勉強よりも水泳、仕事よりも競泳
<勉強よりも水泳、仕事よりも競泳>
彩香「水元コーチ!翼君とご両親が、プールの退会届を出しに来ています!」
仕事中のスタッフルーム。そこで彩香が晴人に言ったその言葉に、店長や木島も仕事の手を止め、思わず目線を晴人に向けた。
彩香「いいんですか?あのまま辞めさせて・・・・・」
その言葉にも反応できず、悔しそうにうつむく晴人。
何を言っても納得させる自信がない。転勤が決まっている晴人にはもう本心ではない無気力さしか残っていなかった。悔しい現実・・・・・転勤をして競泳をできないのなら、いっその事仕事をやめてしまった方がいいのかもしれない。
そんな事を思い悩む時間を数秒おくと、頭をかきむしるように抱え込む。そして、頭を抱える手を振りのけると、立ち上がり叫んだ。
晴人「くそ!!!」
そして、全てを振り切るように大げさなほど激しいどたどた歩きで店長に歩み寄る。
晴人「店長!!!」
スタッフ全員の動きが驚き止まる。
晴人「店長・・・・自分はやはり、競泳しかできません!彼らの為に・・・今できる事をやり遂げたいです。」
そう言い残すと勢いよく走り、翼とその両親が退会の手続きをしているフロントに駆け出て行った。
晴人「待って下さい!!」
翼の父「ん・・・・?水元コーチ・・・・・まだ何か言いたい事があるのか!?」
晴人を見るなり、すぐに強気な発言をする翼の父。その姿に一瞬たじろぐ。それでも息を整え、落ちつき、必死に食らいつく。
晴人「夏のインターハイは翼君が水泳をやってきた最後の目標なんです!もう一度・・・もう一度考え直してくれませんか!!」
翼の父「何を言っているんだ・・・・もう翼は塾も通い、その目標も変わったんだ。いまさら水泳なんて・・・・・」
晴人「それはあなたが決め付けた事だ!翼の本心じゃない!!スポーツを最後までまっとうしてやり遂げられないような者に、いい大学行って仕事を成功させる事なんてできると思いません!!あなたの考えは間違っています!!今、水泳をやめさせたら・・・翼は中途半端な人間に育ってしまいます!!!」
合理的な意見でまとめようとする翼の父に対して、真っ向から挑むような晴人の言葉。それを聞いた翼の父は、それを馬鹿にする笑い方で晴人に言い放った。
翼の父「はっはっはっ!!よくそんなことが言えますね。あなたこそ、中途半端な人間じゃないですか。熱い指導者を気取っといて、彼ら選手に本気になっているふりをしておいて、実際は自分の出世の転勤が決まっているそうじゃないですか。」
晴人はその言葉に、身体をビクつかせると辛そうな無表情を作りうつむいた。
翼の父「結局、彼らを見捨てて自分の出世の為にいい職場を選ぶのだろ??そんな男にそんな事を言われたくないのだよ!!!」
ずっと押し黙っていた翼が、その言葉に反応するように不信ある目で晴人を見つめた。晴人は両手をこぶしに握り変え、身体を小刻みに震わせながら歯軋り混じりの声を溢す。
晴人「・・・・・・・転勤はしません。」
翼の父「何??転勤をしない??これだけの大手だ。そんな勝手な事は許されないんじゃないですかね?そんな事をしたら、会社にいれないんじゃないですか!!?」
晴人はその言葉にも動じず、意を決したようにまっすぐな目で叫んだ。
晴人「会社は辞めます!!!自分はアルバイトでも構わない!!!彼らの目標を叶えさせる為に・・・・・自分は最後までここで競泳コーチを続ける!!!だから・・・・・翼君に最後まで水泳をやらせてあげて下さい!」
晴人が見つけた大きな決断。残された道はそれしかなかった。
『競泳を続けてここに残る』無理にでもそれを続けるなら、それなりの代償を払わなければならない。社員ではないアルバイト・・・・・・・その最終手段を選んででも競泳を続けたいという、熱い気持ちのこもった晴人の叫びだった。
それを聞いた翼の父は、『やれやれ・・・』といった表情で目を瞑り、首を横に振るとため息をつきながら晴人をバカにするような目で見つめる。
翼の父「そんな言葉で私が納得するとでも思っていましたか?私も大手で役職も務めている社会人です。いい歳した男が、仕事も辞めてアルバイトで生計を立てる?・・・・・そんな人に、私の息子を預けられません!!!!」
きっぱりそう言うと、持っている退会届をフロントに叩きつけた。
店長「仕事は辞めさせません!!!」
突如現れた店長の言葉。そのまま晴人に近付くと晴人の肩に手を置き力強い眼差しを翼の父に向ける。
店長「彼はこの職場に、なくてはならない存在です。彼なくして、ここの選手コースは成り立たない!!!彼の転勤は、店長である私が責任を持ってお断りさせて頂く。何があっても、必ず会社の意見をくつがえします!!!」
あれだけ敵対心をむき出しにしていた店長。選手コースを潰そうとまでしていた店長。その店長がついにまっすぐに競泳を愛し続ける晴人の姿に、心が動かされたのだ。
知られていなかった店長の過去、彼もまた競泳の世界で生きて、熱く選手の指導をする1人だった。フィットネスクラブでの仕事・・・・自分の出世・・・・そんな世界に身を沈める中、いつしかその熱い気持ちを忘れかけていた。数々の困難を乗り越え、どんな事態になろうとも競泳を続けようとする晴人の姿を見て、その忘れかけていた心がまた呼び覚まされたのだ。
そんなまさかの言葉を言う店長を、驚きある嬉しい表情でじっと見つめる晴人。
晴人「店長・・・・・ありがとうございます・・・・」
何度となく言い争いをして、何度となく衝突をして、ずっとぶつかり続けていた店長が、やっと自分の気持ちを理解してくれた。そんな店長の姿を見る晴人の目には涙が溜まっていた。
それをみてもまったく動じず、笑い馬鹿にする態度をする翼の父。
翼の父「こんな大人向けの施設に、選手コースなんかいりますか?むしろ営業妨害だろ!!!」
店長「勝手な事を言うな!!!」
いつもなら晴人が叫び散らす場面だったが晴人が叫ぶ前に、店長が大声をあげていた。そしてまた静かに、翼の父へ訴えかける。
店長「選手コースには夢がある。確かに仕事として成立するような立派な仕事じゃないのかもしれない・・・それでも!・・・・われわれ水泳コーチには目指すべき夢があるんです!!!たとえ営業に支障をきたそうとも、続ける意味があるんです。それだけの事を、彼はやってくれている。だから・・・・・」
店長が深々と頭を下げた。
店長「なんとか翼君に・・・・もう一度水泳という夢を与えてあげて下さい。」
それを見た晴人も、すばやく頭を下げた。
晴人「お願いします!!!」
さすがの翼の父も、これには言葉を失い戸惑う。そんな空気を察してか、翼もまた心を開き本心をあらわにした。
翼「親父・・・・・俺の今の目標は・・・・・・勉強じゃなくて、やっぱり水泳だ。ここでもう一度、仲間と水泳をやりたい。後2カ月・・・・2か月だけでいいから!もう一度インターハイを目指させて下さい!!」
翼もまた立ち上がり深々と頭を下げた。その事態を見つめながら、今まで黙っていた母が一言だけ呟く。
翼の母「・・・・あなた・・・・!」
『いい加減わかって下さい・・・・・』そんな意味も含めた母の『あなた』という一言。それを聞くと、厳格だった父も涙ぐみながら語り始めた。
翼の父「私にも目標がある!!翼をいい大学に行かせて、立派な企業に就職させる夢があるんだ!!!」
晴人や翼と同じように目標がある・・・・・・・・
水泳コーチと同じように夢がある・・・・・・・・
そんな気持ちがこもった父の叫び。
晴人が下げていた頭をあげると、笑顔で堂々と翼の父に言い切った。
晴人「この目標を叶えたら・・・・翼君ならしっかり、父の願いも叶えてくれますよ。」
翼の父は、諦めのため息をつくと、叩きつけた退会届を手に取り、立ち上がって翼を見つめた。
翼の父「水泳の月謝は私が払ってやる。そのかわりにその時間を使って、しっかり勉強をしろ!!2か月・・・2か月間だけだぞ。2か月たったら・・・・・私の言っている事も理解してくれ。」
優しい感情の込められた父の言葉。翼はうれしそうな顔で、しっかりとうなずいた。そのやり取りを確認すると、晴人は店長を見て、礼儀正しいお礼の会釈をした。店長は晴人の肩を『ポンポン』っと叩くと、無言の笑顔を交わしあった。
いつの間にか、全てが変わり一つの目標に向かって動き始めるている。晴人の行動には、選手はもちろんの事、それを取り巻く数多くの人達の心まで動かす力があった。
敵対していた店長・・・・・・・その若き日の競泳魂、そんな忘れかけた熱い気持ちすら晴人の力で思い出させる事が出来た。
インターハイ、全国中学校。届かないと思っていたその夢も、もう手が届くほどに近く感じさせた。




