そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)vol,02<chapter,03>
ホールの階段を駆け上り、中二階の踊り場で二手に分かれる。
霊たちは既に知っている。射撃精度も反応速度も、ロドニーのほうが格段に上。おまけに彼は人狼族で、今は獣人の姿。嗅覚か、聴覚か、はたまた第六感と呼ばれる代物か。どこからどのように接近しても、一発の無駄撃ちも無く眉間と心臓に当ててくる。
人は人狼に敵わない。
怒れる人狼に近付いてはならない。
これは生きた人間にとっても常識である。必然的に、霊はマルコのほうに殺到した。
「く……っ!」
階段の途中で、マルコは行く手を塞がれた。敵は複数。ここは足場が悪く戦えない。やむなく踊り場まで引き返すと、下からコック服の男がやってくるのが見えた。
(まずい。このままでは挟撃される……)
先にやるなら数が少ないほうだ。マルコはコック服の男に向けて魔弾を連射する。
しかし、弾はなかなか当たらない。連射といっても、ロドニーが三発撃つのと同じ時間でマルコは一発しか撃てないのだ。それに狙いも悪い。全部で十五発も撃って、そのうち当たったのは五発。五発のうち四発は体をかすめる程度で、最後に撃った一発だけが頭部に命中。それでようやく凍結させることができた。
だが、この結果でマルコを下手糞呼ばわりするのは酷であろう。なぜならマルコが所属していたのは地方の騎士団支部。射撃訓練を受けたことはあっても、その目的は農地や山林の鳥獣駆除に限られている。マルコが愛用していた銃は藪に身を潜め、一発一発慎重に狙いを定めて発射する猟銃なのだ。そもそも『対人戦闘用の射撃訓練』は受けていない。
コック一人に梃子摺っているうちに、上にいた霊たちが踊り場まで下りてきていた。
「《物理防壁》展開!」
咄嗟に防御魔法を発動させ、接近してくる霊を押し戻す。
マルコの首に掴みかかろうとしていたメイドの霊は、その手を防壁に阻まれた。自身が手を突き出した勢いで、指がありえない方向に折れ曲がる。
ボキともグシャともつかぬ、嫌な音がした。
「ギャアアアアアァァァァァーーーッ!」
女の悲鳴が屋敷中に響き渡る。
対霊魔弾の効果だろうか。互いに触れられるばかりか、霊たちには攻撃されると痛みを感じる『仮初の肉体』が存在するらしい。
一撃で仕留めてやらねば、彼らは死してなお苦痛に悶えることとなる。
マルコはそのことに気付き、躊躇してしまった。
そしてその一瞬を衝かれた。
「うぐ……っ!」
背後に回り込まれ、しがみ付かれた。マルコより上背のある男だ。恐るべき膂力で締め付けられる。
(しまった! この体勢では……)
肘より少し高い位置を、腕ごと抱きかかえられている。動かせるのは肘から先だけ。これでは背後の霊は狙えない。
正面からもメイドと他三人の霊が迫っている。マルコは物理防壁を維持し、それを防ぐ。だが、背後の男はさらに強く締め付けてくる。
自分の肋骨がミシミシと不穏な音を立てている。
(まずい……だが!)
肘から先は動かせるのだ。正確に狙いをつけることは難しいが、撃てないことは無い。
(ご婦人方、しばし耐えられよ!)
やらなければ、こちらがやられる。マルコは腹を括った。霊たちには苦痛を与えることになる。それでも今は撃つしかない。
「うおおおおおぉぉぉぉぉーーーっ!」
何かが吹っ切れた気がした。
自分からこんな声が出たのかと、くだらないことに驚愕した。そのくせ頭は妙に冴えていて、出鱈目に連射した魔弾がどこに当たったか、一つも逃さず見えている。脳内には、霊たちが上げる悲鳴が不気味なほど鮮明にこだまする。
なるほど、これがロドニーの見ている『戦場の景色』か。
そんなことを思いながらマルコは自分に向けて攻撃魔法を放つ。
「《火炎弾》!」
自分の魔法で致命傷を負うことは無いが、通常、ある程度はダメージを受ける。しかしマルコは敵を道連れに自爆する気など毛頭ない。
その《火炎弾》は、威力も狙いも完璧にコントロールされていた。背後から回された男の両腕だけを正確に焼く。
男が悲鳴を上げた瞬間、拘束が緩んだ。
「はあああっ!」
騎士団仕込みの格闘術で、男の片腕と襟首を掴み、豪快に投げ飛ばす。
男の身体は階段の手摺を乗り越え、階下に落ちていった。
「……次……」
向き直り、メイドと他三人に狙いを定める。先ほど乱射した弾が体をかすめている。霊たちの動きは鈍っていた。これならマルコの腕でも、十分心臓を撃ち抜ける。
「……覚悟!」
四人の胸を撃つ。
そして凍りついたところを殴り、破壊する。
それは酷く凄惨で、それでいて美しい光景だった。霊の一部だった光の粒は、蝶が風に舞うように、ひらひらと揺れて消えてゆく。
その中で、マルコは亡羊と立ち尽くしていた。
胸の内に渦巻く達成感と罪悪感。
興奮と平静の入り混じる奇妙な感覚。
耳に残る女の悲鳴に、今更、何とも言えぬ肌寒さを覚える。
(……そうか、私は……)
何も知らなかったのだと、口の端だけで小さく笑う。
ロドニーと出会って以来、目にするすべてが新鮮だった。はじめてのことばかりで、何かを尋ね、答えをもらうたび、また一つ成長できたような気になっていた。
そんな気持ちは、ただの自惚れだった。
(そう……そうだ。経験の伴わぬ知識など、何の役にも立たない。真に知るべきことは、この目で見て、この耳で聞いて、この肌で感じねば……)
マルコは銃をホルダーに収め、両手で頬を叩いた。
ここからだ。
たった今、この瞬間に、新たな舞台の幕が上げられた。
「……行くぞ。マルコ・ファレル!」
再び銃を抜き、マルコは駆け出した。
同じころ、ロドニーは三階の廊下で七人を同時に相手にしていた。
とはいえ、マルコの戦いとは様相が異なる。ロドニーは人狼。その足の速さも、拳の破壊力も、何もかもが人間の比ではない。霊たちはロドニーに襲い掛かるのではなく、必死に逃げ回っているのだ。
「クッソ! 待ちやがれ!」
対霊魔弾の音声有効範囲は五メートルほど。それ以上離れると十分な音が届かず、霊の物質化は解除されてしまう。弾自体に五十メートル以上の射程があっても、霊が物質化してくれなければ困ったことが起こる。
「だあああっ! またすり抜けやがったーっ!」
一人を相手にしている隙に、他の霊は壁や天井をすり抜け、別の部屋に移動してしまうのだ。
慌てて追うと、扉の向こうに気配は感じる。間違いなくそこにいる。しかし扉一枚の距離ということは、今度は霊が実体化している状態。扉の鍵を物理的に閉めることも可能である。
「おい! こら! 開けやがれ! 苦しまないように一撃で仕留めてやるから! なっ?」
こんな説得で扉を開ける阿呆はいない。マルコが引き籠った兄に対して取った行動を批判したわりに、ロドニー自身、いざこうなると、なんと言えば良いかさっぱり分からなかった。
「あーっ! クソッ! 埒が明かねえ……」
ロドニーは通信機を取り出し、ベイカーに掛ける。
呼び出し音が三回ほど鳴ったところで、通信が繋がった。
「どうしたロドニー。何かあったか?」
「いや、どうしたもこうしたも、幽霊がうじゃうじゃいて、あっちこっちの部屋に立て籠もってるんです。この屋敷、どの程度までなら破壊できます?」
「んー……どの程度と聞かれると……」
「床に腐乱死体の油染みとかあるんですから、もう完全取り壊しでいいですよね? ね?」
「ちょっと待て。それはマズイ。その屋敷は少なくとも築二百年は経過していて、中央市に文化遺産登録されているはずだ。勝手に壊すと、よく分からん自称・文化人らを敵に回すことになるぞ」
「えーっ! またそのパターンですか!?」
「ああ。以前お前がへし折った製鉄所の煙突と同じだ。どこからともなく、聞いたことも無いようなマニアックな研究書の著者が次から次に名乗り出てくるだろう。そして新聞やラジオで『貴重な文化遺産が失われた』と騒ぎ立て、ちゃっかり自分の本を宣伝するのだ。ああそうだ。きっとそうに違いない……」
特務部隊宛に殺到した苦情の手紙や駅前で行われたデモ行進のことを思い出し、ベイカーは疲れ果てた声で言った。
「いいかロドニー、建物本体に損傷を与えるな。炎上はもうこりごりだ。できるだけ穏便に、ユルくフワッとやんわりと、エコでクリーンな幽霊退治を心掛けてくれ」
「エコとクリーン関係あります!? つーかそれで幽霊退治ってどうやるんですか!? 具体例ください! 具体例!」
「え、ぐ、具体例か? えーと……じゃあ、例えば、フレンドリーに話しかけて、まずは握手とか、フリーハグとか……」
「もう既に五人ほど眉間と心臓ぶち抜いてますんで、ちょっと無理かなって気がします」
「そうか。それなら、札束をチラつかせて買収交渉を……」
「それって、死人には使いどころがありませんよね?」
「う……そ、そうだな。なら……一緒に酒でも飲むとか?」
「幽霊って酔うんですか? 一応、『仮初の肉体』はある状態ですが……」
「どうなのだろう。幽霊に酒を飲ませたことが無いから、何とも……あ、そうだ! 色仕掛けなんかどうだ? 色気で誘って、油断して出てきたところをサクッと……」
「俺が? 男相手に? ストリップショーでもしろと?」
「すまなかった」
「ですよね」
あっけなく策が尽きたらしい。ベイカーは情けない声で言う。
「やむを得ん。最小の被害で抑えてくれ。きちんと修繕すれば、なんとか言い訳もできるだろう……」
「では、内装屋の手配は隊長にお任せいたします。失礼します」
「あ、おい! 大丈夫か? 分かっているよな? 最小の被害というのは誰が見ても故意ではないと認められるような壊れ方であって、前回のような…」
早口で喋り続けるベイカーを完全に無視して、ロドニーは通信を叩き切る。
「よーし! 覚悟しやがれ!」
通信端末を仕舞ったオオカミオトコは、何の躊躇いもなくドアノブを引いた。鍵が掛かっていようと関係ない。これは屋内の、薄っぺらな木造ドアだ。金属棒が一本引っ掛かっているだけの鍵なんて、人狼の前では無いに等しい。
響き渡るはドアの抗議か、はたまた上司の心の声か。悲鳴にも似た破壊音と共に、鍵と蝶番が弾け飛ぶ。
室内の幽霊は必至に逃げ場を探すが、ここは手狭なメイド部屋。主人の呼び出しに即時対応できるよう、主寝室の横に設けられた待機室なのだ。実体化して壁抜けができない今、この霊に逃げ道はない。
窓を開けようと背を向けたが最後、霊は、そのままの姿勢で凍りついた。苦痛を感じる暇もない。一撃で仕留められ、その体は粉々に破壊される。
「……恨むなら、ヤワな扉を取り付けた施工業者を恨むんだな……」
はたしてそうだろうかと自分でも疑問に思ったが、素手で取り壊せる扉に強度面で問題があるのは事実である。間違ったことは言っていないと自分の胸に言い聞かせ、次の部屋へと向かった。
マルコ、ロドニーが地上で戦っているころ、地下では最も熾烈な争いが繰り広げられていた。
大型機械の駆動音の中、薄明るい緑色のライトに照らされ、二人の男が戦っている。
一方はナイフを構え、もう一方はサーベルを。
双方の力量が対等であれば、間合いの広いサーベルのほうが有利である。しかしこの二人の場合、ナイフを持った男のほうが速度も技量も、実戦経験も上だった。
振り下ろされるサーベルを寸でのところで躱し、その太刀筋を掻い潜って懐に入り込む。踏み込んだ勢いを殺すことなく、鋭く突き出すナイフの切っ先。それは一刀で頸動脈を断ち、相手に致命傷を与えた――はずなのだが。
男の首から血は流れない。斬られた断面からは生々しい肉の色が見えている。だが、それだけだ。痛みを感じている素振りも、ダメージを受けた様子も見受けられない。
ナイフの男は素早く身を引き、相手のカウンターを避けた。そしてひょいひょいと軽いステップで間合いから退くと、再び腰を落とし、構え直す。
仮初の肉体に、人間と同じ神経回路は無い。見せかけだけの張りぼてである。それでも霊が痛みを感じているのは、人間だったころの感覚が忘れられないからだ。傷付けば痛む。本人がそう思い込んでいるのなら、《サンスクリプター》はその通りの痛みを与える。けれども本人が己の死を自覚し、受け入れ、それでもなお現世に留まっているようならば――。
「貴方は、自分の意思でここにいるんスね?」
ナイフの男、ガルボナード・ゴヤは、サーベルの男にそう訊いた。
死を自覚したうえで、己の意思でこの世に留まる。それは一番厄介なパターンで、敵対した場合、これ以上無いほど危険な相手となる。既に死人である以上、どのようなダメージを受けても『もう一度死ぬ』ことは無いと知っているのだ。防御を度外視した攻撃はもちろん、ときに定石を無視した奇策を繰り出す。生身のゴヤにとって、非常に好ましくない対戦相手だった。
できることなら戦闘は回避したい。ゴヤは幾度目とも知れぬ『対話の試み』を開始する。
「なかなかいい腕ッスけど、もしかして本当は、執事じゃなくてボディーガードだったんスか?」
軽い口調でそう問うと、サーベルの男は自嘲気味に笑ってみせた。
「兼業していたようなものです。主を死なせてしまった、ろくでもない護衛ですが……」
そう、この男なのだ。この男こそ、共に主を待ち続けた使用人たちを皆殺しにし、その後自害した執事なのである。
綺麗になでつけた白髪交じりの髪。糊の効いたパリッとしたシャツ。蝶ネクタイ、ベスト、皺一つないセンタープレスのパンツ。生前の有能ぶりが窺える、実に整ったいでたちである。
他の霊と異なり、狂暴化している様子も、自我が崩壊している様子もない。さも当然のような顔をして、背筋を正してそこにいる。
この男なら、対話で問題を解決することも可能だ。ゴヤはそう確信し、改めて問う。
「執事さん、お願いします。聴かせてほしいんス。ここに何があって、なぜ、貴方がまだそれを守り続けているのか」
「さきほども申し上げましたが、それをお答えすることはできません」
「ですから、その理由は? どうして、ここから先に行かせてもらえないんスか? 俺は上から正式に命令を受けて、調査目的でここに来たんス。理由が分からなくちゃ、誰も納得できないッスよ」
「理解も納得も不要。私は、私のすべきことをするまで」
「だから、それじゃ何の解決にもならないんスよ! 俺で駄目なら、次はもっと大勢来るだけッス。それでも駄目なら、さらに増員されて……最終的には、屋敷ごと取り壊そうって話になりかねないんスよ? そうしたら、ここにあるもの全部、まるごと焼却処分されるんス。それでいいんスか?」
ゴヤは必至に言い募る。その目にも、声にも、一切の嘘はない。
執事はしばしゴヤの目を見つめたあと、一つ、溜息を吐いた。
「……そうですな。屋敷ごと燃やされてしまってはたまらない。お答えします。こちらには、当ヘンケルス家が最も大切に守り続けた『宝物』が保管されております」
「『宝物』……ッスか? あの、残念ッスけど、その『宝物』とやらの権利も、土地家屋と一緒にフェンネル伯に譲渡されてるんスよ。だからお願いです。もう、ここから立ち退いてください」
「お断りいたします」
「なぜです?」
「貴方には、命を懸けてお仕えしたいと思える方はおられますかな?」
「命を懸けて……?」
ゴヤの脳裏に、ある人物の笑顔が浮かぶ。自分は王立騎士団特務部隊所属。『女王陛下にお仕えする忠実な騎士』という建前はあるが、ほぼ面識のない女王のために命を捨てるつもりはない。もしも誰か一人のために命を懸けるとしたら、それはあの人しかいない。そう心に決めた人はいる。いるのだが、それは――。
「申し訳ねえッスけど、そーゆー人はいないッスね」
立場上、絶対に口にしてはいけない人の名前だ。ゴヤには、こう答えるよりほかにない。
「……そうですか。いらっしゃいませんか……」
「だったら、どうだって言うんスか?」
「私どもの想いは、貴方にはご理解いただけないでしょう。お帰り下さい」
「だから、それは出来ないんスよ」
「でしたら、仕方ありませんな。やはり我々は、戦うしかない……」
執事の姿が消えた。
自らの意思で物質化を解いたのだ。
「《鬼火》!」
ゴヤは対霊攻撃魔法を放つ。青白い炎が四方に広がり、空間全体を一瞬にして焼き払う。が、しかし――。
「甘い!」
執事の霊はゴヤの真上にいた。
どんな魔法も、術者のいる場所は安全地帯。一部の例外はあるものの、通常、術者の真上と真下は攻撃を受けないものだ。
執事は再び物質化し、落下を利用してサーベルを突き立てようとする。
だがゴヤも対霊戦のエキスパート。こういう敵は初めてではない。《鬼火》を放った直後に前方に駆け出し、この攻撃を躱していた。
双方再び距離を取り、笑う。
「なかなかやりますな」
「そちらこそ」
互いにやりづらい相手だった。
己の死を自覚している執事にとって、《サンスクリプター》の音声は最高の応援歌である。この魔弾は、端的に言えば霊を洗脳する効果を持つ。未だ死を自覚しきれない霊たちに『体がある』と錯覚させ、行動を制限する。そして『撃たれた! 死んだ!』と思い込ませ、フリーズさせているだけなのだ。自分は死者であり、もうこれ以上死ぬことはないと自覚さえしていれば、その効果を逆手にとって、霊体と実体を自由に行き来することも可能となる。
対するゴヤにとっては、執事の戦闘能力自体はさほど脅威ではない。もっと周到な罠を張り巡らす相手とも、圧倒的な攻撃力を誇る相手とも戦ったことがある。能力的には中の下。一気に仕留めようとしないのは、ベイカーから課せられた任務のためだ。今彼が請け負っているのは幽霊退治でも、殺人事件の真相解明でもない。『屋敷の現状を調査せよ』と命ぜられている。この任務を達成するために、屋敷のすべてを知り尽くした執事の証言は必要不可欠なのだ。
じりじりと距離を詰め、同時に仕掛ける。
ゴヤはナイフを、執事はサーベルを突き出す。だが、執事のほうははじめから避ける気がない。ナイフは執事の脇腹に突き刺さる。
この瞬間、ゴヤはナイフから手を放し、真横に跳んでいた。
コンマ一秒の差で、ゴヤの首があった場所をサーベルが奔る。
(こいつ、自分の体で……!)
ゴヤはくるりと側転し、立ち上がったときには、もう予備のナイフを抜いていた。
執事は『仮初の肉体』を利用し、わざと刺されたのだ。深く突き刺さるように、自ら前に進み出て。そのためゴヤはナイフを引き抜けず、カウンターを避けるため、手放さざるを得なかった。
完全にしてやられた状態である。
(なんて頭が……いや、センスがいいのかな? 貴族の執事なんてやらなくても、傭兵としても十分通用しそうッスね……)
この男とは、生きているうちに会って、手合わせしてみたかった。ゴヤは心からそう思った。
(でも……この状態でも、十分すぎるほど勉強させてもらえそうッスね!)
まっすぐ斬り込んできた執事を、わずかに体を反らすだけで軽くいなす。
執事のほうも、こんな馬鹿正直な攻撃は通用しないと知っている。とんと床を蹴り、上段回し蹴りを繰り出す。そして遠心力で威力を増したキックを、遠慮なくゴヤの側頭部に叩き込んだ。
「……む?」
執事は顔色を変えて飛び退いた。
頭に直撃したと思われた攻撃は、左腕でガードされていた。その手は青白く発光している。それは先ほど放たれた《鬼火》とそっくりで――。
「……それは、いったい何ですかな?」
執事のズボンには、わずかに焦げたような跡が残っている。
ゴヤは淡々とした口調で答えた。
「こういう体質なんスよ。生まれつき、幽霊さんと戦える体質」
「ほう? それはまた、ずいぶんと……」
「面白いでしょう?」
「面白い、ですと? なにを馬鹿な。私の目には、ひどく禍々しいものに見えている」
「へー、そうなんスか? 自分じゃよく分からないんで、ちょっと教えてもらえないッスかね?」
「……なるほど。それは、死者の目にしか映らぬもの、ですか……」
このとき執事の目には、奇妙なものが見えていた。
ゴヤの左腕にびっしりと絡みつく大量の蟲。ムカデのようにいくつもの脚を持ち、長い体をグネグネくねらせ這い回る。先ほど蹴り込んだ瞬間、この蟲たちは、一斉に執事の足に食らいついてきたのだ。
ゴヤの目には焦げ跡に見えている箇所も、執事には蟲に食い破られ、穴が開いたように見えている。
「さて、これは……困りましたね……」
執事の顔から余裕が消えた。これまで漂わせていた老成した雰囲気は消え、今はただ、猛烈な殺気のみを纏う。
刹那の予断も許されない。この男は強い。
ゴヤは全身で感じていた。ピリピリとした殺気と、その気を放つ相手の覚悟を。
相手はようやく、こちらの実力を認めてくれたらしい。ならばここからだ。ここから、自分にとって最高の『勉強会』が始まる。
極めて数が少ない『対霊能力者』は、師となる者に巡り合うことがない。ほぼ同系の能力者であっても、その力は人によって様々。まったく同じ能力の者はいないのだ。どの能力者も手探りで使い方を覚え、我流で技を開発、実戦で練度を高めている。ゴヤも典型的な我流能力者の一人。現場で経験を積むことこそが、彼にとっての訓練であり、勉強なのだ。
双方、無言で睨み合い、気をぶつけ合う。
半端な攻撃は通用しない。それが分かっているからこそ、軽々しくは動けない。しびれを切らせ、迂闊に斬りかかればカウンターを食らう。
先に心が折れるのはどちらか。
二人の戦いは、当人たちにしか分からない、無音の心理戦に突入した。