そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)vol,02<chapter,05>
ヘンケルス家の屋敷は広かった。
見取り図も何も持たずに入ったロドニーは、一度、一階まで戻って屋敷の間取りを確認することにした。これまでに三階、四階、屋根裏の扉は片端から開けてみたのだが、どこの部屋にも霊がいない。気配はあるのに、もうこれ以上部屋らしきものがないのだ。おそらく隠し通路があるのだろう。
(扉っぽい本棚とか、なかったと思うんだけどな……?)
一見したくらいではわからない構造なのかもしれない。ロドニーはあちこちを注意深く見て回る。
一階に厨房や洗濯場、使用人の浴場などの水回りがまとめられている。ここは水道設備が脆弱な、古い時代の建物である。技術的な問題で各個室にバス・トイレをつけることができなかった。また、出来立ての料理をすぐ配膳できるよう、厨房と食堂の距離も非常に近い。エントランスホールと食堂、シガールーム以外はすべてバックヤード扱いで、使用人しか出入りしない構造だ。表からは見えないが、使用人専用の通路や階段がいくつも設けられている。
二階には客人をもてなす遊戯室やパーティールーム、図書室、画廊などがある。どの部屋も完璧に磨き上げられ、すぐにでも使える状態が保たれていた。この階も、よく見れば隠し扉と隠し通路だらけである。
ロドニーはパーティールームの垂れ幕の裏、大きな姿見の鏡が隠し扉になっているのを見つけた。そっと押し開けると、酷い臭いが鼻を衝く。死体や生ものが発する臭いではない。汚れた水をそのまま放置し、腐ったような臭いだ。
ペンライトを取り出して照らしてみると、水の入ったバケツと雑巾、箒、塵取りなどが置かれている。これを使っていたメイドは、掃除をしている最中に呼び出され、殺されてしまったのだろう。
(……本当に、ついこの間まで人が暮らしてたんだよな……)
執事が凶行に及ぶまで、使用人たちはいつか帰ってくる主を待ち続けたのだ。ロドニーは何とも言えない気持ちで通路を進み、階段を上った。
先ほど見た限りでは、三階、四階は客人を泊めるための部屋と夫婦の寝室、書斎などがあった。屋敷の外観と部屋の面積は一致しているように思えたが、どうもこの屋敷、見た目よりも壁が薄いようだ。大人一人がギリギリ通れる幅の通路が、どの部屋の横にも必ずある。
適当な扉を開けてみると、壁紙のつなぎ目部分が綺麗に開いた。部屋の内側には取っ手も何もない。呼び出された使用人が通路側から押し開けない限り、この扉は開かない。
(なるほど。こりゃあ気付かねえワケだ……)
室内に霊はいなかった。ロドニーが隠し通路に気付いたことで、この階から逃げてしまったのだろうか。気配も感じられなくなってしまった。
どうにも手詰まり。ここは一度マルコと合流しよう。そう考えた矢先だった。
「うおおおおおぉぉぉぉぉーっ!」
野太い雄叫びとともに、魔弾の発射音が響く。すぐ外の廊下からである。その声は、徐々にこちらに近づいてくる。
外の状況が分からない以上、うかつには飛び出せない。何の考えもなしに出て行ったら、マルコの邪魔をしてしまうかもしれない。
ロドニーは耳を澄まして様子をうかがう。先ほど破壊して回ったため、扉はない。音だけでも、おおよその立ち位置と人数は分かるのだが――。
(ん? なんだ? 何の音だ……?)
カンカンと甲高く硬質な音が連続し、複数人の悲鳴が相次ぐ。マルコはいったい、何を使って戦っているのだろうか。剣とも魔弾とも違う戦闘音に首をかしげながら、ロドニーはそろりと顔をのぞかせる。
「え……うわぁ……マジかよ、それ……」
他に何が言えるだろうか。マルコは廊下中に得意の防御魔法を展開し、自身で撃った魔弾を跳弾させていた。魔弾は高濃度の魔力の塊。魔法障壁で防げることは確かだが、意図的に跳弾させて『全方位型攻撃』にするとは。ロドニーには逆立ちしても思いつかない戦い方だった。
(そうか……あいつ、連射速度と命中精度が低いから……)
ロドニーに小細工は無用。自分の足で相手の死角に回り込み、反応される前に急所に当ててしまえばいい。しかしマルコはそうもいかない。もともと身体能力は人間の標準値。人狼のロドニーと同じように戦おうとしたら、全身をサイボーグ化するか、戦闘用キメラとして錬金合成獣にでもなるしかない。
廊下にいた霊四人を凍結させ、砕き、消滅させる。ひとしきり終わったことを確認してから、ロドニーは声をかけた。
「おう、マルコ。順調そうだな」
声をかけられるまで、まるで気づいていなかったようだ。マルコは大げさに驚き、あたふたと無駄に一回転してから、泣きそうな顔でロドニーを見た。
「ロドニーさん……私、私は……」
「あ? どうした?」
「射撃の才能が無いようです! 一撃で仕留められません!」
「いや、だってお前、これ実際に使ったのって今回がはじめてだろ? ちゃんと体に当たってるだけ凄いと思うけど……」
「それではいけません! 急所を外すと、どの霊も痛がって……死してなお、こんな苦痛を与えられるなんて……そんなの、絶対に許せません! やるからには、もっとしっかりやらないと!」
「ああ、うん、それは確かに……でもよぉ、そこは不可抗力と思って割り切らねえと。あんまり深く考えすぎると、やってらんなくなるぜ?」
「いいえ! 割り切れません! 私は、この件が片付いたら短銃の射撃訓練を受けたいと思います! 私にはまだまだ至らぬことばかりです! もっと精進せねばなりません!」
「お、おう、そうか。まじめだな、お前。うん、いいことだとは思うけど……なあ、それよりさ。お前、何人やった? 俺、二十人は仕留めたはずなんだけど……まだいるのかな?」
「ええと、私は今ので十九人目ですが……確か、ゴヤさんがおっしゃっていたのは三十人ほどでしたよね?」
「ああ。もうとっくに超えてるっつーのに……この屋敷、なんでこんなに使用人が居憑いてるんだろうな? 執事に殺されたのは七人だけだろう?」
「実は他にも殺害されていたのでは?」
「いや、それにしちゃあ年代が違う。メイドの服が古すぎるんだよ。いまどきそんなの売ってねえだろっつーくらい、アンティークデザインのスカートだったり……」
「確かに、そうですね。先ほどここにいたメイドも、百年近く前の流行服でしたが……」
「なんか、ものすごくヤバい気がする。絶対に何か秘密があるぞ、この屋敷」
「ヘンケルス家の歴史を調べる必要がありそうですね」
「なあ、ここの主人の部屋、ちょっと家探ししてみようぜ。何かヒントがあるかもしれねえ」
「そうしましょう」
二人は四階に上がり、ヘンケルス家の主が使っていたと思しき執務室に向かった。
先ほどロドニーが扉を撤去してしまったが、この部屋に霊は逃げ込まなかった。よって、ロドニーもここに入るのは今がはじめてなのだが――。
「ん?」
袖を引かれた。てっきり隣のマルコと思い、無防備に横を向く。
しかしそれは、マルコの手ではありえなかった。
「……え……?」
マルコはロドニーに背を向けていた。ロドニーの袖をつかむ手は、ロドニーの真後ろから伸ばされている。
しまった、と思ったときには遅かった。背後から三人分、六本の腕がロドニーの体を押さえつけている。
「クソ!」
力ずくで振り解こうとしたが、出来なかった。足元にも二人、両足に一人ずつ、ぶら下がるようにしてロドニーにしがみついているからだ。
気づいたマルコが銃を構えるが、ロドニーが止める。
「待て! こいつらは正気だ!」
「えっ?」
「全員、自分の死を自覚している。霊体のまま近づいて、全員同時に実体化して俺を押さえたんだ。……なあ、そうだよな?」
霊たちに動きを止められたまま、ロドニーは淡々と尋ねる。
そう、止められているだけなのだ。首を絞められるわけでも、骨を折られるわけでも、殴られるわけでもない。霊たちはただ全力でしがみつき、人狼の動きを制限している。自我が崩壊していたら、決してできない芸当である。
「対話が可能な相手なら、いきなり撃ったりしない。放してくれねえか?」
顔が見える位置にいる二人、足元のメイドの霊にそう話しかけた。
怯えた目でロドニーを見る彼女らは、確かに、正気を保った状態だった。
「ほ……本当ですか?」
「ああ。別に俺たちは幽霊退治に来たわけじゃねえんだ。この屋敷の調査に来たら、自我が崩壊した連中に襲われた。だから応戦しただけだ。話ができる相手なら、普通に話をして解決したい。どうだ? ちょっと、この屋敷について教えてくれねえか?」
メイドたちは顔を見合わせ、ロドニーの後ろの三人も、互いに頷き合った。
手を放し、五人は一列に並んで頭を下げる。
「……お話させていただきます。このまま彼が、罪人呼ばわりされ続けることは耐えられませんから……」
「彼?」
「どうぞ、こちらへ」
五人の中で最も年嵩、白髪頭のメイドに案内され、ロドニーとマルコは別の部屋に移動する。
同じ階の、一番奥の部屋。そこは屋敷の主人の主寝室だった。
豪華ではあるが華美ではなく、品良く統一された調度品。壁紙も絨毯も、知的な印象の紺色と金色でまとめられている。全体的な印象は『落ち着いた青い部屋』とでも表現すべきか。同じ貴族階級のロドニーには、この部屋のすべてが最上級の工芸品ばかりだと分かった。
「少々長い話になります。どうぞ、おかけください」
勧められた椅子の座り心地は良さそうだが、こちらは生身。霊たちと違い、立ち上がって構える動作に余計な時間がかかる。
「いきなり襲ってきたりしねえよな?」
「お疑いでしたら、そのままでも」
「いや、あんたらのことじゃなくてさ。他の霊だよ。まだいるのか?」
「いいえ。先ほどの方々で最後です。地上にいるのは、私共五人のみです」
「そっか。じゃ、座らせてもらうわ」
ロドニーに合わせるように、マルコも腰を下ろす。これは主寝室の片隅にちょこんと置かれた談話用のテーブルセット――に、見える。しかし、筋肉質な成人男性がゆとりをもって座れる大きさの椅子と、その椅子を六脚もセットできるテーブルである。それが『ちょこんと置かれている』ように見えるのだから、この部屋自体どれだけ大きいのか。広さの感覚が馬鹿になりそうだった。
ロドニーはマルコに耳打ちする。
「暖房効率クソ悪そうだな」
「古いお屋敷あるある話ですね」
「ここの主人、真冬にこの部屋で寝たら凍死するんじゃねえか?」
「いえ、あの、ロドニーさん? もう亡くなられていますから」
「あ、そっか。なら大丈夫だな」
(何が大丈夫なのだろう……?)
ロドニーの素の発言が天然すぎて、時々分からないマルコである。
二人が腰を落ち着けたところで、年老いたメイドは、静かに話しはじめた。
それはこの屋敷ができる以前のこと。ヘンケルス家に受け継がれた記録では、二百五十年程前のことと記されている。無論、そのころにこのメイドは生まれていない。メイドが語ったのは、その当時勤めていた使用人たちの日誌の内容である。
ヘンケルス家の当主には子供がいなかった。この家は代々、血筋を守るために近親婚を繰り返していた。そのせいだろうか。その当時で、すでに何代も前から奇形、先天性疾患、虚弱体質の子供しか生まれなくなっていたという。この時の当主も生まれつき体が弱く、親戚筋から娶った妻との間に一人の子供も生まれなかった。
このときは、妻の実家から幼い子供を養子として迎え入れた。
その子供が大人になったときも、やはり、跡継ぎに恵まれなかった。やむなく遠縁の子を養子にしたと記されているが、その子供の素上について詳細な記録はない。当時の使用人たちの間では、正妻が子を産めない体だったため、愛人に産ませた子を遠縁の子として迎え入れたという噂が囁かれていたようだ。
この屋敷が建てられたのはそのころで、今から二百年程前。正妻の実家も同じ血筋の家である。やはり子供が生まれづらい状態が数十年続き、もう後を継がせる若い世代が居なくなっていた。子供がいないヘンケルス本家とその傍系の家々は、協議の末、すべての分家の財産を本家に習合し、その莫大な資金をもって、この屋敷を建造したらしい。
それから先の当主らも、どれだけ若く健康な妻を娶っても、皆、子宝に恵まれることはなかった。そしてその都度、その時々の執事が内々に手配し、どこからともなく健康な男の赤ん坊を養子に迎えている。
何代か前の分家筋から、遠縁にあたる家から、曾祖母にあたる人の実家から――言い訳のように書き連ねられた歴代当主の素上。ありとあらゆる説明文をもって体裁が整えられた記録書類の数々。しかし、どんな記録も本人たちの前ではかすんで見えた。
全員、驚くほどよく似ていたのだ。
親類の子なんだから似ていて当然と笑い飛ばすには、あまりに似すぎていた。とても養子とは思えない。まるで血のつながった親子――いや、それ以上である。当主本人の子供のころと、寸分違わぬ顔貌。肌の色も、背格好も、髪の色も目の色も――当主をそのまま複製したような、何もかもが同じ子供。そんな子供ばかりが、何代も、何代も養子として迎え入れられる。ヘンケルス家には何か重大な秘密があるのではないか。一部の貴族らがそう噂するのも、無理もない話だった。
しかし、そんな異常事態もいよいよ終焉を迎える。
メイドは一旦話を区切り、ロドニーとマルコをまじまじと見つめる。
「お二人とも、貴族階級の方でございましょう? 十五年前から始まった『血液検体登録法』はご存知ですか?」
「無論です」
「ちゃんと登録してるぜ?」
「さようで……。皆様は、当たり前のこととして登録されたのでしょうけれど……ご主人様は、そのせいで姿を消されてしまわれたのです……」
年老いたメイドは、さめざめと泣きだした。
血液検体登録法とは、その名の通り、血液を採取して個人情報を登録する法律である。ただし、この法律が適用されるのは貴族と士族のみ。王室から正式に認められた名家の人間のみが、血液サンプルと、そこから解析した遺伝情報を登録しているのだ。
そんな法律が制定された理由は単純明快。『貴族なりすまし詐欺』が発覚したからだ。
ある名家の当主が亡くなった。その葬儀の場に、当主によく似た面差しの青年が現れ、大衆の面前で声高に叫んだ。
「俺は息子だ! これを見よ! これは父が、自分にもしものことがあったら世に知らしめよと、俺に託した書状である! この紋章、この筆跡! 疑う者あらば、好きに鑑定するがいい!」
書状を掲げ、堂々と息子を名乗る。当主に子はいない。家を継ぐのは従弟か甥っ子かという相続争いの真っただ中に、実の息子を名乗る人物が現れたのだ。当然、大騒ぎになった。
結論を言えば、男も書状も真っ赤な偽物。整形手術と偽造書類の合わせ技である。そこに新聞記者とサクラがいた。これだけそろえば、仕込みは完璧だった。
ざわつく礼拝堂。その中で、誰より早くサクラが立ち上がる。
「ああ! 君はもしや、彼女の息子かい? こんなに大きくなって!」
当主が若いころに手を付けた女の知り合い――そう名乗る者が、実に生々しく、女手一つで子供を育て上げ、過労で死んだ気の毒な女の一生を語ってみせたのだ。
もちろんそんな女はいない。けれども、世の中には偏見というものがある。『金持ちの男』イコール『身分の低い女を金で買う』という思い込みから、人々はこの話を受け入れてしまう。
葬儀の様子を取材していた新聞記者は、当然このことを記事にする。するとどうだろう。翌朝には、この話はその町の誰もが知る『事実』になってしまったのだ。
書状の内容は公表されなかった。これが詐欺事件と発覚したときにも、それについては一切触れられなかった。つまり、表沙汰にできない『実話』があれこれ書かれていたのだ。
貴族が己の手を汚して何かをすることはない。必ず人を雇う。絶対に誰にも話さないと約束していても、どこからか漏れてしまう話はあるものだ。この詐欺師はそういった話を収集し、いかにもそれらしい書状をでっちあげた。そして葬儀の列に乱入するという荒業を使い、わずか一晩で『本物の息子』になりすましてしまったのだ。
これはもう、今から半世紀ほど前の話。事件が発覚したのは十五年前。大衆も、貴族も、王室も、この詐欺師に三十五年間も欺かれ続けた。
マスコミを利用した詐欺師は、最後の瞬間までセンセーショナルだった。
病床に臥せった男は、全国各地の数百の新聞社に、まったく同じ内容の手紙を出した。手紙には自分の本当の名前、出身地、整形した闇医者の名前などが書かれていた。ご丁寧に、整形前と整形後の写真、縫合跡が消えるまでの三か月分の処置記録も添付して。
これは一体どういうことかと、記者らが殺到してももう遅い。
男は手紙を出した直後、睡眠薬と遅効性の毒物を同時に服用し、文字通り、眠るように穏やかに死んでいた。
偽貴族騒動は全国に飛び火し、どの地方でも貴族・士族の必死の身元証明が行われた。しかし、証明したくてもできない家も多くあった。ヘンケルス家のように公然と養子を迎えていた家では、今更隠すことなど何もない。大衆に向けて、堂々と身元証明の書類を提示できた。けれども子供本人に養子縁組の事実を知らせていなかった家などは、大変な混乱があったらしい。子供が大きくなってから知らせましょう、という養父母のやさしさが、完全に裏目に出てしまったのだ。
ある地方の士族が、証明書類を出し渋った。あっという間に『あいつらは偽物だ』という話が広まり、その士族の家は放火され、一家全員が焼け死んだ。それから数日後に大衆は真相を知ることとなったが、後の祭りだ。何の罪もない一家は殺害され、放火犯は見つからずじまい。王国中に、なんともやりきれない空気が漂った。
この事件をきっかけに、貴族院議会が行動を起こした。それが『血液検体登録法』の制定・施行である。
ヘンケルス家は養子縁組の事実を公表していた。あの騒動も、何の問題もなく乗り切ったはずである。それがどうして当主の失踪につながったのか。一番肝心な話を聞きたいのだが、年老いたメイドは一向に泣き止まない。
見かねて別の、五十代半ばくらいのメイドが話を引き継いだ。
「単刀直入に申し上げます。当家の主は、人間ではございません」
「は?」
「ホムンクルスです。魔法によって作り上げられた疑似生命体なのです。だから血液サンプルなんて、提出できませんでした」
「え……えええぇぇぇーっ!? お、おい! ちょっと待てよ! ホムンクルス!? クローンじゃなくて!?」
「はい。ホムンクルスです」
「ちょ、ちょっと待て? 待ってくれよ? だってあれ、結局何度やっても未完成のまま終わった机上の空論で、今となっちゃあお笑い種のデタラメ理論だったんじゃ……」
「いいえ、完成していたのです。二百年以上前に」
「……っつーことは、ここの地下にあるのって……?」
「ホムンクルスの製造プラントです」
「えーっと……近代史の教科書が二十ページくらい書き換えられるぞ、それ」
「ええ……そうでしょうね。ですが、そんな些細なことはどうでもよかった。私たちにとっては、人と同じようにものを食べ、呼吸し、成長していく子供が、『疑似生命体』だなんて思えなかった。だからずっと、守っていこうと誓ったんです。私たちも、私たちの前に勤めていたメイドたちも……」
メイドにそっと寄り添っていた料理人と庭師と馬屋番も、泣きながら頷いている。いずれも六十代の半ばあたり。十年前に失踪した当主は、その当時で二十代前半だったはず。彼らにしてみれば自分の子供のような歳である。毎日同じ屋根の下で寝起きし、日ごと成長していくその子は、わが子同然の存在だったのかもしれない。
メイドは人間とホムンクルスの違いについて、涙声で語る。
人間と全く同じ外見をしていて、五感があって、成長も老化もある。それでもホムンクルスは疑似生命。定期的にまとまった量の魔力を注入してやらねば、体を維持できず、急激に老化して死んでしまう。
その限界はわずか三日。正確には、五十時間を超えたあたりから衰弱し始めるのだという。
「……つまり、二日に一回は燃料補給しないと活動が止まる……?」
「はい」
「そのことは、本人は知ってたのか?」
「失踪なさる一週間ほど前にお伝えいたしました。法律の制定から五年間、体調不良やスケジュールの調整がつかないことなどを理由に血液サンプルの提出を先延ばしにし続けておりましたが、いよいよ言い訳もできなくなりまして……」
「衛生保健省の人間が直接伺います、とか言われたワケか?」
「はい。あの、よくご存じで……」
「血液採取用の注射器が嫌で三年逃げてたら、突撃家庭訪問食らったからな。よくわかるぜ」
「さようでございますか……」
このやり取りに、マルコは頭を抱えた。注射針一本から三年間も逃げ続けたオオカミオトコとは、なんとも情けない。しかし堂々と語れるということは、今は克服しているのだろう。その点は少しだけ評価してもいいかもしれないな、と思ったマルコである。
それからメイドが続けた話によると、「もうどうにも隠し切れなくなりました」と真実を打ち明けたとき、当主は落ち着いた様子だったという。そして一週間後、一通の手紙を残して行方をくらませた。
いつもと変わらない様子で、いつもと同じ時間に馬屋を訪れ、いつも通り愛馬の面倒を見ていたかと思うと――いつの間にか、姿が消えていたのだという。気づいた使用人たちが慌てて捜索したものの、いったいどこに行ってしまったのか、見当もつかなかったようだ。結局、騎士団に当主の捜索願を出したのは、行方が分からなくなって二週間も経ってから。それは当主が残した手紙に、詳細な指示があったためだ。
「ご自分がホムンクルスとお分かりになってから、ご主人様は、私共の身の振り方についてお考え下さったのです。失踪者の死亡が法的に認められるのは十年後。それまでは、当主が存命している可能性があることを理由にヘンケルス家を存続させ、財産を少しずつ現金化し、給与という名目で君たちの口座に振り分けなさいと……」
「十年が過ぎたらその金を元手に生きていけ、ってことか?」
「はい。ですが、わたくしたちは誰一人、そのつもりはありませんでした。その日が来たら、皆で、揃って死のうと約束したのです」
「……あれ? ひょっとして、執事に殺されたのって……」
「自分の意志です。彼にはつらい役目を負わせてしまいました……」
「と、すると、その執事と他二人は?」
「地下におります」
「今俺の後輩が戦ってるみたいなんだけど?」
「そうでしょうね。彼らも、ヘンケルス家の名誉を守ると誓っておりますので」
「名誉ったって、もうヘンケルス家は……」
「ええ、当主が行方不明のまま、ヘンケルス家は取り潰されました。ですが、世の人々が知っているのはそこまでです。地下の製造プラントを隠し通すことができれば、ヘンケルス家が二世紀以上も世を欺き続けていた事実は闇に葬られます」
「いや、いまさら隠せねえって。現に、俺たちに喋っちまってるわけだし。それとも、アレか? この場で俺たちを殺すか?」
「いいえ、そんなことをする必要はございません。あなたは先ほどおっしゃいましたね。お笑い種のデタラメ理論と。製造プラントの現物が破壊されてしまえば、誰もあなたの言葉を信じないでしょう。幽霊から何を聞いたと言い張ったところで、証明する手立てはないのですから」
「……まさか、お前ら!」
「申し訳ございません。死に際に仕掛けた起爆装置が、不具合を起こしたもので。攻撃魔法でも当てない限り、爆発させることができないのです。幸い、地下におられるあの方は炎の魔法をお使いになるご様子。誘爆させるには好都合です」
「クソ……マジかよ。そんなのって……おい! 行くぞ、マルコ!」
「はい!」
二人は部屋を飛び出した。メイドたちはそれを追うことも、止めることもしない。
そのことが、メイドの言葉に嘘がないことを証明していた。
どこに仕掛けられているかも定かでない爆弾。地下室で戦う人間が多ければ多いほど、それが爆発する可能性は高まる。
しかし二人は行かねばならない。
なぜならゴヤは、そこに爆弾があることすら知らないのだから――。