2 茶会
「何よじいや。べつにいいでしょう?」
「よくありませぬ。ドミツィアナ嬢ももっと言ってくだされ」
そう思えばその幻想は崩れ去ってしまうものである。
三人の背後から投げ掛けられた声。それは年老いた低い声ではあったものの、奥底に大火を燻らせているような腹の底に響く声であった。
「くそジジイ」
「何だとクソ餓鬼がァ。貴様も皇太子殿下の近侍という職を賜る栄誉を授かったのであれば、とっとと仕事に戻らんか馬鹿者め」
老人の名はデルバート・モンビーク。五十年もの間戦場を駆け抜けてきた豪傑であり、戦場を退いてからは文官に転じて宰相となり帝国の中枢を担うレオポルド三世の股昿の臣。
若かれし頃のレオポルド三世に軍略の全てを教え、北リオスにデルバードありと恐れられる武人でもあった。その力は衰えることを知らず、年老いた今でも帝国で指折りの怪力を誇り、前線で活躍する将軍のほとんどがデルバートに一度は教育を施されている。
マリ自身も、デルバートに剣や槍の使い方から馬の乗り方まで、様々な武に関する教育を施されてきた━━━━が、マリはこのデルバートが苦手であった。
正確には嫌いではないし恩は感じているがそれでも彼を嫌うのはただ一つ、デルバートが自分とアナを引きはなそうするからに他ならない。
「断る。今の俺はアナ様の命を受け、紅茶をご一緒させていただくという最重要任務をこなしている最中だ。わかったらとっとと消えろ」
「貴様ぬけぬけと。この儂の言うことが聞けぬのかァ」
「ああ。俺がお仕えするのはあんたではなく、アナ様でありサノーラ王家だ。ジルベルト殿下の近侍である俺への命令権を所有しているのは、皇帝陛下を除けば殿下お一人。よって、あんたに命令権はなく、命令系統外からの命令とはあくまでも『お願い』に過ぎないのだが、はて、あんたとアナ様の『お願い』を天秤にかけた場合、どちらが傾くかわからない貴公ではあるまい。そうでしょう? 宰相様?」
「そうよそうよ。じいやはあっちに行ってなさい」
マリにアナが便乗し、デルバートを責めたてる。マリに言われるならまだしも、アナに言われたのであれば彼も強くは言い返し難い。
青筋を浮かべてうぐぐと唸るデルバートを無視し、マリは礼服の懐をまさぐった。
「じじいに言われて思い出しました。ジルベルト殿下から書状を預かっております。お確かめください」
マリが芝居でもするように手紙を渡し、アナはそれを受け取ると早速封を開けて読み始めた。
最初は時折頷きながら機嫌よく読んでいたが、進むにつれて次第に眉間にシワが寄っていく。
感情が表に出やすいアナは、顔を見られるだけで大まかなな感情は読まれてしまう。
今の感情は驚きだ。しかし、主愛が尋常ではないマリは、アナの表情から不安を読み取れた。
「どうかなさいましたか? お返事があるのであればお持ち致しますが」
「マリア。貴方、戦争に行くの?」
悲しげな顔で振り向かれた。今にも泣きそうな顔で、いや、うっすらと涙を浮かべて、アナが手紙を持つ手に力を込めた。
アナの顔を見て、ハッとした。そして、心が苦しく締め付けられる。握りしめられた手紙が潰れてシワクチャになった音が、まるでマリの心中を語ったかのようだった。
どうしてジルベルトは直接伝えるのではなく、わざわざ手紙に書き、それを自分に運ばせたのか、という疑問が頭に浮かんだが、主の涙の前ではその疑問が頭に居座ることはなく、一瞬にして思考の彼方へと追いやられた。
「ねえ、戦争に行くの?」
いずれ言うつもりであったがまさか今になることになろうとは、というのがマリの心の叫び。
自分のことを大切に思ってくれているアナが心配することはわかっていた。だからこそ、未だに伝える決意ができずにいたのだ━━━━が、予期せぬ展開でバレてしまったのだとしても、ここで嘘を言うのは愚策の極みであることはわかっている。
喉でつかえようとする言葉を搾り取るように口にした。
「‥‥‥次の戦争がジルベルト殿下の初陣となります。近侍である私も殿下と共に隣で戦争へ」
サノーラ帝国皇帝はいつの世も戦帝であり、最前線で自ら兵を従え敵を蹂躙してきた。それは次期皇帝であるジルベルトもまた然り。
皇帝自ら先陣をきって敵を屠り、皇帝を失ってはならないと後ろに続く屈強なる帝国兵が決死の覚悟を決めて突撃することもまた、敵を恐れさせるには十分だ。死を恐れない敵ほど恐ろしい者は少ないのだから。
「ですが、初陣ですのでそれほど大きな戦いに参加するというわけではございませんし、メントース大将軍が大将をなさられるとのことですので、万が一が起こる可能性は大きくは」
「でも、でも死んじゃう可能性がないわけじゃないんでしょ!? 嫌よ。私はマリアがいないなんて嫌なんだから」
「アナ様‥‥‥」
アナは泣きながらマリの胸にすがりつく。戦争、それも前線に行くのだから死ぬ可能性をゼロにはできない。流れ矢に当たってしまうことだってある。
何が起こるかわかないのが戦場。軍略の師であるレオポルド三世からはいつもそう教えられてきた。
「殿下。マリが困っていますよ。お止めになられたほうがよろしいのではなくって?」
「でもマリアが」
「絶対に死ぬと決まったわけではございません。それに、ジルベルト殿下の近侍であるマリが戦争に行かないなどということがあれば、それこそマリを追い落とそうとする者の格好の標的となりますわ。そうなってしまえば、もういつものように会うこともできなくなってしまいますのよ」
「そんなの嫌よ」
「ですから我慢です。男の帰りを待つのも女の役目の一つ。笑顔で見送り、そして笑顔で出迎えてくれる方に殿方は惚れてしまうというものです」
ドミツィアナの言っていることは間違ってはいない。もしアナに涙を流されて見送られたとしたら、戦場でもその光景が瞼の裏に貼り付いて離れないだろう。
そうなれば、それこそ戦死してしまうかもしれない。
諭されたアナはグスッグスッと俯いて泣きじゃくっていたが、暫くしてその涙をハンカチで拭い、豪快に紅茶を飲み干して笑顔を見せてくれた。
それだけでマリの締め付けられていた心は幾分か楽になる。勿論、まだ心苦しく、悲しいという気持ちは残っている。
でもそれは無事に帰ってくれば問題ないことなのだ。死ななければ、またこうして愛するアナと紅茶を飲めるのだと考え、マリもまたアナの笑顔に愛して微笑みを浮かべた。
「殿下。ここだけの話になりますが、次の戦争は、このデルバートもジルベルト殿下のお側で槍働きをすることになっております。このデルバートの旗が立つ場所に攻め込んでくる度胸者はそうおりませぬし、いたとしてもこの私が槍の錆びにしてみせますゆえご心配なきよう」
デルバートもまた年齢を重ねて皺が増え、たっぷりと髭を蓄えた口元を豪快につり上げた。
笑みにしては迫力のありすぎる。夜中にこの顔を見たら泣き出してしまうかもしれないような恐ろしさがあった。
「だからこそじゃ。貴様もとっととジルベルト殿下の元に戻って、昼からの訓練に参加してこい。甚だ不本意じゃが貴様はアナ殿下に無くてはならない存在なのじゃ。そう易々と討たれては困る」
「アナ様。くそじじいの言うとおり、これから訓練に参りたいと思います。本日も紅茶は美味しゅうございました」
「訓練頑張ってね。アナが死んだら私も後を追うと思うといいわ」
「ふふふ。愛されてますわね。ではマリ。また明日」
「明日はございませぬぞ。そら、とっとと行け」
デルバートに追い出されるようにして茶会を後にした。茶会があっていたのは城の中庭。長い廊下を抜けてジルベルトの執務室へと向かい、昼の訓練への参加の許可を貰った。
アナの泣く姿を見てマリは、自分は絶対に死んではならない、と悟った。絶対に死なないと決意した。
幼き頃、アナに永遠の忠誠を誓ったマリ。もし、アナが戦争から帰って来た自分を出迎えてくれるのであれば、赫赫たる戦果を挙げ、将軍某を討ち取ったのだと誇りたい。あわよくば誉めてもらいたい。
王家に仕えている以上、最低限の義務はある。自分は、アナだけでなくジルベルトを初めとした王家に仕えているのだ。
迷惑をかけるようなことがあってはならない。
迷惑をかけないのは当たり前。マリがいて良かったと思われて初めて、自分が彼らの傍らに侍る権利を持つことができるのだとマリは思っている。
死なないためにも、これからもアナと王家のためにこの国を守り続けるためにも、まずは自らを鍛えなければならないことは自明の理。
マリは、自ら頬を叩いて眠気を吹き飛ばし、訓練に参加するために城の近衛兵の詰所へと向かうのだった。