宮殿潜入
「ダルタニャンとマリー・ド・メディシスの陰謀」七話目です!
トレヴィルとリシュリュー枢機卿が一時的に同盟を組み、マリー太后の陰謀に挑みます。主人公シャルルはマリー太后にさらわれたシャルロットを救出へ・・・。
いよいよ決戦の時、そして、汚い下ネタ再び・・・!
ではでは、最後までご照覧ください。
七章 宮殿潜入
その日の夜。すなわち、一六三〇年十一月十日午後八時。
トレヴィル邸の庭に、近衛銃士隊の全隊士八十七名が集結していた。イタリア遠征、昨日のジュサックとの乱闘により人数が数名減ってしまったが、これがフランス国王の剣となり、盾となる最強の精鋭部隊なのである。
暗闇の中、篝火に照らし出される銃士たちの青羅紗のカサック外套が美しいとシャルルは思った。「いよいよ枢機卿の護衛隊と決戦か」「アドルフたちの敵討ちだ」と銃士たちは口々に言い合っている。
銃士隊の隊服を身に纏ったトレヴィルが屋敷内から出てきて、「静粛に!」と叫んだ。すると、庭内は水を打ったように静まり返った。さっきまでの喧騒が嘘のようである。
トレヴィルの横には、同じく隊服を着た中年の男がいた。シャルルが初めて見る人物だ。
「うん。みんな、ご苦労」
その中年の男は、銃士たちにねぎらいの言葉をひとこと言うと、トレヴィルに「後は任せたよ」と声をかけた。
(トレヴィル殿に対して、やけに偉そうではないか)
シャルルが眉をひそめて中年の男を見つめていると、そばにいたポールがぼそりと弟に耳打ちした。
「あの人が、本当の近衛銃士隊長だ」
「え?」
「モンタラン卿ジャン・ド・ヴィルシャテル。俺たちと同じガスコンだ」
再度、シャルルはモンタラン卿を見た。のっぺりとした顔に細目、おちょぼ口。やや肥満ぎみの身体。童話や民間伝承に出てくる小人のように低い身長。もしかしたら、十歳のシャルロットより少し大きいぐらいではあるまいか。そのくせ、髭だけは地面についてしまうほど長い。
(とても強そうには見えない……)
あんな人が隊長で大丈夫だろうかと不安になるシャルルであった。
「敵は護衛隊ではない。我らが戦う相手は、国王陛下を害そうとする者たちだ」
トレヴィルがそう宣言すると、一部の銃士たちが騒ぎ出した。アドルフたちの恨みを晴らそうと意気込んでいた銃士たちだ。そんな彼らをトレヴィルは一喝した。
「静かにせい! 我々近衛銃士隊は、陛下をお守りするために組織された部隊だ。私怨のために剣を振るいたければ、いま着ているその隊服を脱げ!」
歴戦の勇士であるトレヴィルが、馬上で剣を引っさげ咆哮をあげただけで、戦場の空気が一変するほどである。彼こそまさに豪傑と呼ばれるべき男だった。不平不満を言い合っていた銃士たちは、たった一度の喝に縮こまり、庭内は再び静まった。
トレヴィルは銃士たちをざっと見渡すと、「では、これより方々に任務を与える」と言った。
「明日、国王陛下の命令があり次第、反逆罪容疑の者たちを逮捕する」
トレヴィルが、リシュリューと計画した明日の作戦決行にあたって、どうしても譲らなかったことがある。それは、銃士隊は枢機卿の命令では動かない、王命によってのみ出動するということだった。リシュリューは「ガスコンの頑固者め」と嫌な顔をしたが、今回の件で銃士隊がリシュリュー枢機卿の指示に従ったという前例をトレヴィルはつくりたくなかったのだ。
明朝、リシュリューが国王ルイ十三世に拝謁して、マリー太后に与する大臣や将軍たちが反逆の密議を行なっていた証拠の手紙や書類をルイ十三世に示し、マリー派を一斉逮捕する許可を得る。そのとき、銃士隊は初めて動くのである。
「第一隊は、法務大臣ミシェル・ド・マリヤックの逮捕。
第二隊は、ルイ・ド・マリヤック元帥の逮捕。
第三隊は、バッソンピエール元帥の逮捕。
第四隊は……」
トレヴィルが、次々と銃士たちに指示を与えていく。淀みなく、確実に。
(なるほど。隊長代理といっても、トレヴィル殿は実質的には近衛銃士隊の首領なのだ。隊長が小人のおじさんでも、何の支障も無いではないか)
シャルルは大いに納得し、この頼もしいガスコンの上司を惚れぼれと見つめた。
「負傷しているポールは、満足に戦えまい。仮宮殿にいますぐ向かい、コンスタンスのそばにいろ。私とコンスタンスの連絡役を命じる。王妃様の周辺で異変が生じたら、すぐに私に知らせるのだ」
「ははっ」
ポールが拝命すると、何人かの銃士たちが嫉妬や羨望のまなざしをポールに向けた。シャルルも、その視線に気がつき、
(アドルフが、兄貴は友人が少ないと言っていたが、この雰囲気はただそれだけではないらしい。他の銃士たちは、何をそんなに兄貴をうらやましがっているのやら)
と、首を傾げた。ただ、自分でもよく分からないが、妙な胸騒ぎを感じるのである。
「これで、全ての銃士に命令が行き届いた。最後に、シャルルとアトス! 前に来なさい!」
トレヴィルに呼ばれて、(いよいよ俺にも、銃士の資質を試すための任務が!)と喜び勇み、シャルルは銃士隊長代理の前に進み出た。
(しかし、一緒に呼ばれたアトスとは誰だ? まるでどこかの山みたいな名前だ)
同時に前に出た、そのアトスという人物の顔をちらりと見る。
なんと、我が親友アルマンだった。
(おい、アルマン。アトスって何だ?)
(しっ。説明は後だ)
ほんの少し目を合わせただけで、アルマンは相手をしてくれない。これからトレヴィルの命令を聞かねばならないのだから当然だ。
「君たちはまだ正規の銃士隊ではない。それゆえ、王命が下る前でも自由に行動がとれる」
それはつまり、何か失敗を犯しても、銃士隊には関わり無く、シャルルとアルマン二人だけの責任になるということでもある。
「明日、おそらく正午までには王命が下るだろう。君たちはそれまでにリュクサンブール宮殿に忍び込み、シャルロットという少女を救い出せ」
庭内の多くの銃士たちがその命令に驚き、隣の仲間たちと顔を見合わせた。
そのシャルロットという少女が何者なのかは知らず、任務内容の重大性も分からないが、リュクサンブール宮殿に潜り込めというのは、かなり無茶な命令だと銃士たちは思ったのである。リュクサンブール宮殿といえば、マリー太后の宮殿ではないか。十五歳の少年二人だけで、果たして無事に戻って来られるのだろうか。
先輩たちの不安をよそに、拝命したシャルルとアルマンは意気軒昂、必ず成し遂げてみせるという闘志で満ち溢れていた。これはガスコン特有の負けず嫌いのせいである。
昨夜の死闘。正直に言えば、十代の二人にとって衝撃的な事件だった。殺されること、殺すことへの恐怖を初めて知った。これからもこんな修羅場をくぐり抜けねばならないのかと心細くもなった。
だが、そこで挫けてはならない。それでは負け犬だ。シャルルとアルマンは、故郷のガスコーニュで剣士としての教育を受け、勇士を多く輩出したガスコンとしての誇りを持てと叩き込まれたのだ。
「不退転こそがガスコンの真骨頂」
シャルルが父ベルドランから与えられた家訓状にも、アルマンが父親から教わった言葉にも、そのガスコンの心意気は伝えられている。
「喜んで引き受けます」
シャルルとアルマンは声をそろえて言った。
「うむ。では、君たちに我ら銃士隊のお決まりの合言葉を教えよう」
トレヴィルはそう告げると、剣をさらりと抜いて高らかにこう言った。
「一人はみんなのために、みんなは一人のために!」
シャルルは、「あっ」と驚く。この言葉は剣士の最も大切な心得として、子どものころから父に何度となく教わり、家訓状の第一条にも記されているものだった。
「我が剣は友を守るためにある。友の剣は我を守るためにある。それゆえ、死地にあっても、何も恐れることはないのだ。
シャルル。この言葉は、十代の私が武者修行をしていたころに、カステルモールで君の父君と出会い、教わった友情の言葉なのだよ」
トレヴィルは微笑みながらシャルルにそう言うのであった。
暗路、シャルルとアルマンは、リュクサンブール宮殿へと向かって歩いていた。これから命がけの任務を実行するのである。
「で、アトスっていうのが、お前の新しい名前なのか?」
「新しい名前というか、偽名だな」
昨夜の護衛隊との騒動で、アルマンは護衛士を殺してしまった。アルマンが銃士隊長代理トレヴィルの親族であることが枢機卿側に知られたら、トレヴィルに迷惑をかけてしまう可能性がある。そのため、これからはアトスという偽名を名乗り、トレヴィルの一族とは関わりの無い一介の剣士として銃士隊にいることを決めたのだという。
「ずいぶんと思い切ったことをしたなぁ」
「いや、これですっきりしたよ。トレヴィル殿の権勢に頼らず、アトスという一個の剣士として、私の人生を切り開いていけるのだから」
「お前らしい」
アルマン、いや、アトスは確固とした人生の指針を持っている。それがシャルルにはうらやましかった。
(俺はただ偉くなりたい、出世したいという漠然とした希望だけだ。俺も、どう生きるかという目標が欲しい。ただ人の真似をするのではなく、俺だけの生き方が欲しい)
おのれの生きざまというやつを俺はいつ見つけられるのだろう。そう思いつつ、シャルルは顔を上げて、夜空の星の瞬きを見つめるのであった。
「なあ、シャルル。あれはニコラじゃないのか」
ダルタニャン兄弟の下宿屋があるフォッソワイユール街まで来たとき、アトスがほのかな光が見える方向を指差した。
なるほど。よく見ると、ニコラだ。ロシナンテに跨り、手には手提げランタンを持っている。シャルルのかつての愛馬は、現主人を乗せ、ゆったり、ゆったりとこちらに向かって歩いて来ている。徒歩のほうが明らかに速い。
「やあ、ニコラ。こんな時間にどうしたんだ。夜の散歩か」
シャルルが手を振ると、ニコラもこちらに気がついたようだ。
「何が『こんな時間にどうした』だよ。昨日からまったく会っていないから、心配になって、いまさっき君の下宿屋を訪ねてきたところなんだぞ。誰もいなかったがな」
「そうか、心配をかけて悪かった。昨日は兄貴の傷の手当、助かったよ」
「あの膏薬の臭いは、二度と嗅ぎたくない」
そう言うと、ニコラはロシナンテから下りて、手綱を引きながらシャルルたちのところまでやって来る。
「で、いまから仕事だな」
シャルルとアトスは顔を見合わせた。こちらは何も言っていないのに、ニコラが自信満々にそう言い当てたのが不思議だったからである。
「別に心を読む魔法なんて使っていないさ。君たち、顔は笑っているが、目が血走っているぞ。これから危地に飛び込むのだろう?」
「相変わらず、ニコラはカミソリみたいな頭をしているな」
シャルルは笑いながら、(もしかしたら、ニコラなら宮殿に忍び込むための良策を教えてくれるかも知れない)と考えた。ここでニコラとばったり出会ったのも、何かしらの運命が働いているのではないか。
「俺たち、これからリュクサンブール宮殿に忍び込むんだ」
「お、おい、シャルル。任務内容は隊の極秘だぞ」
アトスが慌ててシャルルの肘を突いたが、シャルルは平然としている。
「まあいいじゃないか。銃士隊以外の人間の知恵を借りてはいけないとは、トレヴィル殿には言われていないぜ。それに、ニコラは俺たちの親友だ。信用できる」
「そう言い切れるのか?」
「信じる者は救われる、だ。神父さんに子どものころに教わっただろ?」
「シャルル。君のお兄さんのいい加減な性格がうつったのか?」
シャルルとアトスのやりとりをニヤニヤ笑いながら見ていたニコラだが、重大なことをさらりと言った。
「僕という人間が信用できるか否かの論議は別の機会にしておいて、リュクサンブール宮殿への忍び込み方なら、ある人物が知っているはずだぞ。……宮殿のあるじであるマリー太后と、もう一人、リシュリュー枢機卿だ」
「リシュリュー枢機卿だって?」
シャルルとアトスが、再度、顔を見合わせた。
「その根拠は?」
「いまリシュリュー枢機卿が、ルーヴル宮殿の近くに新しい屋敷を建造する計画を立てていることは知っているか? かなり大規模な工事をするらしいが、その屋敷造営のために、枢機卿は優れた建築家、技術者、画家たちを雇っているのさ。そういった人々の中には、かつて太后のリュクサンブール宮殿改築に関わった人間が少なからずいる。あの抜け目無い枢機卿のことだ。彼らから、リュクサンブール宮殿の見取り図くらいは入手しているだろう。いや、もしかすると……」
「もしかすると?」
「秘密の隠し通路を知っているかも知れんぞ、シャルル君」
まさかここでリシュリュー枢機卿が出てくるとは思いもしなかったシャルルだが、ニコラの言う通りなら、いますぐプチ・リュクサンブールに行って枢機卿に会おうと考えた。
「シャルル。もしかして、枢機卿の力を借りる気か? あの御仁は、いまは我々銃士隊と手を組んでいるが、本来はトレヴィル殿と犬猿の仲なんだぜ? 嘘の情報を教えられたらどうする気だ」
「あの方だって、いまは俺たち銃士隊が頼りなんだ。協力は惜しまないはずだ。……それに、俺たちはこの作戦を絶対成功させなければならない。たとえ宿敵の手を借りてもな」
父ベルドランの家訓状第百二十四条いわく、『利用できるものはネズミのしっぽでも使え』。無策のまま宮殿に忍び込んでも、おそらく失敗するだろう。銃士隊への入隊がかかっているこの大一番、シャルルはどうしても負けられないのだ。コンスタンスにも、銃士としての資質を証明してみせると約束したのだから……。
「ありがとう、ニコラ。おかげで助かったよ」
「なあに、これぐらいは常識の範囲内さ」
ニコラはロシナンテに再び跨り、ランタンをゆらゆらさせながら、「じゃあな」と去って行った。
「君たち、死ぬなよ」
闇の中、すでに姿が見えなくなったニコラのぼそりとした呟き声が、夜風に運ばれて、シャルルの耳に伝わった。
リシュリュー枢機卿の屋敷、プチ・リュクサンブールは、気味が悪いほど静かだった。
屋敷内の護衛士の数も少なく、明日、大事件を起こそうとしている人物の屋敷にはとても思えない。
シャルルとアトスが面会を求めると、リシュリューは彼らを五分ほど待たせただけで、すぐに執務室に招き入れた。
午前中、ベッドで寝込んでいたリシュリューだが、午後になって次第に気力を回復させ、椅子に座って政務をとれるまでに復活していた。
「リュクサンブール宮殿に忍び込むための隠し通路?」
「はい。猊下ならば、ご存知のはずです」
シャルルは、あえて決め付けるように言ってみた。自信が無さそうに言うと、甘く見られて、くれる情報もくれないのではと考えたのである。
「はっはっはっ。さすがにガスコンは厚かましい」
リシュリューはシャルルのふてぶてしさを気に入ったらしい。この陰気な男にしては珍しく爽やかに笑った。
「ほら、持って行きなさい」
リシュリューは、机に広げていた一枚の巻紙をシャルルにポイと投げて渡した。驚いたことに、それはリュクサンブール宮殿周辺と宮殿内の見取り図だった。
「くれてやる。私はすでに暗記しているからな」
「ありがとうございます……」
あまりにもあっけなく見取り図が手に入ったため、シャルルは拍子抜けした。そういえば、リシュリューは何のためにリュクサンブール宮殿に忍び込むのかと聞きもせずに、見取り図を渡している。午前中、トレヴィルとリシュリューが立てた計画には宮殿への潜入作戦など無かったはずだ。トレヴィルの供としてそばにいたシャルルは、そのことを知っている。
「どうした、シャルル・ダルタニャン。妙な顔をして」
シャルルの困惑は顔に出ていたらしく、リシュリューにそう問われた。根が真っ正直なガスコンの少年は、慌てて取り繕おうとする。
「い、いえ。猊下は意外と太っ腹だなぁと思っただけで」
「これは君への好意だよ。私は、まだ君のことを諦めてはいない」
「…………」
護衛士にならないか、というリシュリューの誘い。シャルルは一度断ったのだ。たかが一介の少年剣士を相手に、なぜ執拗な勧誘をするのだろうか。
「私は、才ある者を愛する。覚えておいてくれ」
これ以上、口をきいたら、リシュリューの老獪な口車に乗ってしまいそうだ。そんな危機感を抱いたシャルルは、「失礼しました」と、あいさつもそこそこに執務室を辞去した。アトスが慌ててシャルルを追いかける。
「ふむ。やはり、ガスコンは一筋縄ではいかんようだ」
執務室に一人となったリシュリューが呟く。
「それにしても、トレヴィルめ。思った通り、アンヌ王妃に振り回されておるな」
当初の計画には無いリュクサンブール宮殿への潜入作戦。なぜトレヴィルがこのような作戦を実行したのか。リシュリューには察しがついていた。
マリー太后のリュクサンブールとリシュリューのプチ・リュクサンブールは、隣近所と言っていいほどに近い場所にある。だから、無闇に護衛隊を屋敷内に集結させると太后に警戒されるため、今回、リシュリューは護衛士たちの多くを密偵として使った。パリの街中に潜ませ、太后の動向を探るのである。
そして、午後に入った情報によると、マリー太后の馬車が国王ルイ十三世の仮宮殿に入って、すぐに出てきたかと思うと、太后の馬車を追いかけてアンヌ王妃の馬車が仮宮殿から飛び出した。そして、リュクサンブール宮殿で太后と王妃が一時間ほど会見をしていたというのだ。その話の内容までは分からない。
(しかし、アンヌ王妃がマリー太后の陰謀に巻き込まれていることは確かだ。もしかすると、例のバッキンガム公爵の私生児を太后に奪われたのかも知れない)
トレヴィルは、アンヌ王妃がマリー太后の言いなりになって、陰謀に加担しないようにするため、人質となっているバッキンガム公爵の私生児をシャルルたちに救出させようとしているのだろう。反逆者たちを捕縛する作戦が実行される予定の時間までに。
「そして、シャルル・ダルタニャンは試されているのだ」
トレヴィルは見定めるつもりなのだろう。自分の宿敵であるリシュリューが興味を持ち、我が物にしようとしているシャルルという少年の実力を。
シャルルとアトスは、リュクサンブール宮殿から徒歩で十分ぐらいのある建物の前に立っていた。日付はすでに変わり、十一月十一日になっている。
「この建物の中に、宮殿へと続く隠し通路があるらしいが……」
シャルルが、ランタンで見取り図を照らしながら、困惑げに言った。
「誰かの家みたいだぞ。窓から明かりが見える」
「太后様に雇われた剣士が住んでいて、隠し通路を守っているのか? それとも、一般人の家? もし後者だった場合、私たちが闖入したら一般市民を驚かすことになるぞ。どうする、シャルル」
「普通にあいさつをして入ればいい」
不意に後ろから声がして、シャルルとアトスはぎくりとした。剣の柄を握って二人が振り返ると、何とロシュフォールがそこにいた。
「黒マント!」
「すでに名前は教えたはずだぞ。ロシュフォールと呼べ」
相変わらずの無愛想でそう言うと、ロシュフォールはシャルルとアトスを押しのけ、屋敷のドアを叩いた。
「フィリップ・ド・シャンパーニュ。ロシュフォールだ。開けてくれ」
すると、屋敷内から「はい」という若い男の声がして、ドアが開いた。
「これはロシュフォール伯爵。ご無沙汰しております」
二十代後半ぐらいの男性が、ロシュフォールに慇懃にあいさつをする。彼がフィリップという人物らしい。
「例の通路を使わせてもらう」
「…………」
フィリップは、目を大きく見開いてしばらく黙っていたが、やがて、
「分かりました。どうぞ」
と、ロシュフォールとシャルル、アトスを屋内に入れた。
フィリップの私室と思わしき部屋に入ると、たくさんの描きかけの絵があり、シャルルは(この人は画家だったのか)と驚いた。
フィリップは、机の下にしゃがみこみ、ドンドンドンと床を三回叩いた。すると、床の板が簡単に外れ、シャルルが覗き込むとそこには地下へと続く階段があったのである。
「では、行くぞ」
「命令するな。俺たちは、黒マントの従者じゃない」
「ロシュフォールと呼べ」
ロシュフォール、シャルル、アトスの順で地下階段を降りていく。フィリップは、暗い表情で、彼らが地下の闇に消えていくのをじっと見つめていた。「お許しください、太后様」と呟きながら。
フィリップ・ド・シャンパーニュ。かつてマリー太后の保護を受け、リュクサンブール宮殿の装飾を手がけた画家の一人である。
芸術家には、自分の才能を最大限に発揮させてくれる保護者が必要だった。かつて太后はフィリップを気に入り、宮殿のそば近くに屋敷を与えた。そして、変事が起きたときに宮殿から脱出するための隠し通路の出口をフィリップの部屋につくらせたのである。だが、宮殿の完成後、太后はフィリップの存在をすっかり忘れてしまい、仕事を彼に与えなくなった。そんなフィリップに手を差し伸べたのがリシュリューである。
リシュリューは、「私の新しい屋敷の内装を君に任せたい」とフィリップに持ちかけた。太后と対立する人物の庇護を受けることに最初は戸惑いを感じたフィリップだが、彼にも養うべき家族がいる。フィリップは、後にパレ・カルディナル(枢機卿の宮殿)と呼ばれることになる巨大な屋敷の装飾を引き受けることを決めたのである。だから、いまではリシュリューこそがフィリップの保護者だった。
「お許しください、太后様」
フィリップは、もう一度呟き、嘆息した。
シャルルたちは、ランタンの光を頼りに地下道を歩いていく。シャルルは小声でロシュフォールに話しかけた。
「お前、枢機卿に怒られて、謹慎中だと聞いたぞ」
「このような非常時に、屋敷に引きこもっていられるか」
「つまり、独断で来たのか。しかし、お前は何の理由で宮殿に忍び込む?」
シャルルたちはシャルロットを救出することが目的だが、ロシュフォールが宮殿に潜入しようとするのはなぜなのか。
「太后様の動向を探るためだ。夜になって、リュクサンブール宮殿を見張っていた護衛士からの報告がぱったりと絶えた。枢機卿は新しく別の護衛士たちを送り込んだが、どうも悪い予感がする。太后様は明らかに宮殿の警備を強化した」
「悪い予感って、何か心当たりでもあるのか?」
「バスティーユ牢獄にいたはずのジュサックが、何者かの助けによって脱獄した」
「何だと?」
シャルルとアトスが、ロシュフォールの言葉に驚いていたちょうど同時刻。
脱獄者ジュサックは、リュクサンブール宮殿の庭内で、刃をかつての仲間に突きつけていた。マリー太后の様子を探ろうとして、勇敢にも宮殿に潜入した護衛士三人である。
「じゅ、ジュサック。お前が、なぜ?」
負傷して右腕が使えなくなった中年の護衛士が、悲しそうにジュサックに言う。彼は昔、護衛隊に入ったばかりのジュサックを指導したことがある恩人だった。
「俺はまだ戦い足りないんだ。もっとぞくぞくするような喧嘩がしたい。それなのに、死んでたまるか」
リシュリューの命令でバスティーユ牢獄に入れられたジュサックは、斬首されるときをただ待つしかなかった。そんな彼の運命を変えたのが、マリー太后である。自分の宮殿の裏手で起きた乱闘騒ぎを太后はしっかり把握していて、ジュサックという荒くれの護衛士が護衛隊を除籍され、バスティーユ牢獄に放り込まれたことも知っていたのである。
以前からジュサックという殺人狂の剣士の噂を聞いていたマリー太后は、この危険な男を自分の番犬にしようと考え、牢獄から脱出する手助けをしたのだ。
「悪いな、先輩。俺とあんたは、いまはただの敵同士なんだ」
ジュサックは冷然と言い放つと、かつての先輩と仲間たちの命を淡々と奪っていった。この三人は弱い、面白くないと不満に思いながら。
シャルルがランタンの火を消したのを確認すると、ロシュフォールが重い扉を両手で押した。
ぎ、ぎ、ぎ。
思ったより大きな音が立ち、侵入者三人はビクリとする。扉の向こうを覗き込み、誰も衛兵が駆けつけないのを確かめると、わずかにできた隙間からシャルルたちは扉の外側に出た。
秘密通路を抜けた先は、リュクサンブール宮殿の中心部、数多くの絵画が飾られている大広間だった。
最後尾だったアトスが、音を立てないように、慎重に扉を閉じている間、シャルルは広間に飾られている絵画たちを呆然と見上げていた。あたりは真っ暗だが、夜目のきくシャルルは、ここに飾られている一連の大作絵画に共通して登場する女性が、もしかしてマリー太后なのだろうかと思った。
豊満な肉体の女がそれぞれの作品で、神の加護のもと、人々に称賛され、夫らしき男性に愛され、生まれてきた我が子を慈愛の目で見つめ、とても幸福な人生を送っているように見える。
「『マリー・ド・メディシスの生涯』。ルーベンスの作ゆえに芸術的価値はあるが、偽りに満ちた絵だ」
ロシュフォールが、嘲笑めいた表情を浮かべながら言った。
偽りというのは、マリー太后のこの絵画のごとき栄光は虚飾で、本当は誰からも愛されていないし、誰も愛していないということだろうか。シャルルはいまいちロシュフォールの言葉の意味が分からなかったが、いまはこの絵画を気にしている暇は無い。シャルロットをこの宮殿から捜し出し、救出しなければならないのだ。
(よし。トレヴィル殿の言っていた正午までは、まだまだ時間がある。さっさとシャルロットを見つけ出して、夜が明けるまでにここを脱出するぞ)
シャルルは自分にそう言い聞かせて、気合を入れ直した。
コンスタンスは、シャルロットが攫われたとき、我が妹のように心配して泣いていた。あの幼く、可愛らしいブロンドの女の子が恐ろしい目に遭っているのだと思うと、心優しいコンスタンスでなくとも、胸が痛む。早く助けてやりたい。
「では、ここからは別行動だ」
アトスが完全に秘密通路の隠し扉を閉めると、ロシュフォールが小声でそう言った。
シャルルとアトスはシャルロット救出。ロシュフォールはマリー太后の動きを探る。目的が違うのだから、ここでお別れというわけだ。
「へまをして見つかるなよ、黒マント」
「貴様らのほうこそ。あと、いい加減にロシュフォールと呼べ。この田舎っぺ」
「何だと? 殴るぞ、この野郎」
「シャルル、行くぞ。無駄話をしすぎだ」
アトスに叱られ、シャルルはしゅんとなって頷いた。
夜明け前までに任務を達成するぞと勢い込んでいたシャルルだが、潜入から三時間経っても、二人は隠し扉のあった広間の近くの大廊下からほとんど動けずにいた。
さすがに太后の宮殿だけあって、警戒が厳しい。大廊下を数人の衛兵が常時、うろうろ歩きまわっている。彼らがほんの少し目をそらした瞬間を狙って、彫刻や柱の陰に飛び込み、また衛兵が目をそらすと別の物陰に隠れて移動するという、気の短いガスコンにとっては苦行のような時間が続いた。
あと二時間もしたら陽が昇る。シャルロットがどこの部屋に閉じ込められているかも分からないのに、亀の歩みのように移動していては、まる一日かけても救出などできないだろう。
(どうする、アトス)
(どうする、シャルル)
彫刻の下で、身体を密着させて息を殺すシャルルとアトス。近くに衛兵たちがいるため、満足に相談することもできない。また、見取り図を使おうにも明かりがなければ、まったく読めないのである。
(夜が明けるのは、まずい)
シャルルは焦った。いまは夜の闇が二人を隠してくれているが、朝になれば、彫刻や柱などの物陰に潜んでいても、簡単に発見されてしまう。何としてでも、夜明けまでにこの状況を脱しなければならなかった。
十一月十一日の太陽が、パリの街を眠りから覚ました。
仮宮殿、アンヌ王妃の寝所。
王妃はシャルロットを案じて一睡もしておらず、コンスタンスもずっとそばに侍していた。ポールは寝所近くの廊下に控えている。
「私が悪かったんだわ……」
泣き疲れて疲労したアンヌ王妃は、かすれた声で呟いた。
「私の身勝手に……あの人との恋を忘れたくないというわがままに、シャルロットを巻き込んでしまったのよ」
「王妃様……」
コンスタンスは、頬に涙の跡が残る王妃の顔を悲しげに見つめ、主人の手をそっと握った。
「シャルルという少年を覚えていますか。王妃様が金のブレスレットをお与えになったガスコーニュ訛りの少年です」
「ええ」
「彼がいまシャルロットを救い出しに行っています。きっと大丈夫です。シャルル・ダルタニャンはとても強い剣士ですから」
「そんなに強いの?」
童女のような純粋な目で、アンヌ王妃は聞いた。小さな妹が、優しい姉に物をたずねるような愛らしい仕草だ。どれだけ深刻な状況にあっても、この王妃のあどけない瞳はコンスタンスの心を癒してくれる。
コンスタンスは、少し悪戯っぽく微笑んで言った。
「はい。頼りない兄のポール・ダルタニャンよりも、ずっと」
アンヌ王妃も、「そう、ポールの弟なの」と、クスクス笑った。
「そういえば、ポールはずっと廊下にいて、朝食も食べていないはずよ。コンスタンス、私のことは心配いらないから、世話を焼いてきてあげなさい」
王妃の表情がいくぶん和らいだのを見て、安堵したコンスタンスは「ありがとうございます」と礼を言い、ポールのいる廊下にパンとスープを持って行った。
(そういえば、あのガスコーニュの少年は、前にもシャルロットを助けてくれた。その褒美がブレスレットだったのだ)
シャルル・ダルタニャンという少年に全てを賭けてみるしかない。彼がシャルロットを救ってくれさえすれば、そうすれば……。
「この小瓶のフタを開けずに済む……」
一人となった寝所で、アンヌ王妃はベッドの枕の下に隠してあった小瓶を取り出した。指が震えていたため、足もとに落としてしまう。
(私は、いったい、何を愛しているのだろう)
床に転がる小瓶を見下ろしながら、王妃は自分で自分が分からないと思った。
ルイは、アンヌを愛してくれない。アンヌも、ルイを愛していない。
だから、バッキンガム公爵を愛した。彼となら本当の愛を分かち合えると思った。そう信じようとした。しかし、彼は殺され、娘のシャルロットが残された。
それなら、シャルロットを代わりに愛して、バッキンガム公爵への想いを貫けばいい。そう思っていたが……。
シャルロットにしてみれば、いい迷惑だったのかも知れない。愛の身代わりなど。
あの可哀想な子は、一人の女のつまらない恋愛ごっこに付き合わされ、幼い命を散らそうとしている。せめてもの罪滅ぼしとして、シャルロットを救ってあげたい。
(けれど、もしシャルル・ダルタニャンが失敗したら、私がこの手でルイを殺さないと、シャルロットは助からない)
愛してくれないのなら、愛していないのなら、殺してしまえばいいのだ。そう何度も自分に言い聞かせた。しかし、
――私は、ルイに死んで欲しいとまでは思っていません!
昨日、マリー太后に向かって、とっさに叫んだ自分の言葉が耳から離れないアンヌ王妃だったのである。
「ポール、朝食よ。食べて」
コンスタンスが食事を運んで来たのを見て、ポールは一瞬だけ喜んだが、すぐ真面目な顔になって言った。
「コンスタンス。どうもゆっくり食事はしていられないみたいだ」
「どうしたの?」
「国王陛下が、いまさっき、お出かけになった。早朝からリシュリュー枢機卿と会見する約束をすっぽかしてな」
「え!」
リシュリューは昨夜のうちに、「明日の午前七時に出仕するので、拝謁賜りたい」と使者を遣わして申し出て、ルイ十三世はそれを許可していた。政務で急ぎの用件がある場合、リシュリューはよく早朝の出仕をすることがあったので、ルイ十三世は不思議に思わなかったのだ。だが、翌朝になってリシュリューが出仕する時間が近づくと、何の前触れも無く、ルイ十三世はどこかに出かけてしまったのである。さらに怪しいことには、国王専用の馬車を用いず、一頭立ての粗末な軽装馬車に乗っての外出だった。
いまは午前六時半だ。会見の時間まであと三十分しかない。
リシュリューが、ルイ十三世からマリー太后の一派を逮捕する許可を得ることができなければ、近衛銃士隊は出動できないのだ。
「ポール、早くお父様のもとに走って。このことを知らせないと」
「いや。陛下がどこに向かわれたのかまで調べないとだめだ。俺はいますぐ陛下の後を追う。シャルルが市場で手に入れた駿馬で飛ばしたら、追いつけるだろう」
「あなたは深手を負っているのよ。絶対に無理はしないで」
「分かっている。危険な目に遭いそうになったら、ちゃっかり逃げるさ。俺は『狡猾ポール』だからな。親友を見殺しにした……」
ポールはそう言うと、自嘲するように「へへ」と笑い、コンスタンスに背を向けて、仮宮殿の庭に出ようとした。こっそり庭園の木に自分の馬をつないでいたのである。
だが、急に背中に感じた人間のぬくもりに、ポールはハッと立ち止まった。
「『親友殺し』って言われたこと、まだ気にしていたの? ポールは本当に弱い人ね。最後には怒るわよ?」
ポールは、自分の肩に置かれたコンスタンスの手をぎゅっと握った。
「天使みたいに優しいコンスタンスを怒らせるなんて、俺って奴は……」
「私じゃない。アドルフさんたちが怒るのよ。アドルフさんは言っていたわ。『ポールは永遠の友情を誓った仲間だ』って。そのポールが、いつまでもそんなことを言っていたら、アドルフさんも、アランさんも、ボドワンさんも、きっと怒るわ」
「……ごめん。ありがとう」
今度こそ、ポールは庭に飛び出した。無事に任務を果たしたら、コンスタンスを真正面から抱き締めようと決意して。
あれはイタリア遠征からパリに帰還した日。弟のシャルルがパリの街にやって来る前日のことだ。ずっと求愛をし続けていたコンスタンスを後ろから抱き締め、彼女は拒絶しなかった。あの日から十日以上経っているが、奥手のコンスタンスが恥ずかしがるため、二人が互いのぬくもりを感じあえたのは、さっきの抱擁を含めて三度だけなのである。二人の想いが初めて重なった日が一度目、仲間を失って意気消沈したポールをコンスタンスが慰めた夜が二度目、そして、さっきの後ろからの抱擁が三度目だった。
ままごとのような幼い抱擁をしたり、手を握り合ったりするだけでなく、もっと恋人らしいことをしたい。そのためにも、俺は意地でも生き残ってやる。ポールはそう心に決めた。
――何だ、お前。『狡猾ポール』と言われたぐらいで、落ち込んでいるのか。
――それが君の持ち味なのですよ、ポール。
――銃士隊は熱血馬鹿ばかりだからな。お前みたいに要領のいい奴は、一人ぐらい必要さ。
アドルフ、アラン、ボドワン。生前、友たちがポールにかけてくれた言葉が蘇る。
「俺には、俺の生き方があるんだ!」
ポールは馬を走らせ、国王ルイ十三世の馬車を追った。
身動きが取れない。
シャルルとアトスは、リュクサンブール宮殿の広大な庭園内にぽつりとある、花壇の花々の中に埋もれていた。
あたりが白んできて、もう間も無く日が昇りそうになったとき、
(このまま馬鹿みたいに廊下で見つかるぐらいなら、一か八か、近くの庭園の茂みに身を潜めよう)
と、二人は衛兵のわずかな隙をついてこの花壇まで走ったのである。
そこで、夜が明けた。
花がたくさん咲き乱れているおかげで、ここは予想以上に見つかりにくい。だが、ちょうど庭園から宮殿の建物に入る通り道にあるため、花壇から一歩も外に出られないのだ。シャルルとアトスの目の前を絶え間無く衛兵や侍女、召使が往来する。
(ここに隠れたのは、失敗だった……)
シャルルは後悔したが、後の祭りだ。いつもは冷静なアトスも、この状況にはさすがにいらいらしてきたらしく、ぎゅっと下唇を噛んでいる。シャルロット救出以前に、自分たちがこの宮殿から脱出できるかも怪しくなってきた。
「ああ、今日は素敵な一日になりそうだ」
また一人、鼻歌混じりで花壇の前を通ろうとする男がいた。ただし、衛兵や召使ではなく、豪奢な服を着た貴族らしき人物だ。
(ずいぶんと呑気そうな奴だぜ)
年のころは兄のポールと同年代ぐらいだろうか。茄子のように細長い顔、ひょろりとした身体つきで、全体的にひ弱そうな印象である。
そのまま鼻歌とともに通り過ぎるかと思ったが、彼はふと花壇の前で立ち止まった。
「ふむ。腹が痛くなってきた」
などと独り言を言いつつ、何やら下半身をごそごそし始める。
もしかして、とガスコンの少年二人が嫌な想像をした直後、シャルルとアトスの顔の前に、お尻がぷりんと突き出されたのである。
当時の貴族は、便意を催したら、場所を選ばずに用を足した。それが宮殿の中であっても。とはいえ、大便を顔にかけられて、喜ぶ人間はこの時代にも存在はしない。
「この糞野郎!」
シャルルとアトスは、お尻の主が「フン」と気合を入れる前に、彼を花壇の中に引きずり込んだのであった。
貴族らしき男は暴れたが、シャルルに口を塞がれ、アトスに短剣を喉元に突きつけられて、抵抗を止めた。
「いいか。大声を出すなよ」
シャルルが押し殺した声で恫喝すると、細面の貴族は目に涙をためて頷く。見た目通りにひ弱な男らしい。
この男、大した人物ではなさそうだが、身分はかなり高いようだ。もしかしたら、マリー太后のお気に入りの貴族で、シャルロットの居場所を知っているかも知れない。シャルルはそう直感した。
「昨日、ブロンドの少女が、この宮殿に連れられて来たはずだ。いまどこに隠されているか知っているか」
こくん、こくん、とあっけなく首を縦に振る。マリー太后も、こんな情けない男を重用しているとは、見る目の無い人だ。
「そこまで案内してもらおうか」
シャルルとアトスは、前を歩かせている茄子顔貴族の従者のふりをして、リュクサンブール宮殿の大廊下を堂々と歩いている。男の背中にはアトスの短剣が突きつけられているが、アトスと並んで歩くシャルルの身体で隠れていて、すれ違う衛兵たちには見えない。
「おはようございます。王弟殿下」
「う、うん。おはよう」
恐怖と便意に耐えながら、王弟殿下と呼ばれたその男は、何とかして家来たちへの自分の威厳を保とうと努力している様子だ。
(王弟殿下ということは、国王陛下の弟か)
兄のポールから教わった知識によると、国王ルイ十三世に幾度となく逆らい、王座を欲している王弟がオルレアン公ガストンだという。そして、マリー太后は、ルイ十三世が病に倒れたとき、ガストンを即位させようと画策したことがあるのだ。
(太后様のお気に入りの家来どころか、自慢の息子だったのか)
後々のことを考えると、王族をこんな目に遭わせたのはまずかったかなと思いつつも、国王に背いている人間なのだから、賊は賊だとシャルルは自分に言い聞かせるのであった。
「こ、ここだ」
絢爛豪華な部屋がたくさんあった中で、ガストンが指し示した部屋だけ、ひどく異質だった。まるで囚人を閉じ込めるためにつくったような、いかめしく冷たい鉄製の扉から、血なまぐさい雰囲気をシャルルは感じ取ったのである。
扉をガストンに開けさせると、部屋の中は、シャルルがパリにやって来て初日に入れられたコンシェルジュリー牢獄を彷彿させる悪臭が漂っていた。その臭いの正体は男物の服を着た腐った死体で、床に一体、転がっていた。亡くなってから数十日程度だと思われるが、彼はなぜこんな部屋で死んだのか。
「こ、この部屋は、母上に逆らった人間が入れられる罪人の部屋だ」
「もう喋るな。胸糞悪い」
シャルルは、ガツンとガストンの後頭部を殴り、気絶させた。
(この王弟の役目はこれでおしまいだ。俺たちの捜していた子が見つかったのだからな)
いったん部屋の扉を閉めると、シャルルとアトスは、あちこち穴が空いてボロボロのベッドに駆け寄った。
「シャルロット、助けに来たよ」
シャルルが優しく声をかけたが、ベッドに横たわるシャルロットは反応しない。もしかして、すでに死んでしまったのかと、一瞬、肝を冷やしたが、シャルロットがかすかに目を開けて唇を動かそうとしているのを確認して、シャルルはホッとした。アトスがシャルロットを助け起こそうと、その身体に触れる。
「この子、身体が熱いぞ。病気なのか?」
「コンスタンスの話によると、高熱でうなされているときに攫われたらしい」
シャルロットが、弱々しく呟いた。「……シャーロットは、わるくない。いじめないで。だいっきらい」。マリー太后に折檻をされている間、気丈なシャルロットは、フランス語で太后に食ってかかっていたのだった。
シャルルは、シャルロットがフランス語を話せることをコンスタンスから聞いていたので、驚かなかった。そして、シャルルとコンスタンスだけが友だちなんだとシャルロットが言っていたことも聞かされていたのである。
「シャルロット、俺だよ。君の友だちのシャルルだ。さあ、一緒に帰ろう」
シャルルが穏やかな声で語りかけると、シャルロットはようやく正気を取り戻したらしい。こくんと小さく頷いた。ほんの少し、笑っているように見える。
「この子は私が背負うよ。シャルルは隠し通路までの警戒を頼む」
アトスがそう言って、シャルロットの左肩に手をかけた。わずかに服がめくれてシャルロットの白い肌が外の空気に触れる。
(…………?)
百合の烙印が、十歳の少女の肩に?
アトスは思わずシャルルのほうを見たが、シャルルは気がついていない様子だった。
「急ごう、アトス」
「あ、ああ……」
いまは急を要するときだ。アトスはそう自分に言い聞かせ、シャルロットの服のめくれを直す。さっき見たものは、この子のためにも、誰にも言うまい。
八章につづく
七章も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
余談ですが、当時のパリの貴族たちは便意をもよおすと宮殿であろうがお構いなしにうんこたらしていたそうです。太陽王ルイ十四世がベルサイユ宮殿を新築して移転したのも、今までの宮殿が臭すぎてたまらなかったという説もあります。ちなみに、ルイ十三世の玉座はいつでも用が足せるように便器の機能があったそうです。
汚い話ばかりしてしまいましたが、次がとうとう最終回となります。
リシュリュー枢機卿VSマリー太后、そして、シャルルVSジュサック。戦いの結末はいかに?
というわけで、最終回もよろしかったらご覧ください。