10 撤退戦
籠城十日目の早朝。
まだ日も十分に昇っていない薄暗い中、撤退戦に参加する兵士達は三大欲求を満たし、緊張した面持ちで南北東の城門の前に立っていた。
その整然とした空間には緊張だけでなく覚悟も漂っている。間違いなくこの戦いの生存確率は低い。それは兵卒のみでなく将校達も同じだ。
兵数、馬や武器などの軍備、士気、兵士達の状態等の戦局を左右するような全ての要因において帝国軍は王国軍に劣っている。全滅する可能性も決して低くはない。
おそらく戦いが終わり国に帰った時、後の戦略家が『戦略的勝利』だと評価したとしても、このクラーベン要塞周辺に帝国兵の屍山血河が出来上がることは確定された未来なのだ。
東軍一万の先頭に立ち、ジルベルトの鎧を身に纏ったマリもまた緊張を兵に伝えないように、顔を引き締めて門を見据えていた。東軍は精鋭を集めているわけではなく、加えて自分達が明らかに囮であることが分かっているため兵士の士気は低かった。
眼前の門を開ければそこに広がるのは平原。彼岸花の血紅が咲き乱れ、自分達を冥府に誘うように風に揺れる不気味な平原だ。
三日前の長雨で未だに抜かるんでおり状態は最悪でもあった。しかし、死ぬわけにはいかない。
法螺貝の唸るような音が霞がかる早朝の空気を震わせた。兵士達の咆哮と鎧が擦れる金属音が鼓膜を震わせ、東軍にも一気に緊張が走った。
法螺貝の合図と共に出陣したのは南北の二軍。ジルベルトがいるのは北軍となっている。
東軍の出陣は南北軍と王国軍が激突した時。帝国旗を掲げ、敵を引き付けつつ一気に平原を抜けてマンナソ要塞を目指すことになっている。
「両軍衝突! 東門開門!」
斥候の報告を合図に、門が上がっていく。鉄錆の軋む音は死神の囁きにも聞こえた。
「東軍に告げる」
マリが振り返り、己の後に続く兵士達を竜上から見回して兵を鼓舞するために力強く叫んだ。
「この俺の鎧を見て薄々察しているとは思うが敢えて告げる。我々は囮だ。皇太子殿下を守るために編成された囮である」
気づいてはいても実際に司令官の口から告げられれば動揺が広がった。緊張が恐怖に打ち負け、覚悟の空気が霧散した。
ある者は頭を垂れて悔しさに唇を血が滲むまで噛みしめ、ある者は愛する者のことを想って涙した。
彼らの感情は、慙愧、望郷、絶望と様々だが、一つ共通して言えることがあるとすれば━━━━それは死にたくないという強い想いだ。
「だがしかし、我々は死ねと言われたわけではない。我々のみでなく、三軍全ての受けた命令はただ一つ、『マンナソ要塞まで全力で駆けよ』のみだ。それ即ち生きるための唯一の希望である。しかし、我が軍には一つだけ暗黙の役目がある。それこそ皆が絶望する理由だ━━━━しかし、何故頭を垂れる。何故希望を失うのだ。我々には生き残る権利がある。そして生きて帰った時、我が軍は皇太子殿下を救うために命を張った英雄だ。将校のみではない。一兵卒全てが英雄だ。帝都に帰れば凱旋だ。老若男女が褒め称えるに違いない。そして、栄光ある勲章と報酬を得ることができるだろう。俺は皇太子殿下の近侍であり、幼少期より皇帝陛下に我が子のように育ててもらった経緯がある。万が一お前達を蔑ろにすることがあるならば、俺から陛下に奏上してやろう。故に、死にたもうな。生きろ。生きてマンナソ要塞へ逃げるのだ」
開門が近い。しかし、兵士達の瞳には確かに光が宿りつつある。
「生きて帰って凱旋される栄誉を得る機会を賜ったことを光栄に思え。逃げるために敵を殺せ。生き残るために目の前の敵を殺せ。目や鼻をえぐられようとも指を失おうとも矢を受けようとも、命尽きるその時まで必死に抵抗しろ。さすれば希望が見える筈だ。隣で死にかけたやつがいたら尻を蹴っ飛ばして起こしてやれ。そして共に生きて帰った時、恩着せがましくたかってやれ」
笑い声が漏れる。そこにもう絶望にうちひしがれていた兵士はいない。そこにいるのは、誇り高き勇猛な帝国兵一万人だ。
「全軍突撃用意! 忌々しいウィントポルのクソ犬どもを蹂躙せよ。そして、活路を開くのだ」
兜をかぶって槍斧を天高く掲げた。
「全軍突撃ィィィ!!」
レイラの横腹を蹴り、勢い良く門から飛び出した。そんな俺に、雄叫びを上げながら一万の兵が続く。
東門は方向を確認する必要はない。ただ直進するのみだ。
「敵が来たぞ」
「あの鎧は大将首だ」
「ジルベルトを討ち取れぇぇ」
想定どおり俺に向かって兵士達が向かってくる。見たところ一万に満たないくらいだろう。
遂に敵兵とかち合った。向かってきた槍を弾き飛ばし、前列の兵士の喉を貫く。レイラの足は止めない。ひたすら敵を屠りながら全身する。
「馬鹿め。囲んで殺せ」
兵士達が次々にマリを囲んで槍を突きだしてくる。レイラも兵を払うように尻尾を振るが、それでも対応できない槍がマリの身を貫く。
しかし、気合いで痛みを払いのけ、突いてきた敵兵を吹き飛ばした。
後方を一瞥すれば、マリの背中を追いかけて兵士達が続いている。彼らのために活路を開くのだと己を鼓舞し、再び槍斧を振りかざす。
迫ってきた二騎の攻撃を避け、左の騎兵を手で引きずり下ろし、右の騎兵の腹に穂先を突き込む。落馬した兵の頭をレイラが踏み抜き、グチャッという耳障りな音と共に血の華を咲かせた。
騎兵で突破されつつあるため、敵は当然槍衾を作って応戦してくる。出来上がりつつある。眼前に突きだされた穂先の全てを振り払い、敵の頭を乱れ突く。
ボルトが肩に突き刺さった。数本連続で飛んで来て太ももや腹に突き刺さる。筋肉に力を込めてなるべく深く刺さらないようにしながら、目の前の敵兵を殺した。
二百の敵を殺しただろう。平原をそれなりの距離を駆け抜けた。このまま上手くいけば逃げられる━━━が、何かがおかしいということにマリは気がついた。
その疑問に明確な中身はない。しかし、何故か違和感を拭えない。
敵兵の練度が低すぎること。敵の装備がボロボロであること。そして、時折敵兵が口にする『こいつらを殺さなくては俺達はどうなるか』という言葉。
見渡せば敵の本軍は小高い丘の上から動いていない。未だに王国旗を棚引かせたまま、悠々と高みの見物を決め込んでいる。
「死ねぇぇ━━」
「雑魚は引っ込んでろ」
後方から走ってきた敵に短剣を投げて殺しながら考える。
もしかしたら、自分達は既に何かの術中に陥っているのではないかという不安に━━━━丘の上の本陣、地面の泥濘、先日の長雨、周囲は山々、そして
「川‥‥‥まさか!? 正気かウィントポル軍は!?」
マリは一つの可能性に至った。確証はなく完全に憶測に過ぎない。しかし、否定することもできない。
それならばやるべきことは一つだ。
「帝国軍! 早く駆け抜けろォォォ。急がねえと━━━━」
この戦線は轟音で必ず危機に陥るらしい。ゴゴゴという地鳴りと共に大地が揺れている。
その音を聞いた敵兵が我先にと慌てて撤退を開始した。皮肉にもマリの予想は当たったのだ。
「逃げろォォ。要塞に戻れ今すぐだァァ!」
レイラの足を止めて引き返した。城壁があればどうにかなるかもしれないと考え、撤退を決めた。
しかし、時既に遅し。霧によって不安定な視界の向こうから、大地の鳴動と共に襲ってきたのは━━━濁流。
馬や竜で逃げることなどできるはずもなく、王国軍を含めた平原の兵は一瞬で飲み込まれて消えた。
◇◆◇◆◇◆
「陛下。決まりましたな」
「ああ。ククク。三軍に分けたのは悪い判断ではないが、結局全部死ぬのだから意味はなかったな」
高い丘の上の本陣で、将軍の称賛を浴びながらウィントポル王カーリオは高笑いした。既に眼前に平原はなく、峡谷に流れ込む濁流があるのみ。
長雨で想定よりも水が流れこんでいたが、丘の上には届いていない。そもそもこの丘は自然のものではなく、この戦略のために土を盛って作ったのだ。
そして要塞も、守りよりも水を防ぐことを重視する設計で改修した。勿論岩石もだ。
そう、全ては帝国軍を一掃するための策であり、帝国軍はまんまと手の平の上で踊ってくれた。
「さて、予定通りこのまま帝国領内へ侵攻するぞ。目指すは帝都。先に向かった本軍と共に帝都に王国旗を立てるのだ」
「「「ははっ」」」
この日、ウィントポル王国へと侵攻したサノーラ帝国軍は全滅した。
◇◆◇◆◇◆
━━━━━アナside━━━━━
「殿下」
外を眺めていたアナの元へ彼女の近侍であるシャイセという少女が近づいてきて頭を垂れた。
「お呼びとのことでしたが」
「手鏡が割れてしまったのよ」
アナはシャイセに割れた手鏡を手渡した。それはまだアナもマリも幼かった頃、マリがアナの誕生日にプレゼントした大事な手鏡であった。
「たしかこれはマリアンナ殿の‥‥‥」
「そうよ。修理してほしいんだけれどできる?」
「畏まりました。手配しておきます」
手鏡を布に包み、シャイセが部屋から出ていった。
アナは窓の側に置いた椅子に座ってウィントポル王国がある方角の空を眺める。胸には銀の首飾りが下がっており、アナはそれを大切そうに握りしめた。
「マリア‥‥‥無事でいてね」