1 始まり
新作です。
戦記ものは初めてですので何かおかしな点がございましたら御助言いただければ幸いです。
あらすじでネタバレ感がありますが、最初はまったり進みますが、すぐに波が来ると思います。
リオス大陸にこの国ありと唄われ、列強諸国に覇を唱える一つの国があった。
兵卒に至るまで勇猛な彼の国の軍は、その旗を見ただけで敵が投降するとまで言わしめるほどであった。
しかし、その国の侵攻を黙って見ている諸外国であるはずもなく、時代は大国が領土を巡って血で血を洗う戦争を繰り返す、群雄割拠の戦国の世。
そのような時世の中、一人の少年が、彼の大国の掃き溜めの如き貧民街の一画で、戦争帰還兵の暴力が横行する街のあばら家の中で、薄汚れた娼婦の股座から生を受けた。
少年を生み落とした娼婦は彼が生まれてすぐに肺を患って死に、少年は生まれて一月と経たずに独りとなり、生まれたばかりの赤子には迫り来る死に抗うことなどできるはずもなく、痩せこけ、泣く力も無く、ただひっそりと血と泥と汚物にまみれてこの世から消えるしかなかった。
死に行く彼を、偶然通りかかった貧民街の老婆が救ったのはもしかすれば運命であったのかもしれない。自分の死期が近いことを悟っていた老婆は、犯してきた数々の罪へのせめてもの贖罪として、なけなしの食料を与え、彼を育てた。
その老婆も、彼が五才になろうかというところで病に倒れ、再び少年は独りとなった。
しかし、その時少年は歩くこともできない赤子ではなかった。ゴミを漁って飢えをしのぎ、成長してからは拾った剣を使って窃盗や強盗を犯して日々の命を繋いだ。
そこに善悪の観念があるはずもなく、物心ついた頃には既に独りだった彼にとって、日々生き延びることこそ最も重要なことであった。
少年はそんな世界に絶望していた。頼る者もなどいるはずもない。少しでも金を持っていることが知られたらならば他の貧民街の者に奪われる、そんな少年の世界には敵しかいなかったからだ。
街角で物乞いをし、石を投げられたこともあった。偶然拾った金で温かい食べ物を買おうと表の街に出て、薄汚れた貧民街のガキめと罵られ、集団で暴行されたこともあった。
少年に抗うことができるはずもなく、ただ無駄に月日だけが流れた。
建国から八百年の式典が開かれたその日、十二才となっていた少年の人生に転機が訪れた。
その日、建国記念の炊き出しがあると聞いた少年は、貧民街を出て、初めてとなる温かい食事にありついた。それは、手の平ほどの小さなお椀に半分ほど入った味の薄いスープだった。具も半ば腐った野菜の端が入っているか否かという、豪華とは言い難いスープ。
腹の足しにもならないと街行く人は言うだろう。しかし、少年にとっては今まで生きてきた絶望の闇を祓う光であるかのように感じた。
それだけで腹が膨れた少年は、軽い足取りで貧民街へ戻っていた。おそらくそんな少年の様子が彼らの目を惹いたのだろう。
少年は貧民街に続く路地に入ったところで、ある兵士に袈裟懸けに斬りつけられた。
兵士にしてみれば新しく伸長した剣の試し斬りであったため、自分の剣で少年の皮膚が深く裂け、鮮血が飛び散ったとを見るや、鼻唄を歌いながら上機嫌に去っていった。
少年の傷は急所こそ外れていたものの、貧民街育ちの飢えた少年に救われる道などなく、ただ静かに路地に伏せていた。
溢れ出る血でべっとりと濡れ、生気の無い顔を上げればそこにあるのは表の街。少年がずっと憧れ、焦がれた、人々の笑顔が溢れる街。
それは、表の街に彩られながら、老婆に拾われて繋いだ少年の命の灯火が消えようとした時だった。
「じいや。彼を見て。血だらけよ」
「殿下。近づいてはなりません」
「でも、この子死んじゃうわよ」
「ですから━━━」
幼女と老人の声がした。全身の感覚がなくなり、自分でも寝ているのか起きているのかわからないほどの死の瀬戸際のなか、自分の体が揺さぶられている気がし━━━━幼女と目があった。
少年は晩年、それが自分が初めて発した意味ある言葉だったのかもしれない、と語る。
少年は薄れゆく意識の中、自分よりも小さな幼女にそう言ったのだ。涙と汗と血と泥にまみれた顔をくしゃくしゃに歪めながら、こう言ったのだ。
いぎだい、と。
気づけば見たこともないほど綺麗な部屋いた。体が沈むほどふかふかなベッドの上で、包帯を巻かれて治療された少年は天井を眺めていた。
「気づいたのね? よかったわ」
少年は訳もわからずに上体を起こした。すると、ベッドの隣にいた美しいドレスに身を飾った女性が椅子から立ち上がって歩み寄ってきた。
「あ‥‥むね‥‥むね‥‥」
「ああ、あの胸飾りね。はい、ここにあるわよ」
「あ‥‥あ‥‥」
その女性に付けてもらった胸飾りは少年を助けた老婆が死ぬ間際に少年に渡した、老婆の形見であった。
少年には老婆が生きていた証であるその首飾りを売ることはできず、奪われないように守り続けてきた大切な物だった。
「お母様。あの子は気づいた?」
「ええ、たった今目を覚ましましたよ」
「本当に!?」
タイミングを図っていたかのようにけたたましい足音を響かせながら幼女が走ってきて少年の手を握った。未だに事の展開についていけない少年は、目を白黒させていたが、そんな少年などお構い無しに、幼女は少年の手をブンブンと振り回し、満面の笑みを浮かべた。
「私、アナっていうの。あなたのお名前は?」
状況がいま一つ理解できていなかった少年も、自分が幼女に質問されていることには気づいた。しかし、少年はそれに答えることができなかった。
少年には名前がなかったのだ。生母の記憶はなく、老婆にも名前を付けてもらった記憶はなかった。碌に言葉すら話すことのできない少年は、辿々しい口調で、幼女の問いかけに返答した。
「な‥‥まえ‥‥な‥‥」
「ナマエナ?」
「アナ、もしかしたら、名前がないのかもしれません」
女性の助け船に対して、少年は大きくなり頭を縦に振った。
「え、そんなことあるの?」
「ええ、残念ながら、それがこの国の現状なの」
女性が悲しげに顔を伏せ、幼女は顎に手を当てて何やら考えこむような素振りを見せ、ポンと手を叩き、少年の手を再び握ってこう言った。
「じゃあ、あなたの名前は━━━━」
◇◆◇◆◇◆
「マリ。マリはいるか?」
「はいここに」
そこはある国の城の一室。帝国中から集められた選りすぐりの調度品に彩られたその部屋に置かれた執務机に座っていた青年の呼び掛けに、かつての少年━━━━マリアンナは駆け寄ってきて膝をついた。
「毎度思うが男にマリアンナという名前は似合わないぞ。もっと良い名前に改名したらどうだ。アナももう大きいんだしきっと許してくれると思うが」
「いえ。私めも毎度申し上げておりますが、このマリアンナという名前は大変気に入っておりますので改名するわけにはいきません」
「くくく。毎度のことながらお前も忠義ものだな。改名したくなったらいつでも言うといい。アナには話をつけておく。まあそんな話はいい。使いを頼む。この手紙を件のアナに渡してほしい」
「かしこまりました殿下」
マリはもう何度目になるかわからない日常会話と化したやり取りをし、一礼してその部屋を後にした。
幼女━━━アナ、正式にはアンネローゼに命を助けられて早六年。あの日、アナによってマリと名付けられた少年は十八才となり、今では立派な美青年となっていた。
マリを助けたアナはこの国の第三皇女であり、マリを看病してくれていたのはこの国の皇后であるクラーラであった。
彼らの国であるサノーラ帝国は大国であったが、皇帝レオポルド三世は稀に見る名君で、娘が貧民街で拾ってきた得体の知れない名前すらないような少年であったマリを温かく迎え、我が子のように今まで育ててきてくれた。
現在アナは十四才であり、年頃の女性の側に男であるマリを置いておくことで世間によからぬ噂を立てられることを防ぐため、マリは彼女の兄で皇太子であるジルベルトの近侍として王家に仕えている。
ジルベルトも今年で二十二才。マリと年齢も近いことから弟のように接してくれていたこともあり、マリにとっては仕え甲斐のある主だった。
そもそも命を助けられただけでも儲け物であるのに、その後の職まで斡旋してくれたというのな本来あり得ないことだ。
アナに助けられ、家族全員で優しく育てられ、幼い身でありながらも王家に忠誠を誓ったマリにとって、ジルベルトの近侍就任の申し出を受けないという選択肢があるはずもなかった。
その六年という歳月は彼を大きく成長させる。
それは身長や体重だけではない。
いつまでも王家の食客扱いでは居心地が悪いであろう、と皇帝でありながら稀代の軍略家でもあるレオポルド三世は、マリに彼の軍略の全てを授けた。
マリは彼に軍略を教えられながら剣や槍の稽古もこなし、今では近衛騎士達の中に交ざっても問題ないほどにまで至った。
既にマリは近侍の域を超え、戦の経験こそないものの、その力量は軍の将校と比肩しても遜色ないほど。大陸では珍しい完全実力主義を掲げるサノーラ帝国では貧民街出身である彼を見下す者は少なく、今では近衛騎士達にも慕われる存在となっている。
であるからこそ、マリは彼らサノーラ帝国に固く忠誠を誓っているのだ。
であるからこそ、自分の命を救い、育て、生きる場所をくれた彼らへの恩義を忘れたことはないのだ。
故にマリは膝まずく。自分が、最も親愛している主の前に。
天に照らされて輝くように流れる美しい金髪に、南国の海のように透き通った淡い碧眼。
徐々に膨らみつつある成長過程の双丘は、きらびやかなドレスの胸部を盛り上げることで、ささやかながらもその存在を主張している。
胸の膨らみだけでなく腰も括れてきており、だんだんと少女から女性に近づいてはきているものの、その瞳には子供のように鮮やかな発想と好奇心を蓄え、時に無理難題を押し付けてはくるものの、自分が命よりも大切に思っている主。
「あら、マリア。丁度良いところに来たわね。良い紅茶が手に入って、今からいただこうと思ってたの。さ、そこに座ってお茶していきなさい」
ミラが近づいてくることに気づいたアナは、今まで座っていた机を蹴るように立ち上がり、膝まずいたマリの肩を持って立ち上がらせた。
十四才となってもまだまだ幼さが残る自分の主の様子に苦笑しながらも、厳格のある態度で一礼する。
「いえアナ様。大変ありがたいお話ですが、ジルベルト殿下の近侍ごときである私が、殿下と席を共にして紅茶をいただくわけにはまいりません。それに、今日はドミツィアナ様もお越しになられているのですから尚更です」
「ふふふ。私は構いませんわよ。マリとは長い付き合いですから」
当然、アナとお茶したいというのが本音である。しかし、やはり年頃のアナとお茶を飲んでいると良からぬ噂を立てる者は大勢いるのだ。
近侍という職は、戦える召し使い程度の身分でしかなく、大きな権力を行使できるわけではない━━━が、それが王家の、それも皇太子の近侍であるのであれば話は別である。
次期皇帝たる皇太子に自分の存在を覚えてもらえる役職であるという点。
皇太子の側で帯剣を許される、つまり自分の背中を預けるに値するという最高の信頼を得ている証拠であるという点。
直接的な権力こそ持たずとも、この二点においては他者からの羨望と嫉妬の視線を集めるには十分な役職であり、マリをその席から追い落とそうという者は多い。
また、マリは中性的ではあるものの比較的整った顔立ちをしており、皇帝に我が子のように可愛がられているという点を抜いても貴族女性からの人気があった。
それもまた、マリの良からぬ噂を増やす一因になっており、もはや手の付けられない状況下であったのだ。
そんな輩がマリの都合の悪い噂を流しているという事実が確かにある以上、アナにも迷惑がかかることを考えれば、マリとしては断腸の思いでお断りせざるを得ない。
顔には出さずとも、内心では悔しさに大泣きしていたマリを助けたのは、アナの向かいで優雅にティーカップを傾けていた一人の女性━━━ドミツィアナ。
彼女は、名だたる将軍を数多く排出する名門アイノール家の長女であり、アナの姉のような人物である。
もっとも、『今日は』とは言ったものの、いない日の方が少ないため、本来であれば『今日も』の方が正しいのだろう。
「ほら、ドナが言ってるんだから問題ないわよ。さ、座って座って」
「ドミツィアナ様、ですがそれは‥‥‥」
「あら、私としては、社交界でも一定の人気を常に誇っていらっしゃるマリと楽しくお茶をしたいだけですわ。ふふ、貴方を狙ってる淑女方は悔し涙を流すのかしら」
「そ、それは‥‥‥」
「ちょっとドナ何言ってるの!? マリアは私が名前をつけたんだから私のものなのよ」
「ハ、ハハハハハ」
所有物扱いでチョッピリ寂しくもあり、大切な所有物扱いでチョッピリ嬉しくもある複雑な気持ちが顔に滲んでしまったのか、ドミツィアナがマリの顔を見てクスッと笑う。
「冗談ですわよ。貴方からマリを奪おうとはしませんわ。だって、それができないことは重々承知ですもの。ね?」
「私は一にアナ様、二に王家に永遠の忠誠を誓っておりますゆえ」
「ほら見なさい。さすが私のマリアよ。じゃあ、お茶もできるわね。早く座りなさい。席はあるわ」
「ですからそれは‥‥‥」
「あらあら、私とお茶するのは嫌ですか? 少し寂しいですね」
「そうよ。これは命令なんだから。サノーラ帝国第二皇女たる、このアンネローゼ・ディ・サノーラの命令が聞けないっていうのかしら」
「いえ滅相もございません。是非お茶をいただきたく存じます」
致し方ないという体を装いながら椅子に座り、アナから直々に紅茶を注いでもらう。
「良い香りですね。マジャヒト地方の紅茶ですか?」
「今日のはキエンス地方から取り寄せたのよ」
さすがに紅茶の知識があるわけではないため適当なことを言って紅茶を啜る。紅茶は確かに美味しい。まろやかであり、仄かな甘味が口いっぱいに広がる。
「どう?」
「大変美味しいです。アナ様のお味が致します」
「それは愛の味では?」
「ちょっ、ドナ? さっきから何言ってるのよ」
「あら殿下、先程」
「わーわー。それは言わない約束でしょ? ねぇ、約束は守ってよ。じゃないと貴女の秘密もバラしちゃうんだから。例えば━━━」
顔を真っ赤にしたアナがドミツィアナの口を押さえながらウンウン唸る。何やら必死に考え込んでいるようだが、思い付かないらしい。
しばらく考え込んでいたが、諦めたのか清まし顔で茶菓子を食べているドミツィアナを恨めしげに見つめ、ソッとマリの耳もとで囁く。
「ねぇ、何も思い付かないんだけど。マリアは何か知らない?」
答えてあげたいが何も思い付かないのだからどうしようもない。
アナはまだ十四だが、ドミツィアナはマリと同じで十八となるため、女としても策略家としてもドミツィアナの方がアナよりも一枚上手であり、弱みなど握れるはずもなく、それはマリも然り。
「思い付きかねますが、このような時は『私はあの事を知っているわよ』と言うのが良策だと、いつぞやに女性から教えていただいた気が‥‥‥‥」
「女性? ねえ、今女性って言った?」
しまった。龍の尾を踏んでしまった。
その事実にマリが思い至るのは少しばかり遅かった。
「え、あ、いえ、そのようなことは」
「いいえ言いました。ねえ、どこの女? ねえ、私のマリアに唾をつけようとしたのはどこの女なの?」
「マリは社交界では人気の殿方ですわ。お名前は女性のそれですけれど、ずいぶんと恋慕われているご様子。彼に接触する女性は多いのではありません?」
「いえそのような、あ、皇后様でした。クラーラ様に教わったのでした」
「違うわよ。今適当に思い付いただけでしょう。わかるのよ。伊達に何年もマリアの主をやってないんだから」
マリの余計な一言で途端に騒がしくなった茶会。
アナにお茶に誘われ、マリが断り、アナとドミツィアナが無理を言い、マリが茶を飲みながら何か地雷を踏み抜き、アナがそれに怒って詰め寄り、そんな二人を肴にドミツィアナが紅茶を飲む。
何年もの間、変わることのない日常。
しかしそれがマリにとっては何よりも嬉しく、尊いものだ。貧民街に生まれ、温もりを知らずに育った彼にとって、笑顔に満ち溢れるこの生活は何よりも大切なものだ。そして何より、主としても、女性としても、最も愛しているアナの側にいられることが、マリにとっては命よりも大事なことなのだ。
「ねえ、なにニヤニヤしてるのよ。聞いてるの?」
「ふふふ。マリは殿下のお味を楽しんでいるのではなくって?」
「えっ、ちょっ、え?」
「ドミツィアナ様、からかわないでください」
せっかく温かさと柔らかさに包まれていたのに、という言葉は飲み込む。
年を重ねるにつれ、アナとは少しずつ距離が開き始めたのだ。もう少しだけあの心地よい香りに包まれていたかったとドミツィアナを恨んだ。
「夫婦喧嘩も宜しいですが、何故距離を置くことになっているのかは考えた方が良いですわ。私はまったく構いませんが、誰が見ているか分からないのが今の世ですから」
「「夫婦喧嘩じゃ」」
「いいですね?」
「「はい」」
声を揃えて反論し、再び声を揃えてションボリうつむいた二人をドミツィアナが笑った。そんな彼女に釣られて、マリとアナも声を上げて笑ってしまう。
‥‥‥こんな時間が永遠に続けば良いのに。
「笑っている場合ではございませんぞ」
その声は三人の背後から投げ掛けられたのだった。