6 出征
「マリア。行くのね」
「はい」
帝都を発つ日の早朝。慌ただしい城の一室で、マリは敬愛する主の前に膝をついていた。
これから向かうのは戦場。数分先に何が起きるかわからない場所だ。
もしかしたら死ぬかもしれないのだ。マリがアナに会いに行くのは必然であった。
「死んだら許さないんだから。私も後を追うわよ」
気丈に振る舞いながらも不安を隠せていないアナの顔を見上げ、マリは口角をあげた。
「それでは、絶対に死ぬわけには参りませんね」
「死なないだけじゃダメ。第一功を挙げてくるのよ」
「それはまた‥‥‥」
アナの力強い言葉に、マリは苦笑する。冗談じゃないのよ、とアナが頬を膨らませ、それを見たマリはいよいよ声をあげて笑ってしまった。
「もうそろそろ建国祭ね」
暫く二人で笑い合い、それが収まった頃。アナが窓の外の景色を眺めながらしみじみと呟いた。
マリにとって、建国祭とは町行く人々とは違う意味を持つ。六年前のその日こそ、アナによって拾われた日。永遠の忠誠を誓った主との出会いの日。
アナに名付けて貰った時の光景は今でも鮮明に覚えている。アナは自分の手を握って、満面の笑みを浮かべていた。
そんな、永遠に忘れることのない記憶を呼び起こしていた時、突然温もりに包まれた。
重装鎧に身を包んでいても感じる確かな温もり。
「もし戦争が長引いて帰ってこれなくなった時のために、先にプレゼントを用意しておいたの」
それはマントだった。上質な布で頑丈に織られた漆黒のマントだ。振り替えって背中を見れば、サノーラ帝国の双頭竜の紋章が刺繍されていた。
あまり上手いとは言えない刺繍だ。少なくとも職人が施した物ではないだろう。いや、よく見ればこのマントだって所々に糸のほつれがある。
そこまできて、マリは一つの可能性に至る。
もしかしてこのマントは━━━━
「私が一から作ったのよ。布から自分で織ったの。どう? 凄いでしょう」
「はい。大変有難くて‥‥‥有り難くて‥‥」
「ちょっ、マリア? まさか泣いてるの?」
気づけばマリの頬に涙が伝っていた。止まることを知らず、次々に溢れてくることに戸惑った。
せっかくのマントを汚してはならないとハンカチを取り出して涙を拭いながら嗚咽するマリの頭をアナが抱く。
柔らかい感触と心地良い温もり、そして花のような香りに包まれたマリは目を白黒させた。まさか自分がアナに抱き締められるとは思ってなかったのだから致し方ない。
アワアワと言葉にならない叫び声をあげながら慌てふためくマリをギュッと抱き締めたアナは、あたかも子をあやす母親かのように、マリの背中を擦りながらポンポンと叩いた。
「ふふ。落ち着いたかしら」
「あ、はい‥‥‥お見苦しいところをお見せしました‥‥‥」
アナの胸から解放されたマリは、顔を真っ赤にしてアナの顔を見つめた。ささやかでも確かに主張していた双丘の感触が未だに残る顔を赤面させているのだ。
それに、アナよりも年上であるのに、アナに赤子のようにあやされてしまい、尚且つそれで落ち着いてしまった自分が恥ずかしかったからでもあった。
そんなマリの心の内など意に関せず、アナはマリを見つめたまま。
「そのマントを見て私を思い出すのよ。そして絶対に帰ってきて」
「かしこまりました。ではこのマリアンナ。その決意の証としてアナ様にこれをお預けしとうございます」
アナの前で姿勢を正し、取り出したのは銀細工の首飾り。決して高価ではないが、マリが肌身離さず首に下げている、老婆から貰った首飾り。
「でも、それって」
「これは私にとって一番大切な物でした。ですが、今は二番です。私が今最も大切なものは貴女様です。たとえ地獄の業火に焼かれようとも、私は貴女様の元へ絶対に帰って参ります。あの日、私は貴女様に永遠の忠誠を誓いましたから」
「マリア‥‥‥」
ほんのり頬を朱に染めたアナとマリは見つめ合う。
「マリアンナ」
「ははっ」
眼前に幼さの残る主はいない。そこにいるのは威厳を放つサノーラ帝国第三皇女アンネローゼだ。
「必ずや武功を立て、無傷で私の元へ帰参せよ。これは勅命に準ずる命令であると心得なさい」
「御意」
マリは頭を深く下げ、立ち上がってアナに背を向けた。絶対にアナの元へ帰ってくる。そう、心に固く決意して。
「愛してるわ。マリア」
「え、今何て━━━」
「うるさい。早く征きなさい」
アナに尻を蹴られて部屋を転がり出たマリは、急いで閉ざされた扉を見てクククと笑った。
勇ましいアナも好きだが、やはり自分は元気でよく笑うアナが大好きだ。
サノーラ帝国暦八〇六年。
皇太子ジルベルトを総大将とした八万の軍勢が、ウィントポル王国へと侵攻を開始した。
その出征が後に、災厄とも言うべき大事件の始まりとしてサノーラ帝国史に刻まれることとなることを知るものはまだいない。
それは、ジルベルトの隣にて先頭を走るマリアンナもまた同じ。
その日の空は、これから起こる悪夢を予言するかのように、鬱々とした暗雲に包まれていた。
◇◆◇◆◇◆
「陛下! 報告します」
「どうしたこのような早朝から」
寝室に慌ただしく駆け込んできた丞相ポルトポラスの大声によって、ウィントポル王カーリオは眠りから覚醒した。
それは彼の隣で寝ていた王妃も同じで、白い肌をシーツで隠しながら、床で膝まずき肩で呼吸する老人を不安そうに見つめていた。
「もう一度問う。何が起きた」
「サノーラ帝国軍がタイハル峡谷より越境。その数八万」
「八万!?」
ポルトポラスの報告に王妃は悲鳴をあげ、慌ててカーリオにすがりついた。
カーリオは静かに目を閉じ、落ち着いた様子でポルトポラスに尋ねた。
「敵の詳細は?」
「総大将は皇太子ジルベルト。共に翻る旗は『熊』と『鹿』とのこと」
「モンビークとスクォギリオスか。老兵共がいつまでもしゃしゃりでおって」
「老兵と侮ってはなりませんぞ。モンビークは言うまでもなく、スクォギリオスもまた無敗伝説を持つ男です。たとえ老いようとも脅威であることに変わりはございません」
ポルトポラスの叫びにカーリオは不適な笑みを浮かべる。まだ三十半ばで衰えぬ体から溢れ出す闘気とも言うべき威圧に、王妃とポルトポラスは揃って後ずさった。
「無敗伝説など恐るるに足らず。勝利を盲信する老兵に死という敗北を教えてやるまでよ。急ぎ兵を集めよ。目指すはクラーベン要塞だ。安心しろ。我が軍が負けることはない━━━絶対にな」