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ライオンのたてがみ

お読みください。

 ブロンズのライオンに心を奪われていたのは本当に僅かな時間だった。しかしその濃密さは2週間が経過した現在でも喉の奥につっかえて、規則的な心臓の鼓動を邪魔している。季節は晩夏、8月末だ。僕はそのライオンに骨を折られてしまい、病院のベッドの上にいることを強制されている。看護婦が運んでくる健康的すぎる食事はついさっき平らげてしまった。僕は食後の気だるさの中で、全治1ヶ月と言われた左の手足がギプスの中でかなり蒸れているだろうなといった類の、頭頂部を内側から拡げてくるような憂鬱の存在を知っていた。そして哀愁漂うツクツクボウシの声がそれを和らげて、頭蓋の内部で均衡が取れていくのを感じていた。


 僕を襲ったライオンの銅像は実家の最寄駅のロータリーにあって、今から25年前の1991年に完成したそうだ。僕より3年先輩だ。彼の高さは1.5mほどで、頭部には雄々しいたてがみをたたえていた。体を起こし筋肉質の両前脚をしっかり台座につけて、顎を上げて斜め上に目線を向けていた。駅前に鎮座していたので、実際は排気ガスの色がこびり付いてその輝きは鈍いものになっていたはずだ。僕は少し和らげられた憂鬱を、瞼の裏にこびりついて眼球の先端を凹ませるようにしても沈み消えないライオンに託してみようと思った。僕は目を閉じて駅前のライオンのことを脳裏に浮かべた。


 僕は大学の夏休みを利用して久しぶりに実家を訪ね、その時は帰り道の途中だった。両親が宿泊を勧めたが、それを振り切り終電で所沢のアパートに帰ろうと駅に向かう。駅前ロータリーでそのライオンが僕の視界に入った時、鳥肌が背筋を伝うのと同じくらいの速度でうねりともざわめきともつかない何かが心中に去来した。在りし高校時代のことを思い出したのか、 郷愁にかられてこのまま留まっていたくなったのか。その日の僕は時間も確認せずに足を止めた。そのライオンを横目で眺め続けた。僕はやがて我慢が出来なくなったかのようにライオンへ正対し、彼のことを凝視した。


  彼は空へと顔を向けて、物欲しげに口を半開きにしていた。彼の両目は左右対象に見開かれ、立派なたてがみは当たり前だが風に靡くことはなかった。2mほど後ろにある白色街灯の無機質な光を浴びて、彼のブロンズの皮膚はコンクリートのような反射光を闇の中へ不規則に映し出していた。その光は怪しげでも悲しげでもあって——私はその光景を見ている時、彼と同じように口が半開きになっていたと思う——その時のうねりともざわめきともつかない何かを加速させるにはもってこいの空気感が、まるで僕を待ち受けていたかのように熟成されていたように思える。


 僕はその加速感のままにロータリーを横切って、中心にあるリュウノヒゲが植えられたライオンの縄張りまで小走りで向かった。僕はその時何らかの焦燥を感じていた。大学生活はそれなりに楽しくやっているし無事卒業も出来そうだから、実生活とは関係があるようには思われなかった。月並みに言えばライオンの場所に僕の求めていたものがあると感じた。彼を中心として風景が収束しているように見えた。


 ライオンは僕の目の前で、5年前の晩夏——その時僕は高校2年生で17歳だった——に巻き戻されていた。少なくとも僕はそう感じたのだ。排気ガスと夕陽を浴びながら寂しげに佇んでいる彼の姿が僕の視界を歪める。現実の姿にそれを重ねて、僕は思い出の残滓を掴もうと幻想に意識を集中させた。夜の黒色と夕暮れの茜色が混ざり合い不気味な色となる。その不気味さを振り払おうと目尻を後頭部側に引いて眉をひそめた。


  この時の僕の心中を語るには、僕がこの駅を年中利用していた時のことを説明しなければならないだろう。僕はこの駅のことを本当によく知っている。改札入って右にある自動販売機のラインアップの変遷から鳥の糞が沢山落ちている場所まで知っている。四年前までは毎日このロータリーを歩いて時折コンクリートのヒビに躓いたり、帰宅を嫌がり改札を出て左に徒歩30秒の所にあるマクドナルドに入って友人とくだらない話——もっとも当時は大変有意義に感じていたし興味深く思えた話も多かった——を繰り広げたりしていた。


  このマクドナルドて一緒に話をしていた友人——彼女とでもしておこう——はポール・オースターを愛読し、いつでも多面的に物事を捉えようと努力する人間だった。彼女が自ら定義したのはその二点だった。私見だが、それでも彼女には享楽的で奔放な一面があり、証拠と言ってはなんだが僕が初めてセックスをしたもの彼女だった。確か高2の夏休み——ライオンが巻き戻った先と同じ頃だ——のことだったと思うが、僕は彼女とセックスした。その時の経緯はよく覚えていない。彼女に聞いたとしてもその日は12日連続の熱帯夜になりそうだったからとか、その日は僕たちの住んでいる街で交通事故死亡者が2人も出てしまったからとか答えるに違いない。彼女は手慣れた様子で僕のことをリードしてくれた。あまりにも慣れていたので、僕はなんでそんなに沢山セックスをしているのかと質問した。彼女は今しか出来ない稼ぎ方をしてるだけだよと言って寂しそうにベッドに寝転がった。いつもは少し勿体ぶったような話し方をする彼女だったが、その時は早く会話を終わらせたがっているように見えた。


 彼女が何故数多の男に抱かれていたのかは想像することしかできない。彼女は傍から見れば平凡な家庭に育っているようだったし、学校で人間関係がギクシャクしているということもなかった。また彼女は広漠な都市の中に生きる現代人が空虚感を埋めるために人肌を欲するなんていう、ありがちで退廃的な小説の主人公のようでもなかった。もっとも、彼女も十代最後の煌めきに作為的な演出で陰を刺そうとしていた可能性も否定できない。彼女がよく言っていたことがある。私の頭の中に思考する自分と観察する自分がいて、後者の方が堪らなく嫌いなんだと。


 僕と彼女が知り合ったきっかけは非常につまらなくて語る価値もないかもしれない。僕が入学して2週間ほど経って部活——僕は高校時代、吹奏楽にかなりのエネルギーを割いていた——の見学に行くと、彼女も吹奏楽部への入部を希望していた。それだけだった。僕たちが同じβ組だったのも偶然だし、僕の頭文字が「さ」で彼女の頭文字が「し」だという理由からクラスで席が前後だったのも偶然だ。更に最寄駅まで同じだったのだから今思えば凄まじい。これも彼女に言わせたら何と言うのだろうか。芝居掛かった態度で宇宙を超越した深層の摂理を感じると言うかもしれないし、溜息をつきながら不運は続くものだよと言うのかもしれない。もしかしたらお座なりな返事だけを僕に投げ返して、無関心を貫くかもしれない。


 僕達の所属していた吹奏楽部は強豪という訳ではなかったが僕達は毎日基礎練習を欠かさなかったし、合奏で顧問に怒られている時は涙が出そうにもなった。彼女は最前列の、客席側から見て一番左の位置でオーボエを演奏していた。ちなみに僕は3列目の一番右でチューバ奏者としての役割をこなしていた。彼女の演奏は上手だったが、彼女は目立つほどの美人ではなかった。少し頬のこけた顔にいつも質素なメイクを施し、セミロングの黒髪を一つにまとめて後ろに下げていた。しかし僕は彼女の演奏している姿が好きだった。彼女の口元の右端には直径2mmくらいのホクロがあり、オーボエのリードを咥えるとそのホクロが左上に引き延ばされるのだ。そして集中により細められた目で五線譜と指揮者とを眺める。その様子は非常に調和が取れていたし、同時にミステリアスな印象を与えた。僕はそんな事を他人に話したことはないし、彼女の美しさが話題になったことはなかったので、そんな風に感じていたのは僕だけだったのだろう。


 僕と彼女は同じ部活に所属して同じ最寄駅を利用していたから、帰り道を共にすることが多かった。学校を出る時は別々であっても結局合流してしまうこともままあった。当時の僕に彼女への恋愛感情があったかということははっきりとしない。いや、確かに僕は彼女とセックスした1週間後くらいに告白した。しかし、それは僕のうぶさから出る衝動だったのだろう。案の定というべきか、彼女にはすげなく断られた。けれど彼女との仲が別段変わった訳ではなかったし、僕も失恋に打ち拉がれることはなかった。僕に彼女への渇望がないことを、彼女は肌で感じていただろう。もっとも彼女はよく身体を売っていたようだったし、もし仮に僕が本気で告白していたらニ度と口を利くことなどなかったかもしれないと思う。彼女の嫌いな観察する方の自己は、僕の滑稽な告白をどんな風に思考する自己に伝えたのだろうか。一緒にマクドナルドでハンバーガーを食べていたのはそんな友人だった。


 ライオンのことを眺めていた時、僕は確かにその友人のことを思い出していた。もっともあの時は思考と感覚が幻想と現実の間で酷く混濁していたから、僕の五感に触れたものには現実ではないものが多く混じっている。ライオンの背景は、夜の闇より5年前の夕焼けの方がだいぶ優勢になってきていた。日暮れ時特有の埃っぽさは、白黒映画のフィルムの破損や磨り減ったレコードのノイズと同じようなものだと思った。ロータリーを挟んで駅の反対側にある、10m間隔で植えられた2本の電柱にハシボソカラスが一羽ずつ止まっている。ライオンは駅の方を向いているので、彼の視界の右端で僕と彼女が会話を繰り広げている。不思議なことに幻想の中で、僕は自分のことを第三者的に眺めていた。僕はチーズバーガーを右手に持って右を向いている。右に座る彼女は正面を向きながらテーブルに肘をついて重大なことを話しているような表情をしていた。


 当時、彼女はわざと真剣な語り口で他愛ないことを話したので、その度に僕はハンバーガーや炭酸飲料を吹き出しそうになっていた。そんな事が思い出されて、僕は彼女との会話を聞き取ろうとマクドナルドの店内に意識を集中させた。正確に言えば、妄想を詳細に描こうとした。店内はちょうど席が全て埋まるくらいには混み合っていて、床の乳白色タイルの隙間には少しだけ色素が沈着していた。人間の頭くらいの高さから天井までに油と牛肉の匂いが充満していて、入店した瞬間に立ちくらみを起こしてしまいそうだった。照明は眩し過ぎるほどで、目を凝らせば空気中の埃を捉えることが出来るかもしれない。僕と彼女は外に面する長テーブルの丁度真ん中くらいに席を取っていた。


 彼女は部活の今後について僕に話していた。コンクールが銀賞に終わってしまったので、自分たちが部活の運営に当たる次の年は必ず金賞を取りたいと言った。僕はその言葉に力強く頷いた。今の練習態度では時間が非効率的に使われているから、意志を持って一音一音を吹く練習をすべきだと僕は返した。どうしたら良いかと彼女が問いかけた。僕はそこで答えに詰まって言葉の空白を埋めるように唸ってその日注文したチーズバーガーを一度トレイの上に置いた。その包み紙の皺がチーズバーガーを動かすたびに増えて、薄い紙の擦れるカサカサという音が生み出される度に店内のBGMに呑み込まれた。


 彼女は黙って僕のことを見続けていた。僕は両手で頭を抱えると、彼女に向かって弱り果てたように何かを伝えた。それはきっと現状の練習態度や部員の技量を憂う言葉だったのだろう。ここはよく聞き取れなかった。というよりも無意識化で聞き取らなかったのかもしれない。幻想の中の僕の目尻は下がり、唇は左右に狭められていた。彼女は僕の弱気な態度を見てテーブルを平手で叩いた。僕を挟んで彼女の反対側にあったパン屑がぎこちなく跳ねた。僕はまだごねているようだった。その言葉も僕にはよく聞えなかった。


 彼女は僕達の学年が後輩の練習内容を全て把握することが必要だと言った。現実の僕はその言葉を聞いて、これは実際にこの場所で僕と彼女が繰り広げた会話だという確信を深めた。実際彼女のこの案は9月に僕達が部長の学年になると同時に実行に移された。彼女はコンサートマスターを務めたので、僕は彼女の指揮で何度も他人と呼吸を合わせた。しかし、幻想の僕はそれに賛同しながらも不安そうであった。僕がそんなことするなんて烏滸がましくないかな?今度の言葉は対照的にはっきりと聞こえた。というよりもこの言葉は意識下で記憶に残っている。その後彼女は僕の肩を揺さぶり、僕のことを叱咤したのだ。そして僕の幻想の中でもその通りになった。その時の彼女の表情は当時の僕の網膜に焼き付いていたので、現在の第三者的な視点と組み合わさって立体的に見えた。そして彼女の声は僕の記憶にあるものより幾分か穏やかだった。そのずれのせいで、彼女の声はハウリングしているように聞こえた。


 僕は顔を上げると彼女に謝った。我ながら情けないものだと思う。僕は高2の秋に一つ上の先輩が引退してから精一杯後輩を指導したが、彼女のように皆の前に立って指揮を振ったり指示を出したりすることは絶対に出来ない。彼女は僕の謝罪を聞くと謝ることはないと手をヒラヒラと振った。彼女は正面斜め右側のライオンに目を向けた。ブロンズのライオンは駅の南口にいたので、僕達の視界では右側が夕焼けによって赤く染められていた。数えたわけでわないが、あの時は車通りが10秒に一台ほどだった。車の陰から出てくる時のライオンの表情は不機嫌そうに見えた。


 彼女がライオンの方を向いて放った言葉を聞こうとすると、突然イアホンが断線したような雑音が僕の鼓膜を衝いた。その言葉が大きな空白となって僕の脳内に立ち現れた。もう一度、聞こうと試みても同じだった。むしろ長く集中しようとすれば彼女の声はホワイトノイズになってしまう。ホワイトノイズとなった彼女の声は段々とフェードアウトし、言葉の終わりでは彼女が口パクをしているように感じられた。僕は彼女が何か重大なことを僕に伝えていたような気がして、何度も懸命に耳をそばだてた。しかし幻想のワンシーンを深く追求しすぎて深みに嵌っていった。泥沼のように足元が不安定になった。立ちくらみだ。呼吸が荒くなり動悸が激しくなった。僕のすぐ左側で、ライオンがムンクの有名な絵のように左右に歪んで見えた。僕も耳を塞ぎたくなった。心身ともに健康な筈なのに。


 カラスの鳴き声が煩かった。僕は両耳に手を当てた。三半規管の外界との接触が断たれたせいで、バランス感覚が更に狂わされたような気がした。酷く頭が痛んだ。かといって耳を塞がなければ、数羽のカラスの鳴き声が唸りとなって、接続の悪いギターアンプのような音が僕の頭を振動させる。目頭が焼けるように熱くなり、僕はぎゅっと力を入れて視界を完全に封じた。嫌な汗が滲み出たきた。立っているのが辛抱ならなくなって中腰になり、やがて腰を落としてしゃがみ込んだ。腹が痛んでくるような気もしていた。訳の分からないストレスが僕の体を苛めているようだった。


 僕は過去の僕達から意識を遠ざけなければいけないと思い、現在のライオンのことを意識下に置こうとした。彼は電灯の光しか浴びていないからブロンズの光沢をそのまま見せている筈だった。しかし目を開けて見ると、彼は体のシルエットから赤色の太陽光を漏らしていた。幻想が振り払えない。僕は揺らいだ感覚の中で必死にライオンに手を伸ばした。彼の背中を触るとひんやりとした金属の温度が掌に溶けていった。それは僕の神経を落ち着かせるには幾分か効果的だった。それは丁度今外から聞こえているツクツクボウシの鳴き声と同じ作用をもたらした。


 僕は茜色を追い払い夜の黒色の比率を増やそうとした。先程とは真逆の作業だ。ライオンの温度が体を伝わり、段々頭が冷えていく。背景の赤と黒が気味の悪いマーブル状になった。僕は美少年が貴婦人からアイスクリームを騙し取っている光景が目に浮かび少し救われた気分だった。現実に意識を引き戻す。ライオンの体温はそれを手助けしてくれた。しかしそれは現実から幻想に移行する時よりずっと苦戦を強いられていた。嫌悪感を催すマーブルは随分と長い間僕の視界を埋めていた。それは意志が体を動かそうとしても四肢が動かない時の気分に似ていた。意識が上半身に宿り無意識が下半身宿っているようで、腰の辺りで体がネジ切れるような、先程とは違った不快感に身をよじった。


 そして、僕はライオンのたてがみを掴んだ。たてがみの凹凸が掌の肉に食い込んだ。体のより深い位置に金属が存在するため、温度と質感をより鮮明に感じる。波打つたてがみの節の部分に溜まった砂埃が手に付着して、人差し指横腹にせり上がっているのが見えた。ああ、これが現実なんだ。僕はその時、久し振りに複数の感覚器官で単一の物体を捉えていた。ライオンの背中よりたてがみの方が熱伝導率が高いのだろうと思った。僕を苦しめていた赤色の背景はライオンの輪郭に吸い込まれるように消えて、辺りは再び何でもない夜の駅前の風景になった。


 電柱の上にカラスはいなかったし、マクドナルドを確認してもこちらに目を向けていた彼女の姿はなかった。車通りも全くといっていいほど無い。ライオンの近くの電灯の下には、光に誘われた派手な模様に地味な配色をされた蛾たちが群がっていた。それらは電球を覆うガラスに羽をぶつけて、線香花火のように儚げな音を立てていた。夏の深夜の光景。僕は戻ってきた。そう考えると、虚脱感が僕の方にもたれかかった。僕はあえて肩をいからせ、息を吸い込み難い状態にしてから肺を膨らませた。意識的なアンバランスさを味わったことで心身が再び自分の制御下に置かれたのだと認識した。心拍が正常に戻り呼吸が落ち着いてきた。僕は今の苦痛を振り返った。


 ライオンを最初見た時に感じたうねりともざわめきともつかない何かは、苦痛によって燃焼したかのように思われた。しかし、ライオンのたてがみを掴んでいる両手が、それは未だに炭火のように静かに横たわっていると主張した。体感温度の急激な変化によって巨大な空中ブランコで振り回されるような浮遊感が込み上げてきた。平衡感覚が取り戻されたことで、突如自分の傍にあった巨大な物体が縮小し差分の空間に吸い込まれそうになっているかのような不安感が湧き起こってきた。何より彼女が何といっていたのかはまだ全くわかっていない。


 そう、彼女が何を言っていたのかは分かっていなかった。あんなに懸命に聞こうとしていたにも関わらず、何も聞こえなかったからだ。僕はふと気がついた。マーブルが消えなかったのは、僕の心の奥底に彼女の発言への執着があったのではないか?そう考えると合点がいった。本能に従った意識とそれに抗った無意識という捩れの構造が僕をあんなに苦しめたのだ。ならば早く彼女の発言を思い出して、安心させてやればいい。うねりともざわめきともつかない何かも霧散してくれるかもしれない。そう考えてライオンに身を凭れさせた。首筋に右頬をつけると、大層心地が良かった。夏の蒸し暑い夜に抗っているかのようだった。僕は彼と目を合わせれば彼女の言葉が聞けるのではないかと思った。なぜならあの時、彼女はずっとライオン方向を向いていたから。彼は彼女の言葉を記憶しているのではないか?


 僕は半袖で額の汗を拭うと、彼の正面に回り込んだ。彼の目線は上に向けられているので、あの時彼女は視界に入っていなかったのではないかという不安はあったが、僕はライオンの顔を見下ろした。半開きになった口から覗くのは鋭く細かい肉食獣の牙。犬歯が獰猛な印象を与えている。鼻の穴は横に大きく開かれ、手を伸ばしたくなるようなサイズ感だった。こんなに鋭い嗅覚があったら僕は鼻が焼き切れてしまうと思った。凹凸の多い額の下にある彼の目は、黒目に当たる部分が少し凹んでいたので、僕は出っ張っていたなら彼女のことも見えていたかもしれないと落胆した。


 彼のたてがみは重厚な舞台幕のように見えたし、荒波のようにも見えた。あるいは人によってはオーロラを彫刻にしたようだと言うかもしれない。それはサバンナの王として君臨するライオンとは似ていなかったけれど、どちらかと言えば海千山千の大物のような、また違った貫禄を感じさせた。苦痛から抜け出す手助けをしてくれたたてがみ。今度は彼女が何といったのかを教えてくれることを期待した。僕は30秒くらいライオンのたてがみを見つめていた。やがて心中の疼きに耐えきれなくなって、彼の周りを一周して戻ってきた。同じことを何回も繰り返した。彼から始まったえも知れぬ感覚は、彼に解決してもらうのが筋だろうと半ばムキになり始めた。


 何度繰り返してもそれが一向に解決することはなかった。それどころか彼の周りを周回する間隔は、反復するごとに狭まっていった。やがて僕は止まらずに彼の周りを歩き回るようになったが、目を回したくなかったのでやむなく彼の正面で立ち止まった。ロータリーの歩道から彼を見た時よりもブロンズの輝きが鈍くなっているように思えた。僕は両手で彼の頬に当たる部分を掴むと、顔全体とたてがみを撫で回して砂埃を除去した。両掌が真っ黒になって、それらを擦り合わせることに快感を覚えた。彼は僕が最初に見た時の輝きを取り戻していた。僕は嬉しくなって笑い声を漏らした。その時、僕に足りなかったのはきっかけのみであった。


 嬉しくなった僕はロータリーに飛び出した。僕の体は突然強力な白色光に照らされた。左から急ブレーキをかける音が聞こえた。左に顔を向けると、第2世代のプリウスが僕に迫っていた。タイヤが巻き上げる土埃が非常にゆっくり舞っていた。まるで見えない手が巨大な流れを押さえつけているように空間全体の時間の進みが遅くなっていた。ヘッドライトに照らされた塵がキラキラと輝いた。それを綺麗だと思った次の瞬間、車が僕に接触した。左肘と手首の間の骨が折れていくのを感じた。そして次に左足の感覚が脳に届いた。骨折はこの時が生まれて初めてだったから、骨が間違った方向に曲がる痛みは僕の想像を絶した。しかし、それがきっかけになった。


 僕が吹き飛んで倒れこむと、車のドアが開閉する音が聞こえた。しかしそんなことはどうでもよかった。誰が僕を轢いたのだとしても完全に僕が悪いし、僕が悪くなかったとしてもその人はきっかけを与えてくれた。左手足の痛みで僕は彼女の教えてくれたことを思い出した。それは出発点と過程は違えど結果的にうねりともざわめきともつかない何かの正体に近づくものでもあった。僕は苦痛に顔を歪めながらも笑い声を上げた。車の運転手が近づいてきて、僕の安否を確認した。彼の顔面は蒼白になっていて、僕が重体ではないことを確認するや否や鬼気迫る表情で119に電話をかけた。僕は申し訳なくなって運転手に謝罪した。しかしまた愉快になり、骨折しているにも関わらず再び笑ってしまった。運転手も最初は焦っていたが、僕の側から見れば怪しかったであろう態度を見て目を点にし、やがて僕のことを不気味に思ったのか車内に戻っていった。


 あまりの下らなさに自分でも呆れてしまっていた。こんなことに拘っていた自分が滑稽だった。うねりともざわめきともつかない何かは僕の前でやっと輪郭のある概念となった。それはまるで虚無感にも似ていて、倦怠感にも似ていて、強迫観念のような一面も持ち合わせていらように思えた。言い換えれば、ベッドに入ってから意識を失うまでの時間のようなものかもしれない。僕はライオンを見て間違いなく高校時代のことを連想させられていた。それがこの結果に繋がってしまったのだ。本物とは似ても似つかぬたてがみの造形をしているくせに、随分と残忍な本性を隠していたようだ。コンクリートは彼よりも格段に生温くて、僕に何も呼びかけてこなかった。ライオンは斜め上に顔を向けて口を半開きにしている。電灯に群がっていた蛾が真っ直ぐライオン頭の上に落ちてきた。力尽きて羽ばたけなくなったのだろう。それの為すべきことはもう消えてしまったのだ。


 やがて救急車のサイレンの音が聴こえてきた。いつも喧しいと思うその音も、その時の僕にとっては子守唄のようなものだった。電柱の上のハシボソガラスの方がよほど神経を逆撫でする音色だった。実際比べてみたらそんなはずはない。それも今思い返せば当たり前のように思えるが、その時の僕にとっては大発見だった。つまりはそういうことだ。カラスの鳴き声を頭蓋が揺れるほどの雑音に感じ、作為的に警戒感を抱かせるサイレンの音を子守唄だとみなしてしまう。ついに笑いが止まらなくなって、救急隊員の問い掛けに応答するのが大変だった。彼らは運転手と同じような表情を浮かべると、手際よく僕を救急車に運び込んだ。僕を支えていた手はコンクリートに似た生温さがあった。彼女はこれを求めて男に抱かれていたのかもしれないと思った。


 こうして運ばれた病院で僕は手術を受けて、現在入院中である。そろそろ夕暮れ時になって、文字通り黄昏た風景が四角い窓の外に見えた。ライオンを見た時の気持ちは僕の中にしっくり溶け込んで、手で掴むことさえも出来そうだ。ただ、彼女の言っていたことの無益さは如何ともし難い。ホワイトノイズがかかるほどの情報とはとても思えない。ただその無為が愛おしくて、それを思い出すたびに笑いが腹の底から湧き上がってくる。


 なぜなら、彼女が僕に教えてくれたのはライオンのたてがみの数え方だったのだから。僕はふと彼女にメールでもしようかと思った。



















お疲れ様です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 村上春樹を思わせる作品でした。 音楽・セックス・ハイフンの使い方。それらが春樹にとても似ています。 [一言] しかし他の方も言うように読みづらさを感じざるをえませんでした。どうも内容が流れ…
[一言] RT企画から来ました! ありがとうございました!
[一言] 端的に言えば難読な作品である。 物語は決して難解ではない。私小説的な純文学としてはむしろ簡潔であろう。 これが作者様の解釈であり作風である、と言われればそれまでだが、物語に対する描写の多さ…
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