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朽縄家の日常

朽縄家の木曜日

作者: 湯納


 ガチャリという音と共に扉が勢いよく開き、本来あるべき「おはよう」ではない少年の第一声が、静寂に包まれていたリビングに響き渡った。


「ねーちゃ! 漫画家になりたい!」


「……」


「ねーちゃ! 漫画描きたい!!」


「……うっさいわね、朝から大きな声出さないで」


 ソファに凭れたまま、女は読んでいた雑誌をテーブルに放ると不快感を隠す事なく少年の方へとしかめっ面を向けた。


「おはよう。なんだって急に漫画家なの」


「あ、おはよう!」


「大体、アンタの頭で何を描くってのよ。まともなストーリーが出来るわけないじゃない、考えただけでおぞましいわ」


「そこは、ねーちゃんが考える。俺は、描くだけ。」


「……アンタにしては考えたわね。それで、どんなものを描くの? あたしが考えていいの?」


 女は姿勢を起こすとコーヒーカップに手を伸ばした。

 一口飲み、テーブルに戻すと足を組んで体を少年へと向けた。先ほどよりかは、幾らか話を聞く気になっているのだろうか。


「美しいものが、描きたい」


「へえ、いいわね。じゃあ少女漫画とかどう? 別に私が望んでるってワケじゃなくて、ほら。美しいじゃない?」


「うん、いいよ」


「よし」


「話、考えて。俺が描く」


 

 3月8日。春休みという事で学校はなく、今日は二人とも予定がないので自由を約束された優雅な一日を思い思いに過ごす予定であった。

 午前10時。暇つぶしに一興。そんな軽い気持ちで弟の提案を受け入れた女は、ベッドの上でジタバタと一人もがいていた。


「~~~ッ!!」


 枕を胸に抱え、顔を埋めては手に持った漫画を読み進めている。

 表紙から察するに少女漫画の類であることは明白で、恋愛経験のない女は自身をヒロインに重ねては悶えているのである。


 隣の部屋では、少年が机に向かっている。

 開いた漫画のページの分け目部分を、勝手に閉じぬよう力強く上から押さえつけること数回。ノリの剥がれる音が響き、ページは開いたままの形でその姿を自然体の如く固定させた。背表紙の11巻とある印字の丁度中央には二度と消える事のない皺が刻み込まれ、机の隅には同様にボロボロになった数冊の漫画が積まれている。

 少年はマジックペンを手に、漫画のコマにある線すべてを一つ一つ慎重になぞり始める。

 キャラクターの髪、顔、服、吹きだしにセリフ、コマ枠に至るまで丁寧に丁寧に全てをなぞる。筆先1ミリの暴圧によって潰されていく線はもちろん原型を留めずに掻き消されていく。登場人物の顔は黒が大半を占め、セリフの文字ももはや読み取る事は叶わないほど。挙句に背景のトーンまでなぞっているのだから、黒に塗りつぶされたコマも少なくはない。


 悲しいかな、ストーリーとして読み進めるには到底不可能な域まで達しているこの漫画の所有者は姉であり、彼女は今同じシリーズの9巻までを読み進めている。あと1時間もしないうちにこの部屋は地獄の様相と化すのだがこの時、彼らは思い思いに「漫画を描くための最善の行動」を取っているだけである。

 

 

 戦争の果て、ショックのあまり一度気を失った女は今も思い出す度に意識を手放しそうになりなりながらも、コーヒーで嫌な記憶を流しつつリビングでプロットを考えていた。

 隣では少年が左頬を真っ赤に染め、お腹をさすりながら正座してその様子を見ている。テーブルにはビニールに包装されたままの新品の11巻とコンビニの高級志向のプリンが一つ置いてある。スプーンを貰い忘れた事はまだバレていない。


「こんなもんでしょ」


 午後3時。ようやくまとまった短編の恋愛ストーリーを書き終え、女は少年に突き出した。その表情から、よほど自信のある作品が仕上がったであろう事が伺えるが残酷な事に、少年はストーリーに関してはこれっぽちも関心がないため反省の色を浮かべたまま感想もなくしずしずと自室へと引っ込んでいった。

 


「できた。」


 午後4時。異常な速さで仕上がりを報告する少年に、女はこぶしを強く握る。すぐに振りかぶらない程度には自制心があるものの、もはや飛ばすとなれば躊躇はない。

 

「……」


 何発殴る事になるかなと思案する様子でネームにあたる構成の確認も兼ねた下書きに目を通した女は、途中で震え出すもなんとか目を閉じ気持ちを押さえ、最後まで読み切ると手に込めていた力を緩め、大きなため息を深呼吸のような長さと強さでもって吐き出した。


「ど、どう?」


 少年も自信はあるのだろう。誇りさえ感じているかもしれない。しかしながら、それが姉を満足させるに値するかどうかは分からない。姉の気を害するものであれば、また雷が落ちる事くらいは理解していた。

 おどおどした様子で、姉の次の言葉を待つ。


「アンタが思いのほか器用なのは知ってる。手を抜いたとも思わないし、早いのは良いことよ」


 柔らかい笑顔で語りかける女に、少年は顔を輝かせた

 のも束の間。


「なんでッ!! 登場人物が、みんなッ!! ムキムキなの!!!」


 雷轟を思わせる衝撃が少年の耳を破壊せんばかりに(つんざ)き、彼の脳を揺さぶった。


「どいつもこいつも! 事あるごとに脱いでポージングするなんておかしいでしょ!」


「感情は顔やセリフに表しなさい! 筋肉で表現させるな!!」


「嬉し泣きのポージングって何よ! 泣きなさいよ! バカじゃないの!!」


 雷鳴は鳴りやまない。流石の父親も何事かと台所から顔を覗かせている。


「なんでヒロインも先生もその辺の犬までもがボディビルダーばりにムキムキなのよ! 普通の少女漫画を描きなさいよ!」


 鼻から蒸気でも吹きだしそうな剣幕で怒り狂う女に、それでも少年は彼のプライドを守るため、一言だけ、捻り出すような小さな声で、苦言を呈した。


「美しいものを描きたかったから……」


「  」


 女は怒りと呆れで感情が昂り過ぎて気を失った。



「ま、まぁ……頑張れよ。他人に否定されたとしても、案外それを認めてくれる人もいるもんだ」


 父親は同情するような目で少年に声をかけると、台所へと姿を消す。

 倒れ掛かる姉を抱え慣れた様子でソファに寝かせると、少年は自室に戻り作業を再開した。



 後日、某漫画雑誌にて掲載された新人漫画賞の入賞作品の一つに、このようなコメントが書かれていた。

「驚くべき画力をもってして筋肉を使った表現で構成された少女漫画(?)という斬新さには目を見張るものがありました。いままでにない作風であり、一見ふざけているようでいて、ストーリーは王道で素晴らしい作品。ただ、ジャンルが不明であり何がしたいのかがよく分かりません。他誌であればもっと伸びる可能性を感じました。将来性のある作品という事で評価しました。」


 投稿した本人はといえば、描き切った事で満足したのか或いは飽きたのか。その後はぱったりと興味を失った様子で、入賞した事すら知らないでいる。当分は漫画を描くこともなさそうだ。残酷な事だ。


明瞭さに欠けるタイトル……でも変えるつもりないです

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