契約は完了されたり
毎日を生きよ。あなたの人生が始まった時のように。
ドイツの文豪 ゲーテ
何も見えない。
何も感じない。
あるのは酷い孤独感。
「何も無いんじゃない。ただ単に初めから存在なんてしてない」
聞こえるのは少女の声。
耳元で囁いたように感じた。
何人にも囲まれて一斉に言われたようにも感じた。
遠くから叫ぶようにも感じた。
(どういう意味だ?初めから存在してないって……)
「無から有は生み出せる」
再びどこからとも無く少女の声が響き渡る。
否、今度は確実に耳元から聞こえた。
いや、この声の発音源は……!!
俺……!!
「(やっと…気がついたんだ……?)」
なんだこれ……?
どうなっているんだ!!
何が起こっているんだ!!
「(私は貴方……貴方は私……)」
どういう意味……だ。
不意に周囲から色が戻っていく。
光が集まっていく感覚。
白雪の如く光が舞い降りる。
光の中、目の前に一人の少女が現れる。
白銀の長髪。
瞳は闇の中で微かに光る薄い光を模した藍色。
その顔はまだまだあどけなく十代になったばかりだろうか?
だが、その目には普通の少女では持ちえないはずの感情が見え隠れしていた。
虚無。
その目からは感情が無かった。
否、感情が無い感情。
言葉では言い表せないほどの怖気。
震えが止まらなくなる。
これは……恐怖?
違う。
哀しみだ。
あまりの哀しみで身体中が震えてる。
涙が溢れる。
理由は分からない。
だが、目の前を少女を見ていると涙が止まらなくなる。
何故これほどまでに、この少女は俺の哀心を揺さぶるのだろうか?
「優しいんだね?」
少女はそんな俺を見つめると、ゆっくりと顔を俯かせて小さく呟く。
頬から小さな雫が垂れる。
それを見てると俺の涙も更に溢れてくる。
俺はゆっくりと手を伸ばそうとする。
だが、その瞬間俺の意識は闇へと落ちた。
(貴方になら……任せられる……)
最後にその一言が俺の頭の中でこだました。
これが俺と彼女の初めての出会いだった。
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ゆっくりと瞼を開ける。
そこには木の天井。そして、その天井を明るく照らす暖炉の火。
俺はどうやら眠っていたらしい。
体をゆっくりと起こす。
起き上がった際に額から布が転げ落ちる。
体には傷があった場所に布が巻いてあり、打ち身をした場所には湿布に似た臭いがする葉っぱが貼られていた。
どうやら行き倒れた俺を誰かが見つけて解放してくれたらしい。
口の中は微かに甘さが広がっていた。
「・・--・・-・--!!」
聞いたことの無い声と言葉が俺の耳の中に入ってくる。
そちらを振り向くと、1人の老人が立ちつくしていた。
手には陶器コップみたいな物を持ている。
老人と言っても日本人とは明らかに違う。
言うなれば童話に出てきそうな感じのおじさん、明らかに日本のそれとは違う人種の老人だ。
いや、この際それは隅に置くとしよう。
「-・--・・・-!!」
再び老人が言葉を発する。
その言葉は確かに聞いたことがない言語なのに何故だろうか?
なのにどうして?
「やっと目が覚めたかい?お嬢さん?」
どうして俺はこの老人が何を言っているのか分かるのだろうか?
頭が混乱する。
俺は別に青いロボットが出してくれたコンニャクなど食べてはいない。
否。
それよりももっと気になる事を言っていた。
(お嬢さん?)
確かに俺は元々中性的な顔をしていたと思ったが、高校に進学するに従って体つきは男性のそれへと成長していった。なので、俺を女と間違えるのは流石に無い。
だが……。
俺は目の前に見える白い長髪を見つけて一つの可能性を思いつく。
俺が知らないだけで、俺の体は知っているのではないかと。
ふざけた可能性。
だが、確認せずにはいられない。
自分の顔に触れる。
絞るような。震える声で言う。
「あの……鏡はありますか?」
部屋中に甲高い…声が響き渡る。
おかしい……。何かがおかしい……。
一言一句、知らない単語を話していく事に。
その声を聞いていく毎に…。
絶望していく。
もし、俺の考えが正しければ……俺は……誰だ?
「鏡……?すまんがここにそんな高価な物は置いてない……。これでいいだろうか?」
老人はおどおどした様子でカップを近くのテーブルに置くと、そのままテーブルの上にあった桶を渡してくる。
確かに目を覚ました人物の第一声が「鏡はあるか?」なんて言われたら俺でも驚くだろう。
だが、老人の狼狽を気にする余裕は今の俺にはない。
殆ど奪い取るに近い感じに桶を手に取る。
桶の中には水があり、荒々しく持ったため、波紋を描き揺らいでいたが数秒も経つと平面になり、暗さも手伝ってか鏡としての役割を果たしてくれた。
そこには俺が映っていた。
髪は変わらない白色
だが、瞳は元の黒とは違って藍色に変わっており、唇は小さく、綺麗な桜色。肌は病的な程までに白い。
その美しい風貌は自分と理解しつつも目を逸らしてしまう程に可憐だった。
「えっ……?ええええええええぇぇぇぇぇぇぇ!!」
部屋中に明らかに女性の悲鳴と変わらない声が鳴り響いた。
「ど……どうしたんだい?」
「いや、わ、わた、私……なんでこんな姿に……。」
「……?」
明らかに老人は不審がっているが、そんなことを気にするどころ、気がつく余裕すら今の俺にはない。
目が覚めたら、女の子になっちゃってました。なんて、古本屋の本棚で手垢が付いてそうな昔の漫画みたいな展開だ。
一体どうなっているんだ。
そして、俺の口調も明らかにおかしい。
喋ってみて分かったが全体的に俺の口調は完全に女性のそれと同じだ。
俺は一度もそんな言葉遣いをしたことはない。
自分が知っていないはずの言語。
自分じゃない見た目と性別。
俺の頭は既に爆発寸前だった。
「あぁぁぁぁぁ!!」
頭を抱える。
顔を俯かせて唸る。
一体どうなっているんだぁぁあ!!
(魂をやり直せたら……)
あのおかしな夢の台詞がふと頭の中で反響した。
まさか……。
俺の魂だけ別の人物の中に流れ込んだ?
非現実的な考え。
だが、そうでも考えないとこの現象に納得がつかない。
それともこれは夢なのだろうか?
やはり俺は凍死寸前でおかしな夢でも見ているのだろうか?
分からない。
無言の部屋。
ただ単に暖炉の中で木が燃える際に鳴るパチパチとした音だけが響いている。
老人は無言で俺を不審そうな目で見つめている。
対して俺は頭を抱え、俯きながら悩んでいる。
永遠にも思える静寂。
その静寂を破ったのは俺でも老人でもなかった。
俺の腹から鳴った、お腹の虫だった。
グッグーーーー。
再びの静寂。
だが、その静寂は長く持たなかった。
「フフフ……ハハハハハ!!」
老人の笑い声と。
「ッ……!!!!」
茹でダコ以上に真っ赤になった俺の唸り声。
これ程までに羞恥を感じたのは生まれて初めてかもしれない。
老人は笑いながらテーブルの方へ行くとさっき置いたカップを手に取り、再び戻ってくる。
「ほら、お腹が空いてるんだろ?飲みなさい。」
「………」
老人は目の前へカップを近づけてくる。
俺は恥ずかしさのあまり何も言えなかったため、お礼も言えずにカップを受け取る。
受け取ったカップからは香ばしい食欲を唆る匂いが立ち込めた液体が入っていた。
多分スープかなにかだろう。
ゆっくりとその液体を飲む。
毒か何かな訳が無い。
そんなものを盛るぐらいなら俺が眠っていた間になんかしていただろう。
温かい液体が口の中に入って、冷えきっていた口内をほんのりと暖めてくれる。
コーンスープに似た仄かな甘みと旨みが口の中一杯に広がり、飲み干す。
すると、口内だけでなく冷えきっていた内蔵も温まった気がする。
(美味しい……)
夢中でスープを飲み続ける。老人は慈愛に満ちた顔で俺を眺め続けている。
そんな老人の目を気にしつつスープを飲み続ける。
さっきとは違う和やかな静寂。
その静寂は俺がスープを飲み干し、「けぷっ」と小さな溜息をつくまで続いた。
「ありがとうございました……お陰で生き返りました……。」
「それは良かった。」
老人は微笑みながら喋る。
その笑みや声に悪意は感じない。
どうやら運良く助かったみたいだ。
「それにしてもこんな人里離れた場所でどうしてお嬢さんみたいな子が居たんだい?」
「それは……」
言葉に詰まる。
状況説明と言ってもそれは非現実的なものだ。
骨だけの幽霊みたいな奴に胸を貫かれたかと思ったら、目が覚めたら森にいました!!なんて信じてもらえるはずがないし、老人に警戒されるかもしれない。
ここは少しベター過ぎるが記憶喪失展開がいいかもしれない。
老人を騙すことには少々気が引けるが仕方ない。
「何も……覚えてないんです……。」
「そうかい……」
老人は思ったより案外素直に納得してくれた。
俺だったら多少は疑っただろうが、この老人は余程、人がいいのだろう。
少々罪悪感を感じたが致し方ない。
「知ってる街や人の名前は無いかい?なんなら探して連れて行ってあげるけど?」
「……〇〇県〇〇市は知ってますか?」
自分がいた元の街の名前を言ってみた。
だが、老人は首を傾げて
「少なくてもこの近くにそんな地名の街はない。そもそもそんな街名はこの国にはつかない。」
「国?」
「あぁ、この森はアバヴィル王国の領地だ。それも知らないのかい?」
「知り……ません」
アバヴィル王国……?そんな国なんか世界史の勉強で見たことも聞いたこともない。
もちろん地理の授業でも……。
まさか……。
再び嫌な考えが思いつく。
小説でしか見たことがない設定。
まさか……ここは……この国は。
否、この世界は。
俺の中で突拍子もない考えが浮かび上がる。実に馬鹿らしい考え。だが、この自体を説明出来るのはこれしかない。
俺が今いるのは……異世界?
もしそうだとしたら俺はこの先どうやって生きていけばいいのだろうか?
絶望の中、真っ先に考えついたのは諦めたはずの生の執着だった。




