花散らし雨
繊細で細い絹糸を極彩色に染め上げたような歌声が、和紗の耳に届いた。
長閑な春の昼下がりのことだった。
音を手繰り寄せるように耳を澄ませれば、その声は隣家から聴こえてくるものだと知れた。和紗の平凡な家と違い、右隣には、鯉屋敷と呼ばれる壮麗な和風建築があった。
長らく住まう人のなかったそこに、最近、新たな住人が出来たらしいと聴いていた。
歌声は、和紗を誘うセイレーンのように、彼の歩を進ませた。
和紗の家の庭の石垣は、一部破損し、鯉屋敷と行き来出来るようになっている。
和紗はまだ成長途中の身であることを利用して、その秘密の抜け穴を潜り抜けた。
極彩色の歌声は、まだ続いている。
縒られる糸の艶までもが見えるようだ。
まるで少女めいた例えを思い浮かべる自分を、和紗は笑った。
黒い猫が横切る。
鼓動が大きく跳ね、和紗は思わず胸を押さえた。
何かが和紗の脳裏を過ったが、それはすぐに消えた。
歌に紛れて水音も聴こえることに気付く。
鯉屋敷の庭の、大きな池の縁に、その少女は立っていた。
歌いながら鯉に餌をやっている。
さては先程の猫はこの鯉を獲物として狙っていたのか、と和紗は推測した。
桜の花びらが、ゆったりと舞い落ちている。
池には花筏が出来ていた。
青いワンピースの少女が、和紗を見た。
右目と左目の色が違う。
右は淡い蒼で、左は金色。
オッドアイだ、と和紗は息を呑んだ。
それはまるで、未知の美しい生き物と出逢ったかのような感動だった。
「だあれ?」
極彩色の声が誰何する。
和紗は歌が中断されたことを惜しみ、また、そうさせた自分を呪った。
*
和紗が名乗ると、少女も名乗った。
彼女は綺羅という名前だった。
色素が薄いさらさらの髪に、透き通るような色白の肌の綺羅は、名前に相応しい姿と声をしている、と和紗は思った。
混血なのだろうか。神秘的なオッドアイがそう思わせる。
和紗と同じ中学に、この春から通うのだと言う。
春休みである時期を見計らって、引っ越してきたのだそうだ。
和紗は綺羅と同じ中学で嬉しいような、誰にも綺羅の存在を隠しておきたいような、複雑な気分だった。綺羅のような少女に、同じ年頃の少年が興味を示さない筈はなく、和紗は隣家の住人であること、同級生たちに先んじて綺羅と知り合ったことを利用して、彼女の特別になろうと画策した。
そんな和紗の思いなど、露ほども知らない様子で、綺羅は全く無邪気に和紗との会話を続けた。
「鯉はね、怖いのよ」
「どうして?」
「大きくて、力の強い鯉は、鳩だって水中に引き摺り込んで食べちゃうの」
「聴いたことないよ、そんな話」
「以前に、本で読んだの。だからきっと、本当よ」
あんなに綺麗なのにね、と言って、綺羅はまた、鯉に餌を撒いた。
赤や白の斑、金や黒の鯉が我先にと集まり、口をぱくぱく開け閉めして餌を喰らう。
その迫力を見ていると、和紗にも鯉がどこか空恐ろしく思えてきて、綺羅の話は事実かもしれないと思った。
池の水面は青ではなく緑がかっていて、宝石に例えるなら翡翠のようだった。
翡翠の中に、鯉が悠然と泳いでいる。
桜の花びらがひらひらと舞う。
和紗は鯉屋敷に毎日のように通った。
石垣を潜り抜けて隣家の庭に出ると、大抵、綺羅がいた。また、綺羅の歌声が和紗に、その存在を知らせるので、和紗は耳を澄ませて、声が聴こえるや否や鯉屋敷に飛んで行くのだった。
和紗は読書好きで、綺羅との話の種には事欠かなかった。
綺羅はいつも興味深そうに、双眸を少し瞠り、和紗の話に聴き入る。
そして、綺羅は綺羅で、彼女ならではの話を和紗に語って聴かせるのだった。
和紗は満ち足りた思いで綺羅と接していた。甘い砂糖菓子のような感情が和紗の胸の底から湧いた。湧水のようにそれは真ん丸の泡を伴い、和紗の日々を彩った。ずっとこんな日々が続けば良いのにと和紗は思った。
*
やがて始まった学校を、和紗は無情なものと恨めしく思った。
危惧していた通り、綺羅は学校の男子たちの注目を浴び、少なからず好意を寄せられた。
綺羅は檻に閉じ込められたように怯え戸惑い、事あるごとに和紗の背中に逃げ込んだ。男子たちは和紗を妬み、そして女子は女子で、綺羅のそうした態度を不愉快に捉えているようだった。
和紗は相応に満足していた。
綺羅が自分にだけ、心を開くことにも、自分だけを、頼ってくれることにも。
だからある日、綺羅が男子と談笑していたところを偶然、見掛けた時には衝撃を受けた。
綺羅のオッドアイが楽しそうに輝いている。右目の蒼も左目の金も光に煌めき、彼女が心底、楽しんでいることが見るだけで伝わってくる。
和紗は踵を返して駆けた。教師の注意も耳に入らない。
訳もなく裏切られた気がした。
極彩色の歌声も、鯉の逸話も、綺羅の全ては、自分のものだと錯覚していた。
彼女が外界に心開くことを苦しいと感じた。
そしてそれは自分の身勝手なのだと、和紗は気付いてしまった。
和紗は鯉屋敷に通うことを止めた。
学校でも綺羅を避けた。
ぶくぶくと、泡の立つ池の底に沈む心持ちで、日々を過ごす。
綺羅の物言いたげなオッドアイも見ない振りをした。
悲しそうに、悄然とした様子を見て、胸が痛み、そして、少しの愉悦を感じる。
危ない感情を持て余していると、和紗は自覚した。
晩春の雨の日。
鯉屋敷ほどではないが木造の、和紗の家は、雨を吸い、吐き、呼吸しているようだった。
その独特の匂いが、和紗は好きだった。桜は完全に散ってしまうなと思う。
庭に出て、鯉屋敷と繋がる穴を、見るともなしに見ていた。傘は差していない。何となく水が恋しかった。本当に恋しいのは、水ではないけれど。
するとまるで和紗の声が聴こえたかのように、綺羅がそこから出てきた。
和紗を見ると、儚く微笑む。
「やっと、逢えた」
「どうして」
「学校でも庭でも、逢ってくれなかったから」
「濡れるよ」
実際、綺羅の金茶色の髪には雨粒が光っていた。甘い雨ではあったが、全く濡れない訳には行かない。綺羅はオッドアイを悪戯っぽく輝かせて、和紗の手を引き、鯉屋敷の庭へと導いた。
セイレーンという言葉を、和紗は久し振りに思い出した。
そして、遠い昔、金茶色の毛並の猫を飼っていたことを。
なぜ忘れていたのだろう。
オッドアイだった。
右目が蒼、左目が金。
あの猫はどこに行ったのだったか。ある日、不意に姿を消した。
記憶が螺旋を描く。
ぐるぐると惑乱される。
「本当は、ずっと貴方を待ってたの」
「僕を? どうして」
「待っていたの」
綺羅は理由を言わず、ただ深い瞳でそう繰り返した。
雨の紗が二人を包む。
和紗も綺羅もしっとりと柔らかに濡れていた。
池の水面にはいくつもの円が生まれては消えて、また生まれていた。
鯉は今、静かに水中を泳いでいる。鳩を喰らうほど凶暴だとはとても見えない。
翼持つ者を引き摺り込むとは。
綺羅がセイレーンなら、舟人を引き摺り込む、鯉の仲間だ。
けれど今、綺羅を沈め喰らおうとしているのは和紗だった。
綺羅の着ているブラウスは、雨に濡れて透けている。白いブラウスの奥に、更に白い素肌が見える。
甘い雨音が絶え間なく響く。
桜の木陰に二人は身を寄せた。
重ねられた唇が深くなる。
どちらがセイレーンでどちらが鯉なのか、もう解らない。
透明の水のその向こうに二人は揺蕩う。