんですって? ホムンクルス? 爆弾? これってゴースト案件ですよね?」
「いいかデニス、よく聞け。世の中にはな、『うらめしや~』って出てくる幽霊さんだけとは限らねえんだよ。今回はなんと、ホムンクルスと爆弾がくっついてきやがったんだ。豪華三本立てなんだよ。そういうこともあるんだ。分かったか?」
「ええ、なんとなく」
「よしきたOKいい子だベイビー。そのまま伝えてくれれば、隊長がこの世の終わりみたいな顔で何とかしてくれるはずだから! 頼んだぜ! 俺たち今から地下に入るから! じゃあな!」
「あ、はい。いってらっしゃーい」
緊急事態の特務部隊は、たいていこんなノリである。見慣れているデニスは淡々と通信端末を操作し、騎士団本部に連絡を入れる。
「あ、もしもし、こちら車両管理部のデニス・ロットンです。ベイカー隊長、ハドソンさんからの伝言なんですが……」
「なんだ?」
「屋敷の地下にホムンクルスの製造プラントがある。それと、爆弾が仕掛けられている。爆発力ほか、一切の性能は不明。以上です」
「……ホムンクルス?」
「はい、そうおっしゃっていましたよ?」
「爆弾もあるのか?」
「ええ、ゴースト、ホムンクルス、爆弾の豪華三本立てだそうです」
「そうか。それは大変だ。連絡ありがとう。君は念のため、防御呪符を体中に貼った状態で屋敷から百メートルくらい離れていてくれ。本当に爆発したら大変だからな」
「庭の散水用スプリンクラーも使ってよろしいでしょうか? 万一爆発した際、草地に引火しないように」
「ああ。使えそうなものはすべて使ってくれ。大規模火災よりは、水浸しのほうが幾分かましだ」
「ありがとうございます。では、また何かありましたらお知らせいたします」
「頼んだぞ」
「はい。失礼します」
通信を切った直後、ベイカーはこの世の終わりのような顔で呟いた。
「ただの空き家の調査で……何がどうしてそうなった……?」
ロドニーの予想通りの反応だが、残念ながら、この表情を目撃した者はいない。
母屋の裏手のボイラー室。その床の鉄板が一枚だけ外されていた。
「なるほど。ボイラーの土台に見せかけた隠し扉か……」
試しにその鉄板を元あった位置に戻してみると、何の違和感もなく床板の一部になってしまった。どこから見てもただの床。外部からボイラーの整備工を呼んだとしても、ここに隠し扉があると気づかれることはないだろう。
「あの、ロドニーさん? ゴヤさんは、どうやってこれを発見したのでしょうか? こんなに巧妙な隠し扉を……」
「んん~……ミラクルパワーかな?」
「ミラクルパワー」
「ああ。あいつは天才的にミラクル体質なんだ」
「ミラクル体質」
「なぜか都合よく隠し扉の前ですっころんで、手をついた拍子に隠し部屋に転がり込むような奇跡的展開が七回……いや、八回かな? 俺が知ってるだけでもそのくらいあるんだ。ミラクルだろ?」
「ええ、大変ミラクルですね。なぜ、そのようなことが起こるのでしょう……」
「まあたぶん、幽霊の仕業だな。今回のことだって、あのメイドの口ぶりじゃあ……」
「ゴヤさんが霊視体質だと気づいて、わざとここから出入りして見せたのでしょうか」
「だろうな。不発に終わった起爆装置の代わりになりそうな奴を探してたんだとしたら……」
二人は顔を見合わせる。
突入自体は決定事項だが、中の状況も、構造も、なにも分からない。ただ一つ確実なことは、ここにいる霊には自分たちの攻撃は通用しないということである。
戦闘中のゴヤを邪魔しないように爆弾を発見し、撤去、もしくは無力化する。それ以外にできることはない。
「俺が先に行く。爆弾に当たる恐れがあるから、攻撃魔法と魔弾は使用禁止。絶対に俺の間合いに入るな。剣が届かない距離を保て。ヤバいと思ったら、お前ひとりで逃げろ。いいな?」
「防御魔法を使い、私が先行するべきでは?」
「いいや。ここの霊は自分が死者だっつー自覚がある。物理防壁なんかすり抜けてくるぜ」
「魔法障壁も駄目でしょうか?」
「昨日も言ったろ。常に最悪の状況を想定して動け。防御魔法がまったく利かない相手だったら、お前どうする気だ? 走って逃げるって言ったって、お前、夜間視力は? ここから見た限りでも相当暗いぜ? 見えるのか?」
「……いえ。ほぼ見えません」
「だろ? 無理すんな。お前もともと、こういう特殊任務は経験が無いんだから。見学のつもりでついてくればいいからさ。な?」
「ですが……」
「大丈夫だって。この前も言ったろ? なんでも完璧にこなす必要なんかねえんだから。それよりも、お前の特技が必要になると思うぜ」
「特技……治癒魔法でしょうか?」
「ああ。たぶん、ゴヤのやつ出血してるな。ちょっとだけど、血の匂いがする。あいつに接触できるチャンスがあったら治してやってくれ。行くぞ」
「……はい!」
夜目が利き、鼻が利く。人狼の能力はただのヒトとは異なる次元のものであると、分かっているつもりだった。少なくとも、知識の上では理解している。しかし――。
(いけないな。私は、また……)
家のため、部屋から出られない兄のため、自分が頑張らなくては。これまでずっと、そう思って生きてきた。『対等な仲間と力を合わせる』という当たり前の行動が、マルコにとってはまだまだ不慣れなことであった。
先を行くロドニーの背を見つめ、己の心をリセットする。
(良いのだ、マルコ・ファレル。この人は……この人になら、頼って良いのだ。彼は私より強い。強がるな。ありのままでいい。ありのままで……自分らしい方法で、この人の助けになれば良いのだ……)
薄暗い地下通路。仄明るい非常灯のみが足元を照らす。自分一人ならば、足がすくんで動けなかっただろう。しかし今、自分の前には彼がいる。
ロドニー・ハドソン。少年ヒーローのような彼の存在が、自分の生き方を変えた。この人が「治してやってくれ」と言うのなら、その願い、何としてでも叶えてみせる所存である。
(お役に立ってみせますよ、ロドニーさん)
頑張りすぎることをやめても、努力することはやめられない。それがマルコの性分である。見学に甘んじるつもりはなかった。
二人は、暗い廊下を進む。
廊下の先、大きな鉄の扉の向こうで、ゴヤと執事の戦いは続いていた。当初はゴヤが優勢であったが、戦いが長引くほどに形勢は逆転していった。ゴヤは生者、執事は死者。肉体を持つゴヤは動いた分だけ消耗してしまう。
今も間一髪、執事のサーベルをナイフで止めた。
「おや、どうなさいました? 反応が鈍っておいでですよ?」
「く……」
軽口で返す余裕はない。受けた刃を横に流し、執事の懐に入り込む。
「はっ!」
左手で執事の手を取る。サーベルを持った右手を押さえられ、執事は一瞬、対処に迷った。振り解くか、このまま超接近戦に持ち込むか。ゴヤにとっては『腕を掴んだだけ』でも、執事の目には『這い回る蟲たち』が見えている。ゴヤはその一瞬の隙を衝き、執事の首にナイフを突き立てた。
こんな攻撃は効かない。執事は余裕の表情で、避けようともしなかった。ゴヤはナイフを突き立てたまま右手に力を込め、執事の動きを止める。
そう、これはただの下準備である。
「がっ……」
ゴヤの頭突きが極まる。執事の鼻がへし折られるが、血は出ない。執事に肉体はないのだ。ゴヤの能力によって霊体に直に触れられるだけで、今は《サンスクリプター》も解除されている。
霊体そのものを掴まれているため、消えて逃げることはできない。執事も空いた左手でゴヤの腕をつかみ、ナイフを封じる。
「《鬼火》発動!」
「う……ぐあああぁぁぁっ!」
対霊攻撃魔法《鬼火》。それは魂すらも焼き焦がす蒼白の炎。術者を中心に全方位に燃え広がり、死霊に強烈な火炎攻撃を食らわせる。しかしこの魔法、先ほどもそうだったように、術者のいる場所に被害が及ぶことはない。安全圏は半径五十センチ。双方が腕を掴み合ったこの態勢では、その範囲から出ているごく一部、執事の右足にしか当たらない。
けれども、それでも十分効いていた。これまでどんな攻撃を受けても痛みを感じていなかった執事は、魂を直に焼かれる感覚に顔を引きつらせる。
「ぐ……お、おのれ……!」
執事は左手を離した。ゴヤのナイフそのものに特殊効果はない。どれだけ斬り付けられようと、問題なく動けることは実証済み。ならば警戒すべきは《鬼火》のみである。
先ほどのお返しとでもいうように、ゴヤの襟首を掴んで頭突きを食らわす。
「うっ!」
執事のほうが五センチばかり背が高い。執事の頭突きはゴヤの額に極まる。
「この!」
ゴヤも自由になった右手で執事を滅多刺しにするが、対霊武器ではないため、攻撃したところで決定打とはなり得ない。上背のある執事を投げ飛ばすには体勢も悪く、このままではただやられるのみである。
(なんとか、他の手を……うっ!)
執事の頭突きで額が切れたらしい。流れ落ちた血で左目が開けられない。
(マジかよ……クソ!)
ゴヤは左手の力をふっと緩め、同時に攻撃魔法を放った。
「《火炎弾》!」
今は《サンスクリプター》が効いていない状態。ゴヤは生まれ持った体質のおかげで霊に触れられるが、対人攻撃魔法は霊には効かない。
だが、しかし。
これまでさんざん掴み合いの格闘をしていた執事は、この攻撃を反射的に避けてしまった。拘束の緩んだ手を振り払い、ゴヤから離れるように跳ぶ。
ゴヤは、口の端だけで小さく笑った。
「《鬼火》!」
今度は直撃した。
執事の魂は青い炎に包まれ、悲鳴を上げることもできぬまま形を失ってゆく。魔弾での攻撃同様、霊は光の粒になってフワフワと舞い飛び、やがて虚空に溶けて消える。
ゆっくりと、静かに、幻想的な美しさを湛えた消失の瞬間。
ゴヤはそれを見届けると、大きく息を吐き、その場に膝をついた。
「はぁ~……ヤバかった……マジ、ちょっと死ぬかと思った……」
一気に脱力する。
なんとかしてこの地下室の秘密を聞き出すつもりだったのに、これだけ消耗して、結局何も聞き出せず仕舞いだ。装備品にもかなりの損傷がある。ボロボロになった自分の衣服を見て、ゴヤは肩を落としてぼやいた。
「うう……隊長、怒るだろうなぁ。また修繕費がかさむって……。袖も血塗れになっちゃったし……」
額の出血を拭ったため、左袖は特に酷い有様だった。パックリ割れた額は傷の大きさの割に出血がひどく、まだ左目は開けられない。
「まあいいや。とりあえず先輩と合流して……」
自分で額の止血をするのは難しい。ロドニーに何とかしてもらおうと、くるりと振り向いたときだった。
「え……」
執事がいた。
たった今燃やした男ではない。同じお仕着せの男たちが、棒のような物を大きく振りかぶっていて――。
暗い廊下を慎重に進んでいた二人の耳に、男の悲鳴が聞こえた。短くくぐもった苦悶の声に、鈍い打撃音が混ざる。
反射的に駆け出すロドニーに、マルコはすかさず魔法をかけた。
「《銀の鎧》、発動!」
対物、対魔両用防御魔法である。霊の繰り出す攻撃にどの程度耐えられるかは定かでないが、何もしないよりはマシだと判断した。
ロドニーは振り向くことなく、軽く手を挙げる。
「ありがとよ」
口には出さないその声が、マルコの耳にはしっかり届いた。
「《真空波》!」
ロドニーは得意の風の魔法を使い、突き当りの扉を破壊する。全力疾走の勢いそのままに室内に突入。素早く物陰に身を潜め、状況を把握する。
部屋の広さは少なくとも三十メートル四方。天井高は五メートル強。その空間の大半が大型の機械で埋め尽くされ、縦横無尽に配管と配線が張り巡らされている。照明装置はあるが、今は点灯していない。スイッチパネルの場所が分からない以上、大型機械の放つ緑色の明かりだけが頼りである。
その機械の前で、執事服の男二人が床に倒れたゴヤに暴行を加えているようだ。彼らの場所まで十メートルほど。遮蔽物はない。ロドニーの足と破壊力ならば、この距離からまっすぐ突っ込んでいっても十分に戦える。
ただし、相手が人間であれば。
(クソ……魔弾なしじゃ、何やったって効くわけねえし……)
すぐにでも仲間を助けたいが、それができない以上、自分は爆弾の発見と無力化に当たるしかない。
(すまねえゴヤ、もうちょっとだけ耐えてくれ……!)
ロドニーは扉のほうに視線を移す。
真空の刃で扉を切り裂き、それが落下する前に滑り込んだ。物音に反応して振り向いたとしても、ロドニーの姿は視認できていないはずである。そして扉が無くなった出入り口には、後からやってきたマルコのみが見え――。
「なんだお前は!」
「この男の仲間か!」
執事服の二人はマルコにそう言った。けれども、マルコはその声を聴いていない。二人の足元に転がったもの――それが人だと気づいた瞬間、マルコの頭は怒りに支配されていた。二人の手にはデッキブラシ。薄暗い緑色の照明でも、そこにべったりと付着した液体が血であることくらいは見て取れる。
「貴様らあああぁぁぁ! そこに直れぇぇぇーっ!」
マルコは剣を抜き、一直線に斬りかかる。
ホルダーに収めていても、《サンスクリプター》そのものは解除していない。仮初の肉体が存在する以上、剣で斬りつけることはできる。が、しかし――。
「な……」
手ごたえはあったのに、二人は平然としていた。
それはそうだ。彼らは死人であり、それを自覚している。裂けた腹から臓物をはみ出させたまま、構うことなくマルコに殴りかかる。
咄嗟に応戦するマルコだが、彼はロドニーほど異常事態への耐性ができていない。動揺は切っ先を鈍らせ、たかだか素人二人に、ひどく苦戦させられる。
足元のゴヤをかばいながら二対一の接近戦。攻撃魔法が使えず、物理攻撃は効かない。こんな条件下での戦闘は経験がなかった。
(どうすれば……)
いくら考えたところで、答えなど出るはずもない。『同じ戦い』というものはあるはずもなく、参考にできそうな前例もないのだから。
繰り出される敵の攻撃を一つ一つ捌き、わずかな隙を見つけてこちらから斬りつける。確実に当たる。当たってはいるのだが――。
(これが……対霊戦闘……っ!)
生者と死者とが尊厳のすべてをかけてぶつかり合う。死してなお何かを成し遂げようとする意志の力。それを打ち砕くべく全身全霊をもって立ちはだかることの、なんと困難なことか。
体力以上に、精神力が削がれていくのを感じる。
(主従関係だけで……ただの忠誠心だけで、これほどの意志の力が働くものだろうか? ヘンケルス家の当主と彼らの間に、いったい何が……?)
不意に脳裏によぎるのは、子供のころからずっと面倒を見てくれたばあやの顔だった。結婚もせず、子も産まず、メイドとして仕え続けているあの女性は、自分を実の子のように可愛がってくれた。血の繋がりなどなくとも、自分は自信をもってこう言える。
私を育ててくれた『母』はあの人だと。
(……そうか。ヘンケルス家の当主も、きっと……)
使用人たちの身の振り方を詳細に書き記して、自ら姿を消した。それは人造生命体に植え付けられた、紛い物の感情なのだろうか。プログラムに基づいた、機械的な行動だったのだろうか。
(……いや、違う。きっと、当主は本当に……)
使用人たちを家族と思い、大切にしていたはずだ。
そして今、自分が戦っている男たちも――。
(自分たちの『息子』がホムンクルスと知られぬよう……『作り物』呼ばわりされぬよう……)
すべての証拠を消し去ろうとしている。あのメイドはヘンケルス家の名誉を守るためと言っていたが、違う。
守りたいものは、彼ら自身の思い出だ。
(これが……これが対霊戦闘なのか……)
泣きたかった。
相手が大切にしているものも、守ろうとしているものも、すべて理解できる。けれどもそれを踏みにじり、うち砕き、彼らを止めねばならなかった。なぜなら彼らは死者である。ここは死者の国でなく、今を生きる人間たちの国。彼らはここにあってはならない存在なのだから。
マルコは足元の瀕死の男、ガルボナード・ゴヤを思う。彼は対霊戦闘のエキスパートだという。ならば彼は、いつもこんな思いをしているのだろうか。彼の眼には、いったいどんな世界が見えているというのだろう。
考えたくもなかった。
底なしの闇を、その深淵を覗いてしまうような気がして、恐ろしくなった。
得体の知れない恐怖に抗いながら、マルコは男たちの攻撃を防ぎ続ける。だが、男たちの攻撃が左右から同時に繰り出されたとき、マルコは対処を誤ってしまった。
(まずい! この体勢では……っ!)
一方の相手に完全に背を向けてしまった。背後からの衝撃を覚悟し、歯を食いしばる。
その瞬間、ゴヤが声を発した。
「《火炎弾》!」
マルコの足の隙間を抜け、拳大の火の玉が飛ぶ。《火炎弾》は今まさにマルコに殴りかからんとした男に直撃し、その体を後方へと弾き倒す。実体化しているとはいえ、死者に通常魔法攻撃は効かない。男はすぐに起き上がり、再び攻撃態勢に入った。
「ゴ、ゴヤさん! いけません! ここで炎を使っては……!」
マルコが焦って止めようとするが、今のゴヤは朦朧とした意識で必死に魔法を使っている。マルコの言葉など、悠長に聞く余裕はない。
連射される《火炎弾》に肝を冷やしつつも、マルコは執事たちの相手で手いっぱいだった。ゴヤを制止し、爆弾のことを説明し、何度でも立ち上がる執事らの攻撃を掻い潜って治療を施し、共に脱出する。そんな器用な真似は、逆立ちしたって不可能だ。
(どうしたら……どうしたら良いのだ!? ええい! 不甲斐無いぞ、マルコ・ファレル! この程度のことでうろたえてどうする! 何か……何かあるはずだ! 考えろ! ……いや、しかし、どうしたら……)
焦りが思考を堂々巡りさせかけた、そのときである。
「マルコ! そこから一歩も動くな! ゴヤ! 《鬼火》だ! 最大出力でぶちかませ!」
その声は真上から聞こえた。
まさかと思って上を見ると、天井に張り巡らされたダクトの上にロドニーがいる。
上を向いた瞬間にものすごい力で足首を掴まれ、「ひっ」と情けない声をあげてしまったが、そんな声は誰の耳にも届かなかった。
「蓋し徒なる名誉の愚。滅せ、消せよ蒼炎の陣! 《鬼陣・一式》発動!」
凛とした声で詠み上げられた呪文は、マルコにとってまったく馴染みのない魔法、《鬼陣・一式》を発動させた。
周囲に立ち上る青い火柱。十二本の火柱がそれぞれ人の姿を形取り、男たちに群がる。
青白い炎は《鬼火》と変わらない。けれどもその効果は《鬼火》の比ではなかった。
「……え……こ、これは……食べている……のか?」
さながら、地獄の亡者の喰らい合いだった。
無勢に多勢。執事らはなすすべなく取り囲まれ、炎の鬼に腕を、足を、頭を、胸を、腹を――全身の肉を喰い千切られていく。もちろん、本物の肉体はとうの昔に失われている。ここにあるのは《サンスクリプター》で具現化させられた霊体であり、どれだけ攻撃されても痛みを感じない――はずなのだが。
「い、いやだ! いてえ! いてえよぉ! やめてくれぇぇぇーっ!」
「し、死にたくない! 死にたくないっ! 放せ! はなせえええぇぇぇーっ!」
男たちには生前とまったく同じ痛覚があった。そして不思議なことに、その傷口からは確かに、赤々とした血が流れていた。
マルコは目の前の光景が信じられず、茫然とそれを眺める。
(これは……いったい……?)
やがて男たちの体は骨だけになり、炎の鬼は唐突に姿を消した。
後に残るのは物言わぬ屍。しかしそれも、ほんの数秒で光の粒になって消えてしまった。
(何が起こって……??)
完全にフリーズしたマルコの横に、ロドニーがひょいと降りてくる。
「おう! 大丈夫かゴヤ!」
ロドニーは、いまだマルコの足を掴み続けるゴヤの頭を指先でちょんちょんとつつく。だが反応がない。ゴヤはうつぶせに倒れたまま動かなかった。
「なあ、おい。……おーい!」
生きているのも意識があるのも確かである。ロドニーはかなり強引に、ゴヤの襟首を掴んで引き起こす。
「おい、返事くらいしろっつーの!」
そう言ってから、ロドニーは気まずい顔になった。
ゴヤは泣いていた。
「……あー……悪い。また、見えちまったのか?」
ゴヤは滂沱の涙を流し、黙ってこくこくと頷いた。どういうことかと問う顔のマルコに、ロドニーは肩をすくめてみせる。
「えーと……さっきの鬼な、こいつの一部なんだよ。で、あれが喰ってるように見えたのは、肉じゃなくて霊の罪とか、穢れとか、そういうものらしくて……」
「ということは、あれは、霊を浄化していたのですか……?」
「そういうことになるんだけど……こいつ、喰った霊の記憶が見えちまうらしくて……」
そうだろ? と眼だけで問うロドニーに、ゴヤはまた、黙って頷いてみせる。
「まあ……なんつーか、こいつが戦ってる次元は俺たちとはちょっと違うところだから。こいつがよく分かんねーこと言い出しても、頭から否定したりしないでやってくれよ。そもそも生きてる世界が違うだけだから」
「は、はい。それはもちろん……」
分かります――そう簡単に答えてよいものだろうか。他人の人生を推し量るだけでも心が重く、苦しくなるのに、彼にはそれが本当に見えている。それも、ただの人生ではない。死んでも死にきれない、非業の生きざまだ。
考えたくもないと思った闇の中に、彼はいる。
覗き見ることすら恐ろしいその世界の真っただ中に、彼は生きている。
それはどんなにつらいことだろうと、胸が痛んだ。
(私では、彼の力にはなれないのか……)
また落ち込みかけたマルコに、ロドニーは軽い口調で言う。
「マ~ル~コ! 顔面すっげー不景気になってんぞ。ほら、お前の出番。早く治してやれっつーの」
「あ……は、はい! ただいま!」
慌てて治癒魔法をかけてやる。顔も体も血塗れ、傷だらけのゴヤだったが、ものの数秒で傷が塞がってしまった。
これには怪我をした本人が一番驚いていた。
「え、あ、うわあ! なにこれ!? すっげ! どこも痛くないッスよ!?」
「流れた血が補充されたわけではありませんから、この先二、三日は貧血状態になります。勢いよく立ち上がったりしないように、気を付けてくださいね」
「はい! あの、あなたがマルコさんッスよね? はじめまして! 俺、ガルボナード・ゴヤです! あ、呼び名はガッチャンかゴヤッチでお願いするッス! よろしくお願いします!」
「あ、これはどうも。マルコ・ファレル・アスタルテです。新参者ですが、どうぞよろしくご指導のほどを」
「いやいやいや、指導とか! そんなの俺、全然無理ッスから! ほぼ平民だし!」
「いえ、確かに身分はこちらが上ですが、ゴヤさんは特務部隊の先輩です。どうぞ『マルコ』と呼び捨てでお願いします。いろいろ教えていただきたいことも多いので……」
「って言われても、俺のほうが歳下だしなぁ……あ! そうだ! じゃ、こういうのどうッスか? お互いあだ名で呼び合えば、変に遠慮し合わなくて済むッス!」
「あだ名、ですか? これまであだ名をつけられたことがありませんので、どのようなものか……?」
「マルちゃん!」
「……と、ゴヤッチ?」
「そうッス!」
「マルちゃんとゴヤッチですか……確かに、呼びやすいですね。では、そういうことで」
「よろしくマルちゃん!」
「よろしくお願いします、ゴヤッチ」
がっしりと握手を交わし、マルコはつい、吹き出してしまった。
「あ、いえ、すみません。なんだかゴヤッチが、戦っているときと今とでは印象が違いすぎていて……」
「そッスか? あんまり意識してないんスけど……?」
どうなんスかね? とでも言うようにロドニーを見たゴヤに、ロドニーも思わず吹き出す。
「だいぶ違うな」
「え、どのへんが!?」
「もう何もかも全部。お前、喋んなきゃ格好いいのにな~」
「ふぇっ!? なんスかそれ! 俺喋っちゃダメなんスかぁ~?」
「ん~……あ、いや。喋らなくてもダメかもなぁ……」
「や、ちょ、先輩それマジッスか? そんなガチな表情で言われても!」
「だってお前モテねえじゃん」
「先輩」
「なんだよ?」
「そういう先輩は、男にばっかりモテてるじゃないッスか」
「……お前、そういう悲しい事実は言っちゃいけない系のアレだぞ……」
「なんかもう、あれッスよ。お姉ちゃんのいるお店行きたいッスね!」
「おう! 打ち上げはそーゆートコがいいよな!」
「布の面積すくなめで!」
「いやむしろ極少で!」
「ウェ~イッ☆」
「ウェ~イッ♪」
謎のハイタッチを交わし、二人の間で何らかの計画がまとまった。が、世俗に疎いマルコには『そーゆートコ』と呼ばれる店が何か、よく分からなかった。
顔中にクエスチョンマークを張り付けたマルコに質問される前に、ロドニーはサッと話題を切り替える。
「さて、爆弾も回収できたことだし、いったん外出るか」
「え? 爆弾? なんスかそれ?」
「あー、そうか。説明まだだったな。実は……」
ロドニーはこれまでのことをかいつまんで説明する。話を聞くうち、ゴヤの表情はどんどん険しくなっていった。
「……ってことは、あの執事たちが機械を背にしてたのは……」
「この装置を守ろうとしてたんじゃない。壊してもらいたかったんだ。ほら、これ。機械の上の配管に取り付けられてた」
ロドニーが手のひらに載せているのは、五センチ四方の小さな箱である。一般市民の目にはただの小物入れのように見えるだろうが、これは半径十五メートル程度を完全に破壊しつくす魔導式爆弾である。本来は時限発火呪符で起動させるのだが、その呪符が不良品だったらしい。
これまで地方支部勤務だったマルコも、物珍しげな眼で爆弾を見る。
「このタイプははじめて見ます。呪符そのものが爆発するタイプなら、山賊や野盗が持っていることもありましたが……」
「ああ、人間相手に使うならそれで充分だろうな。でも、ここの連中はこの装置をぶっ壊そうとしてたんだ。対人用じゃ、鉄の塊を粉々に吹っ飛ばすには破壊力が足りねえ」
「なるほど。あの、これはもう爆発することは?」
「この通り、不良品の時限発火呪符もはがしてある。こうやって持ってる分には安全だ」
「ということは、持っていない状態では?」
「危ないかもな。たぶん、強い衝撃を与えると爆発する。って言っても、落としたくらいじゃドカンとはいかないだろうけど……だよな、ゴヤ?」
「はい。これ、結構強くぶっ叩かないと爆発しないんスよ。前に押収品の爆破処理やったんスけど、ハンマーで何度も叩いてようやくで。もう手のひら痛くなっちゃって大変だったんスよ~」
「えっ? 生身で爆破処理を? 規則では、作業用ゴーレムなどにやらせるはずでは?」
「いやいや、そこを生身でやるのがうちなんス。ね、先輩」
「おう。いざというときにビビって動けなくならねえように、爆風に慣れる目的で。一応、正規の訓練メニューだぜ。《銀の鎧》で防御固めてれば大丈夫だって、頭で分かってても、なんとなく怖ぇだろ? 実際に爆発の真っただ中を経験して、どのくらいまでなら耐えられるか、自分の体に叩き込むんだ。そのうちお前にもやるからな」
「か……覚悟しておきます……」
「いや~、でも良かったッスね、先輩。これ、本気で叩き続ければフツーに壊せるって知られてたら、俺ら今頃生きてないッスよ」
「ああ、そうだな。何ヶ所か叩いたような傷もあるから、きっと実体化してる最中に壊そうとはしたんだろうけど……」
「途中であきらめてくれて助かったッス」
「だな。んじゃ、行くか。いつまでもデニス待たせとくのも申しわけねえし……」
そういいながら振り向きかけた瞬間、ロドニーが不自然な格好で止まった。
「先輩?」
「ク……ソ……ッ!」
数秒遅れて二人も気づく。
ロドニーの後ろにもう一人いる。
それは年老いた小柄なメイドで、その手にはゴヤが戦闘中、やむなく手放したコンバットナイフが――。
「ゴヤ……マルコ……走れぇぇぇーっ!」
叫びながら投げつけられた物――箱型の爆弾を受け取り、マルコは走った。
この部屋の出口へ、地上への通路へ、あの隠し扉へ。しかし、敵は彼女だけではなかった。
長い廊下の途中で行く手を塞がれる。
「行かせません!」
「返してください!」
「今度こそ、それであの装置を……」
「ヘンケルス家を守るんだ!」
地上にいた霊たちである。気配を消し、会話を盗み聞きしていたらしい。
「マルちゃん、《サンスクリプター》で!」
「はい!」
爆弾は自分の手の中。今はもう、魔弾の使用を躊躇する理由はない。
「おおおおおぉぉぉぉぉーっ!」
「うらあああああぁぁぁぁぁーっ!」
二人がかりでの高速連射。けれども相手は死を自覚している。この魔弾では、着弾の衝撃で動きを鈍らせる程度のことしかできない。
「マルちゃん、俺が突っ込むッス! 隙間ができたら走り抜けて!」
「しかし! それではゴヤッチが!」
「デニスの結界があるから、こいつら建物の外までは追ってこれねえッス! マルちゃんがそれ持って外に出れば俺らの勝ちなんス! 俺と先輩なら大丈夫ッスから!」
「……分かりました。では!」
「行くッスよ!」
ゴヤが駆け出す。狙いは廊下の端、一番動きの遅い中年メイド。真正面から攻撃すると見せかけて、直前で壁を蹴って跳ぶ。メイドの身長は百五十センチ程度。ゴヤの運動能力ならば軽々と飛び越えられる高さである。背後に回り込み、腕をとりつつ足払いをかけた。
ただのメイドに格闘術の心得があろうはずもなく、何の抵抗もできぬまま、ころりと転倒させられる。目を丸くする彼女は、自分が何をされたのかも分かっていないだろう。
ゴヤはそんなメイドを飛び越えながら、隣の庭師に襲い掛かる。
腹に一発、顎にも一発。軽快なフットワークと目にも止まらぬ高速パンチで庭師を牽制すると、素早く距離を詰め、頭を抱え込んで強引に捩る。
庭師の首は完全に真後ろを向いた。人間ならば首の骨が折れて死亡するところだが、これは仮初の肉体。それも己の死を自覚している状態では、ダメージを与えるどころか、痛みすら感じない。
しかし、今はこれでいいのだ。
庭師はほんの一瞬で見ている方向と体の向きが真逆になってしまったせいで、前後の感覚がデタラメになってしまったらしい。腕を振り回してゴヤを攻撃しようとするが、拳はてんで見当違いの方向に繰り出されている。
「マルちゃん! 今ッス!」
ゴヤの声にマルコは走り出す。もちろん、残る二人も黙っていない。破れかぶれの雄叫びを上げながら、マルコにつかみかかる。
「させねえッスよ!」
ゴヤはその場で大きく腕を振った。手には何も持っていないように見えたのだが――。
「ぎゃ!」
「ぐふっ!」
男たちが突然転倒した。何事かと驚くマルコの眼に、キラリと光るものが映る。
「まさか……ワイヤー!?」
男たちの足には極細のワイヤーが絡みついている。ワイヤーの先端はゴヤの服の袖に消えているようだ。
(剣を装備していないと思ったら、道理で……)
ゴヤは剣を持たない代わりに、ワイヤーなどの暗器を身に着けているらしい。どこまでも『特殊』な騎士団員である。
「早く! 地上へ!」
「はい!」
ゴヤの声に後押しされるように、マルコは走った。
長い廊下の先に、ロドニーと二人で降りてきたあの階段がある。階段の先からは、隠し扉から差し込む外の光が。
あと少し。もう少しで外に――。
そう思い、安堵しかけた瞬間だった。
「え……っ!?」
何かに足を掴まれた。
全力で走っていた勢いそのままに転倒し、マルコは階段に強く体を打ち付ける。
「う……ぅ……」
何が起こったのか。確かめるべく体を起こそうとしたが、出来なかった。
「返して! 返しなさい! それがなくては……あの子は……あの子はぁぁぁーっ!」
中年のメイドだった。ゴヤに転倒させられただけで、彼女は動きを封じられていたわけではない。生きていたころには到底不可能な速度でマルコを追いかけ、後ろから飛びついたのだ。
マルコはしがみつく女を振り解こうとするが、できなかった。
霊の力は思いの強さに比例する。今は彼女の心の強さが、そのまま霊体の『力』として発揮された状態である。見た目はただの中年女性でも、その腕力も脚力も、成人男性をはるかに凌駕する。
(なんだ……なんなのだ、この力は……!)
爆弾を奪われないよう、両手で抱え、体の下に隠す。
それが限界だった。
女の力が強すぎて、それ以上はどうにも動けない。
(そんな……あと少し……もう、外が見えているのに……)
腕を掴まれ、抓られる。
背中を強く叩かれる。
髪を引っ張られる。
引っ掻かれ、揺さぶられ、蹴りつけられ――ダメージは確実に蓄積している。
こちらは生身の人間。このまま耐えていられるのもせいぜい数分だろう。それまでに何か打開策を思いつかねば、女に爆弾を奪われ、この馬鹿力で叩き壊され――。
(私だけではない……ロドニーさんも、ゴヤッチも……ここで死んでしまう!)
必死に考え続け、マルコは両手が塞がっていても使える攻撃手段を思いついた。
「か……《火炎弾》!」
多少でもひるんでくれれば、その隙をついて攻撃魔法と魔弾を連射し、押し返せるのではないか。
そんな甘い期待は、いともたやすく打ち砕かれた。
女は炎を浴びせられても、かまうことなく攻撃を続けている。
(ダメか! しかし、私が……私が何とかしなければ、ロドニーさんとゴヤッチは……)
頼れる仲間は他にいない。今は自分が頼られる側なのだ。なんとしても、自分がこの仕事をやり遂げねば――。
そう思った瞬間、何とも表現しがたい既視感を覚えた。
(このプレッシャーは……あのころと、同じ……?)
家のため、兄の分まで自分がしっかりせねばと、出来もしない『完璧』を目指していた過去の自分。ロドニーに出会って『不可能なこと』と気づくまで、本気でそうあるべきと信じていた。
(そう……そうだな。この感覚だ。私は、ずっとこんな重苦しい気持ちのままで生きてきたのか……)
何を悠長に考え事などしているのだと、不思議と冷静に、客観的に考えていられた。抗いがたき脅威の前で、現実逃避しているのだろうか。それとも自分は既に、何もかもを諦めているのだろうか。
(……いや、違う。確かにこれまでの私であれば、為す術など残されていなかっただろうが……)
頼れる仲間がいない?
今は頼られる側?
考えれば考えるほど、その発想の愚かしさに思い至る。
「ふ……ふふ……ははははははっ!」
笑いがこみ上げてきた。
何を馬鹿なことを考えていたのだと、心の底から可笑しくなった。
マルコが突然笑いだしても、女は気付きもせず、がむしゃらな攻撃を続けている。自分が爆弾を取り戻さねばと思いつめ、その一念に突き動かされている。
それはまるで、いつかの自分のようだった。
今のマルコは、それを冷静に感じ取ることができる。
静かな心で、周囲の状況を観察していられる。
そんな自分を自覚した瞬間、マルコは思った。
やっと、ひとつだけ成長できた。
マルコはもう一度《火炎弾》を使う。だが、今度の狙いは女ではない。
すぐそこに見える光。
出入り口から差し込む陽光の、その向こうへ。
外には彼がいる。
彼は今、屋敷全体を結界で覆っている。結界のどこかが攻撃されれば、術者はそれを知覚できるのだ。同じ場所に立て続けに攻撃を受ければ、彼は必ず気付き、様子を見に来るだろう。
連射される《火炎弾》の、低く鈍い炸裂音。
それから数十秒後、明るく柔らかな声が地下へと差し込む。
「マルコさーん、そのまま動かないでくださーい! 《鬼火玉》!」
青白い光が奔った。それはゴヤと同じ、対霊攻撃魔法特有の色である。
(良かった。やはりデニスさんも……)
そう、デニスは確かに言っていた。「ちょっとした霊なら祓えますので」と。
ゴヤの魔法とは比較にならない威力だが、握りこぶし大の《鬼火玉》は正確に女の頭を撃ち抜いた。ヒュボっと鈍い音を立て、穴の開いた頭部に青い炎が燃え上がる。
頭部を失った体は、しばらく惰性で動き続けていた。しかし数秒後、それは完全に動きを止め、ぐらりと揺れて後ろに倒れる。
自分の背中に圧し掛かっていた女の感触が消えた。マルコは蹲ったまま、視界の隅に光の粒を見る。砕けた氷の欠片のように、キラキラと光を放ちながら宙を舞い、地に落ちるより早く虚空に溶けて――。
(さようなら……どうか、安らかに……)
祈ることしかできない。
この祈りが、彼女に届くかどうかも分からない。
それでも祈りたかった。
誰にも見送られない最期など、あまりに悲しすぎるから。
女の気配が完全に消えたことを確認してから、マルコはゆっくりと顔を上げた。
「ありがとうございます、デニスさん」
「立てますか?」
「はい、どうにか。あの、まだ奥で二人が戦っています。私では霊と戦えません。お願いします、どうか加勢を……」
「敵の人数は?」
「四人です」
「四人? なら、大丈夫ですよ」
「えっ?」
「ゴヤさ~ん! マルコさんは無事ですよ~! 僕がついてま~す! どうぞ~!」
大声で叫ぶなり、デニスはマルコの手を取って階段を駆け上る。
「え、あ、あの! デニスさん!?」
「いいから走って! 巻き込まれますよ!」
「巻き込まれる? なにが……」
どういうことか説明してください、という言葉は最後まで言えなかった。
背後から響き渡る、地響きのような轟音。陽光よりまぶしい蒼白の閃光。背中に浴びる爆風は、火薬や魔法で巻き起こされる爆発とは明らかに異なり、不思議と優しい温かさで――。
マルコはこの瞬間、不思議な光景を見ていた。
一面に広がる草原に、青年が一人。
ひどくやつれた顔をして仰向けに寝そべり、流れる雲を眺めている。
自分はその人物に歩み寄り、そっと手を差し伸べる。
「駄目ッスよ、いつまでも、こんなところにいちゃ」
その声は自分の声ではなかった。
視界に映る右手は、自分の手よりも黄色みがかった肌をしている。
(この声、この手……ゴヤッチ……?)
青年は苦笑しながら、静かに首を横に振る。
「いいや。ここでいいんだよ。だって僕は、人間ではないのだから」
「何言ってんスか。そんなこと、どうだっていいんスよ」
「え?」
「動物飼ったことは? 家畜じゃなくて、ペットとして」
「……犬なら……」
「好きッスか?」
「もちろん」
「かわいくて仕方ない感じのあれッスよね?」
「……うん……」
「病気や怪我で元気がなかったら、どうするんスか? 放っておくんスか?」
「いや、そんなことするはずないだろう? 獣医に診てもらうよ」
「それッス! それ、一緒に住んでる人間が元気なくなっても同じようにするんスよね?」
「……だから……?」
「家族ッス」
「……家族?」
「そうッス。人でも犬でも猫でも鳥でも、関係ないんスよ。一緒にいたいって思えれば、なんだって家族になれるんス」
「……ホムンクルスでも?」
「俺の家族はダンゴムシとくわがたむしッスよ?」
「……えっと……いや、その……そんな定義で、いいのかな?」
「自分がいいと思えば、それでいいんスよ。だって、自分の人生は自分のものなんスから」
「しかし、ホムンクルスの疑似生命活動が、人生と呼べるものとは思えないな。人のような見た目で、人と同じように口を利く紛い物……それがホムンクルスだ。そんなものに、『自分の人生』なんてものが存在するのか? それについて、どう説明する気だい?」
「ん~……どうなんスかね? その辺、俺、哲学者とかじゃねーから分かんねえッスけど……ダンゴムシはダンゴムシライフを満喫してても、俺の家族ッスよ? 無理に人間の真似して『人生』やらなくても、問題ないんじゃないッスか? ほら、インコだって『オハヨー』って人間の言葉喋ってるけど、だからってインコの生き様が『人生』かどうかなんて、誰も問題にしてないじゃないッスか。ホムンクルスだって、たまたま人間っぽい見た目で人間語喋ってるだけで、それはそれで、いいんじゃないッスか?」
この言葉に、青年は呆気にとられた顔で固まってしまった。
そしてややあって、ため息のような吐息を漏らす。
「……こういう場面では、普通『そんなことはない、君は人間だ!』とか、熱く語るモノじゃないかな?」
「語ってほしかったんスか?」
「いいや。なんだろうな。逆にスッキリした。そうか。僕は、僕でよかったんだな」
「そうッス。誰だって、自分以外の誰にもなれないんス。ほら、立って。みんな、もう先に行っちゃったんスから」
「僕も行けるかな?」
「たぶん大丈夫ッス。うちのくわがたむし君たちも、みんな行けたんスよ?」
「そっか。クワガタでも行けるんだ。それなら、僕も行ってみようかな」
青年はスッと手を伸ばし、差し伸べられた手をとる。
その瞬間、青年の体はぱぁんと弾けて、光の粒に変じた。
「……バイバイ、ありがとう。いつかまた、遠い未来に……」
世界のすべてが青白い色に包まれ、何もかもが光の中に溶けて消えていき――。
ハッとしたときには、マルコはもう外にいた。
自分の足で階段を駆け上がり、ボイラー室から飛び出して、伸び放題の芝生の上に倒れこみ――一連の動作はすべて覚えている。自分の視覚、聴覚、触覚その他、何もかもがいつも通り機能している。それなのに、同時にあの草原での出来事も『たった今起こったこと』として記憶しているのだ。
混乱した。
記憶が二つあることにも、その一方が自分でなかったことにも。
呆然とするマルコの顔を覗き込むように、隣に倒れたデニスが笑う。
「しっかり巻き込まれてしまいましたね」
「い……今のは、いったい……」
「《鬼陣・二式》です。ゴヤさんが、全員救ってみせたんです」
「全員……? というか、デニスさんにも、あれが見えて……?」
「はい。ホント、かなわないよなぁ、ゴヤさんには。この場にいない霊にまでコンタクトできるんだから。多分あの人、このお屋敷のご主人だった人でしょうね。やっぱり亡くなってたんだ……」
「あの、この場にいない人まで救えるとは、いったい、どのようにして? そんな魔法がこの世にあるなんて、信じられないのですが……」
「ですよねぇ? だから、『無い』ことになってるんですよ」
「無い?」
「はい。あれはゴヤさんにしか使えなくて、ゴヤさん自身にも詳しいメカニズムが説明できない魔法ですから。直感というか、本能というか……どうもそういう、感覚的なものだけで発動させているらしくて。ま、そこがあの人らしいんですけどね。ほら、新開発の魔法が正式に認められるには、発動メカニズムや具体的な効果を文書化して、魔法省の承認を得る必要があるでしょう? でも、何がどうして、遠いどこかの、誰かの霊と繋がるのか。その様子を、周りの人間も見ることができるのはなぜか。現時点では何一つ解明されていないんです。だからこれは、『存在しない魔法』なんですよ」
「……そのような魔法が実在していたとは……私はてっきり、霊にまつわる話は都市伝説だとばかり……」
「都市伝説級の『禁呪』や『秘術』は、たいていこの類ですよ。後の時代の誰が研究したって、絶対に再現できっこない。未来永劫、『そういう魔法があったらしい』という真偽不明の怪異談のままでしょうね」
「では、私は大変貴重な現場に居合わせたということですね?」
「はい。言うまでもないとは思いますが、このことはどうか、部外者には……」
「もちろんです。死者にもう一度会えるかもしれないと知られたら、思い詰めた遺族は何でもするでしょう。ゴヤッチの身が危険に晒される」
「おっ? もうあだ名で呼ぶ仲ですか?」
「え? あ、はい。これなら対等に呼び合えるからと言われまして……」
「なら、僕のことは『デニスさん』じゃなくて『眼鏡くん』でお願いします」
「眼鏡くん?」
「はい。これ、伊達眼鏡でして。いやぁ、ほら、騎士団本部ってキャラの濃い人ばっかりでしょう? 素顔のままだとどうしても地味な印象なんで、あえて自ら眼鏡枠に収まることにした次第でして。眼鏡くんを、どうぞよろしく!」
「は、はい、よろしくお願いいたします、眼鏡くん。私、そういう理由で眼鏡をかけてらっしゃる方にはじめてお会いしました」
「そうですか? 中央じゃあ『キャラの濃い奴が勝ち』みたいな空気がありましてね。僕みたいな根っからの中央育ちは、結構こういうことやってますよ。ゴヤさんもド派手なストール巻いてたでしょう? あれも『赤いストールの人』ってキャラ付けなんで。夏でも冬でも、一年中赤いの巻いてますよ」
「たまには色を変えたりは……」
「しませんね! 柄が変わっても赤です! ね! ゴヤさん!」
「えっ? あ、わぁっ!」
デニスが急に名前を呼ぶものだから、マルコは驚いてしまった。慌てて起き上がろうとして、芝生の上で無様にもがく破目になる。
自分の体の状態をすっかり失念していた。全力疾走の勢いのまま転倒し、階段に胸や腹を強打した。女の霊から激しい暴行を受け、それからわけも分からず死に物狂いで階段を駆け上がり、今は全身ボロボロで寝転がっているのだ。手をついても腹筋に力を入れても、その瞬間に痛みが走る。まともに起き上がれるはずもなかった。
じたばたと転げまわるマルコの耳に、ゴヤとロドニーの苦笑が届く。
「ま~るちゃ~ん、大丈夫ッスか~?」
「お~う、お前もボロボロか~……」
いつの間にそこにいたのか、二人はすぐそこまで来ていた。
ゴヤに肩を借りてはいるものの、ロドニーは自分の足で歩いている。脇腹を押さえた手の下からは血が滲んでいるが、それほどひどい出血ではない。
マルコは胸をなでおろす。
「よかった。お二人とも、ご無事で」
「あはは。俺はさっき治してもらったから、魔力空っぽなだけッスけどね~。先輩はしっかり負傷者ッスよ~」
「なーに。俺だって、ちょっとチクっとされた程度だぜ。マルコ、お前がかけてくれた《銀の鎧》のおかげで、先っちょだけで済んだぜ。ありがとな」
「いいえ、完全に防ぐことができなかったのですから、お礼を言われる資格がありません。申し訳ございません、ロドニーさん」
「謝るんじゃねーよバーカ。真後ろに立たれても気づかなかった俺が、一番間抜けなんだからさ」
ウィンク一つで「この話はこれで終わり」と告げる。何が誰の責任だとか、そういう話は好まない。それがロドニーだ。
各々、話したいことも聞きたいこともある。しかし、今はとにかく手当てが先だ。ロドニーは少年のような笑顔で宣言した。
「任務完了! これより本部に帰還する!」