4 アナの心
目が覚めた。周囲を確認してから起き上がろうとし、
「アグッッ」
全身に走った激痛に情けない声を出してしまった。再び体重をベッドに預け、天井を見つめていた。
ここは医務室だ。自分はヒュリゴ相手に一太刀も浴びせることなく気絶したのだという記憶が呼び起こされ、マリは大きくはため息をついた。
情けない気持ちでいっぱいだ。勝てるとまではいかなくとも、自分も毎日欠かすことなく訓練しているし、善戦くらいはできると思っていた━━━が、結果は完敗だった。
「あ、先輩。起きたんですね。よかったぁ」
マリが不甲斐なさを自責していると、扉が開いて一人の少女が入ってきた。彼女は、マリが目を開けていることに気がつくと、狼耳をピコピコと揺らしながら駆け寄ってきて、屈託のない笑みを浮かべた。
「あぁ、スーが手当てしてくれたのか」
「そうですよ。って言ってもいつも私が手当てするんですけどね」
「まあ、そうだな」
スーが笑い、マリもつられて笑う。そして全身に再び激痛が襲って笑い声を呻き声に変えた。
彼女はスーメリア・ランドル。位は千人将。最近近衛騎士になった新人でマリが稽古をつけてやったこともありマリによくなついている美少女だ。
彼女は獣人と呼ばれる種族で、そのなかでも狼種と呼ばれる者達の血を引いている。
帝国では獣人は珍しいが、大陸南部に行けばむしろ人間族よりも多く生活していると聞いたことがある。スー自身も、彼女の祖父と祖母は大陸南部の出身で、職を求めて帝国に移住してきたらしい。
獣人ならではの健康的な肢体と狼が如き戦闘センスによって、現在メキメキと力をつけている期待の新人なのだ。
「なあ、スー」
「何ですか?」
「俺ってまだまだ弱いのかなぁ」
つい、後輩に弱音を吐いてしまうほど、ヒュリゴに完敗したという事実はマリの精神に大きなダメージを与えていた。アナを守ると誓ったにも関わらず自分は弱く、このままでは初陣でジルベルトすらも守れないのではないかという不安が自責の念となってマリに襲いかかる。
プライドが高いわけではない。ただ、もう少しできるだろうという自分の驕りが存在していたことが発覚し、それもまたマリの心を苦しめていた。
「先輩は十分に強いですよ。団長相手にあれほど戦えるのは副長と先輩くらいしかいません。もし先輩が悔やんでいるなら、今晩は私とお酒でも飲んで笑い飛ばしましょう。そして、また明日からしっかりと力をつければいいんですよ。いつまでも悩んでいるのは時間の無駄です」
スーが胸をドンと叩き、プルンと小気味良く双丘が揺れた。ピコピコと耳を揺らしながらマリの手を握り、優しく微笑む。
「さ、先輩もそろそろ近侍のお仕事に戻らなくては。私も訓練がもう少しありますから」
「そうだな。くよくよしてても仕方がないか」
グッと体に力を込めて立ち上がる。相変わらず全身に激痛が走るが、気合いで堪えて礼服を着て帯剣した。
スーの言葉で少しだけ心が軽くなった。本当に頼りになる後輩だ。元気で気が利く彼女は近衛騎士団でも男女問わず非常に可愛がられている。
気持ちを入れ換えるために顔を洗い、医務室を出た。
気絶していた時間が長かったため訓練という訓練はしていないが、非常に有意義な時間が過ごせたと思う。自分の中の驕りを捨て、新たな目標を確認できた。
ジルベルトの近侍としての役目を果たすため、マリは廊下を進む。
◇◆◇◆◇◆
━━━アナside━━━
マリが去った後も、アナはドミツィアナと紅茶を飲んでいた。二人だけの茶会は桃色の空気の漂う男子禁制の茶会だ。
そこにはマリも入れない。特に今日は、マリには聞かれたくないような会話が織り成されていた。
「マリアが戦争に行っちゃうなんて‥‥‥」
「まだそんなことを言っておられるのですか? 殿下がメソメソしておられても何も変わらないんですよ?」
茶菓子を摘まみながらうつむくアナは、普段よりもさらに一回り小さく見える。マリが戦争で死んでしまうのではないかという不安からに他ならない。
アナとしては、拾ったその日からマリはアナだけのもので、他の誰にも渡さないつもりだった。
マリアンナのアンナは、アンネローゼのアンネが由来している。それこそ、マリがアナのものであるという何よりの証拠だろう。
小さい頃からマリとずっと一緒に遊んできた。マリの方が年上であったが、マリが痩せ細って小柄であったこともあり、アナとマリは双子のように仲良く育てられた。
アナが大きくなってから、マリの名前が女の子の名前であることに気がついたが、今でもマリは絶対に改名しようとはしない。
他の人はマリアンナという名前のことを気遣って『マリ』と少しでも女の子っぽくない呼び方をするけれど、アナだけは昔から『マリア』と呼んでいる。
それをマリが怒ることはない。マリにとってもアナは特別な存在であり、いつの間にか『マリア』という呼び方はアナだけの特別なものとなっていた。
そのことが嬉しくて、小さい頃からずっとアナはマリのことが大好きだ。そしてそれはこれからも変わらないだろう。
しかし、マリとアナは最近ではほとんど会うことができなくなった。それはアナの側にいるマリのことをよく思わない者達がいるからで、レオポルド三世はマリをジルベルトの近侍にした。
それはレオポルド三世のアナとマリへの配慮からだと思う。
ジルベルトにマリを取られたような気分で悲しくもあるが、ジルベルトは手紙を送るという名目でマリと会えるようにしてくれている。
でも、寂しいことに変わりはない。ずっとマリといたいというのが本音なのだ。
「マリア、大丈夫かな」
「マリは強いですし、宰相様も参戦なされるというならきっと大丈夫ですよ」
「でも、」
「殿下。生きてかえって来た時に笑顔で出迎えてあげるのも女性の役目です。疲れ果てたマリが殿下の笑顔とお気遣いに触れれば、きっと惚れ直してくれるはずです」
ドミツィアナの言葉に顔中が真っ赤になる。
「それにです殿下。もし、殿下がマリとご結婚なさりたいとお考えなのであれば、マリが戦場へ行くというのは避けては通れない道なのです。本当であればジルベルト殿下の近侍ではなく、一人の軍人として戦場を駆け抜け、手柄を立てなければならないのですよ。殿下は少々過保護すぎます。はっきり申し上げて、ご自分の首を絞めているだけです」
「わ、わかってるわよ」
マリがいくら皇帝に我が子のように思われているからと言っても、アナとは絶対に結ばれることはできない。
アナは現皇帝の娘だ。貴族制がなく、実力主義を掲げる帝国であったとしても、さすがに貧民街出身のマリと皇女のアナが結ばれることはほぼ不可能だ。
一つだけ道があるとすれば、それはマリが大将軍となることだけ。
戦場で戦って手柄を立て、誰もが頭を下げる大将軍となったならば、マリの元へ降家することも可能だ。他でもないレオポルド三世がマリとアナの結婚に乗り気なのだから間違いないだろう。
しかし、アナがマリを失うことを怖れて、今もマリは城にとどまっている。マリはアナに異を唱えることはない。アナが城にいろと言えば、たとえ戦場へ行きたくとも笑顔でとどまる。
だから、そんなマリにアナはずっと甘えてきた。
「マリと結婚できなかったら殿下は他の殿方の元へ嫁ぐしかなくなりますよ。名門の家の嫡男か、他国の王侯貴族かはわかりませんが、マリではない殿方の子を生むことになるのです」
アナの心を読んだかのようにドミツィアナが追い討ちをかける。
「嫌よ。マリ以外の男なんて、私は嫌なんだから」
マリ以外の男に触られるなんて考えるだけでも恐ろしい。女としての幸せは掴めるのかもしれずとも、マリ以外と結ばれるつもりは全くない。
たとえ貧乏で苦労し続ける道が待っていたとしても、マリと結ばれることができるならばアナは喜んで茨の道にでも飛び込む。
「ですが殿下はマリを手放そうとなさいません。陛下もジルベルト殿下も、殿下がマリを恋慕っておられることがわかっておられるから黙っておられますが、殿下が適齢期になればさすがにどこかへ嫁がせなければならなくなるのです。殿下。覚悟をお決めなさいませ。殿下が信じなくて、誰がマリを信じるというのですか」
「マリアを信じる‥‥‥」
マリのことは大切だ。でも、自分と結ばれるためには頑張ってもらわなくてはならない。
覚悟を決める時なのかもしれない。自分もマリも、もう子供ではないのだから。
「今度、マリに言うわ。頑張って戦功を立ててきてねって」
「愛してるわ、と付け加えれば良いかもしれませんね。きっと張り切って大将首をあげることでしょう」
自分がマリのためにできることは笑顔で出迎えてあげること。
でも、ジルベルトの手紙に書いてあったことくらいはできるはずだ。
「シャイネ」
「ははっ」
アナは自分の近侍を呼び出し、紅茶を飲み干してティーカップを置いた。
「マリアには内緒よ。今から━━━━━」
マリの初陣は刻一刻と迫る。