百合の烙印
「ダルタニャンとマリー・ド・メディシスの陰謀」六話目です!
ここらへんからリシュリュー枢機卿とかトレヴィルみたいなオッサン、マリー太后みたいなオバサンが活躍し始めて、主人公の影がちょっと薄くなってしまっているかも?
オッサン、オバサンを活躍させると何だか楽しい(?)です。
では、ご覧ください!
六章 百合の烙印
娘のコンスタンスから急報を受けたトレヴィルは、すぐさま銃士十人を率いて出動した。ポールの下宿があるフォッソワイユール街の近くで決闘が行なわれるとすれば、リュクサンブール宮殿の周辺に違いない。そして、ポールたち銃士を襲ったのは誰かもおおかたの予想はついていた。
護衛士ジュサック。あの男は、この数年間で十数人の銃士を殺している。リシュリュー枢機卿も、ジュサックには手を焼いているらしいという噂だ。ならば、この機会に決闘している現場をおさえて、殺人狂の護衛士を捕縛してやろうとトレヴィルは考えたのである。
だが、トレヴィルが決闘の現場に駆けつけたときには、全てが終わっていた。驚いたことに、リシュリュー枢機卿と腹心のロシュフォール伯爵がそこにいたのである。
「ご苦労、トレヴィル君。護衛士たちの亡骸は、我々が回収する。君は近衛銃士の亡骸を手厚く葬ってやってくれ」
アドルフ、アラン、ボドワンら銃士と護衛士たちの死体が、ごろごろと転がっている。
シャルルに腹を刺された護衛士は、まだ息をしているようだが、もう長くはないだろう。
生き残っているのは、呆然と立ち尽くしているシャルルとアルマン、そして、リシュリューの足もとでなぜか気絶しているジュサックのみだ。
トレヴィルは、ひらりと馬から下りると、リシュリューに詰め寄った。
「猊下。まさかとは思いますが、この惨状は猊下の仕業ですか?」
「無礼でしょう!」
ロシュフォールが怒鳴ったが、トレヴィルの眼光に射すくめられ、ぐっと唸って黙る。
トレヴィルという男は多くの顔を持つ人物である。家庭内においては寡黙な父、銃士隊においては温和な上司。そして、国王を凌ぐ権力を持つ宰相リシュリューと対峙するときには、百獣の王に挑みかかる、気性の荒い狼だった。
この世でリシュリュー枢機卿を恐れぬ二人目の人物。それがトレヴィル伯爵なのである。
「そう食ってかかるな。そもそも決闘を禁じているのは、宰相である私だ。全てはこの荒くれが、暴走した結果だよ」
リシュリューは、ジュサックの身体をコンコンと蹴りながら、肩をすくめた。トレヴィルが挑戦的な態度なのに対して、リシュリューはまるで反抗的な親戚の子をなだめるようにトレヴィルと接する。
「ジュサックは猊下を守る護衛隊の所属です。ジュサックが国王陛下直属の銃士たちを殺めた責任はどなたがとるのですか?」
「ジュサック本人だ」
「は?」
「この者はたったいま、護衛隊から除籍した。バスティーユ牢獄に入れて、数日中に斬首する」
リシュリューは赤の僧衣を翻し、栗毛の馬に乗った。
「トレヴィル君。相談したいことがあるゆえ、明朝、我が屋敷まで来てくれ。そこのシャルルという少年を連れてな」
ジュサックの連行と遺体の処理を護衛士たちに指示すると、リシュリューは馬を走らせて去っていった。ロシュフォールも後に続く。
「おい、ちょっと待て、黒マント! 次に会ったときには名乗るという約束だったろう!」
さっきまでリシュリューとトレヴィルのやりとりを大人しく見守っていたシャルルが、黒マントの男に怒鳴ると、馬上の彼はちらりとシャルルを見て、不機嫌そうな声で答えた。
「ロシュフォール」
その日の夜更け。
トレヴィル邸には八十数人の銃士たちが集まり、屋敷内は重苦しい空気に包まれていた。
銃士たちは、トレヴィル邸の一室に安置されているアドルフ、アラン、ボドワンの遺体と代わるがわるに別れのあいさつをし、口々に「畜生、護衛隊め。枢機卿め」と吠え、泣いた。その光景をトレヴィルは、身じろぎもせず見守っている。
護衛士の好戦的な者たちが、死んだ仲間の復讐をするために、ポールの下宿屋を襲う可能性があったため、シャルルとポールはトレヴィル邸で一夜を明かすことになった。アルマンも、シャルル持参の膏薬で、いまコンスタンスに傷の手当をしてもらっている。
シャルル、ポール、アルマン、コンスタンスの四人は、トレヴィルの執務室から少し離れた部屋にいた。
「兄貴、背中の傷が痛むのか」
「いや、あのニコラという少年が、手際よく手当をしてくれたおかげで、だいぶ楽になった。次に会ったときに、お前からも礼を言っておいてくれ」
怪我はもう心配無いと言うポールだが、シャルルはいつも調子者の兄がやたらと消沈していることが気にかかった。親友を一度に三人も失ったのだから、当然なのかも知れない。しかし、もとから色白だった顔が、疫病に罹ったかのように青白く、目に生気が無い。しきりにため息をついていて、兄貴は本当にどうかしてしまったのではないかとシャルルは憂えた。
「トレヴィル殿に相談したいことがあるから、ちょっと行ってくるよ」
コンスタンスに治療をしてもらうと、アルマンがいつも通りのきびきびとした動作で立ち上がり、部屋を出て行った。怪我の後遺症などは心配いらないようだ。
「…………」
シャルル、コンスタンス、ポールはしばし無言でいた。
正直なところ、シャルルは少しだけ心細さを感じている。軍人として立身出世するためには、今日のような修羅場を無数に越えていかねばならないのだろう。仲間が死に、自分も殺されかけて、生き残るために敵の命を奪うのだ。
死んだアドルフたちは、ふざけてばかりの頼りない先輩だとシャルルは思っていた。しかし、本当は、仲間を助けるために命を捨てる勇気を持つ、立派な剣士たちだったのである。そのことを彼らが故人となった後に思い知った。
シャルルに倒された護衛士。虫の息だったが、彼はいまごろ死んでいるだろう。アドルフたちとの戦いで疲れているだろうから、簡単に倒せるとなめてかかって、手痛い目に遭った。生きていれば、剣で多くの戦功をあげられる実力を持っていたはずだ。
(そういった人々の屍を越えて、俺はこれからも生き抜いていかねばならないのだ)
恐れをなして逃げる気は毛頭無いが、できれば心の支えが欲しいとシャルルはこのとき初めて思った。ちらりと、ポールの横に座っているコンスタンスを見る。コンスタンスのように温かい人が、俺をいつも励ましてくれる存在なら、どれだけ心強いことだろう。
「……シャルル。悪いが、毛布を貰ってきてくれないか。少し寒いんだ」
「え? 俺?」
急にポールがそう言ったので、シャルルは我に帰った。
(しかし、なぜ俺に頼む? この家の娘であるコンスタンスがそばにいるのに)
コンスタンスは、じっとうつむいている。いつもの彼女なら、「私がとってくるわ」と言いそうなものなのだが。
変だなと思いつつも、弱っている兄の頼みごとをすげなく断るのも不人情だと考え、シャルルは素直に頷き、部屋を出た。
シャルルは屋敷内をあちこち迷子になったあげく、女中部屋に隠れていた若い下女をようやく発見して、毛布を貰った。下女は、屈強な銃士たちがいつもの倍以上の人数で屋敷内をうろうろしていることに怯え、部屋に引きこもっていたのである。
ポールとコンスタンスのいる部屋に戻ろうと廊下を歩いていると、何か揉めているような話し声が聞こえてきた。ドアがほんの少し開いている小部屋からだ。
「おい、さすがにあれは言いすぎだったんじゃないのか?」
「しかし、ポールがジュサックたちとの決闘の場から離脱して、自分の下宿まで逃げたのは事実だ。狡猾ポールは、アドルフたちを見殺しにしたんだぞ」
「だからといって、『親友殺し』と罵ることはないだろう。ポールの奴、立ち直れなくなるぜ」
「あんな薄情者、銃士隊を辞めればいいんだ」
自分の兄の話だと知ったシャルルは、ドアの隙間から覗き込んで会話を盗み聞きしていたが、最後まで我慢して聞いていられなかった。
「兄貴の悪口はやめてもらおうか!」
シャルルはズカズカと部屋に入るなり、ポールを貶していた銃士の横面を思い切り殴ったのである。銃士は、よろめいて尻餅をついた。
「兄貴とアドルフたちの友情にケチをつけるな」
そう言い残し、シャルルは部屋を出て行った。いつも理不尽な命令をポールにされて不満を抱いていたシャルルだが、他人に身内を悪く言われると、腹立たしいのだ。
畜生、畜生と呟き、シャルルは足早に廊下を行く。ついさっきまで抱いていた、愛する女に心の支えになって欲しいだとか心細いだとかいう女々しい感情もすっかり忘れ、兄のため怒りに身を震わせた。一度に二つ以上のことは考えていられない性格なのである。
ポールがなぜあんなに元気が無いのかが分かった。ポールとアドルフ、アラン、ボドワンは永遠の友情を誓ったのだ。それなのに、彼らの絆をよく知りもしない第三者から「親友殺し」などと言われて、心の弱いポールは落ち込んでいるのだろう。
(早く戻って、弟の俺が元気づけてやろう)
何だかんだと言っても、家族思いのシャルルは長兄のことが大事なのである。
部屋に戻ると、見知らぬ女がいた。コンスタンスは外套を着て、外出の準備をしている。
「どうしたの、コンスタンス」
「王妃様のお呼び出しなの。仮宮殿に行ってくるわ」
どうやら、見知らぬ女はアンヌ王妃の使者らしい。シャルルは驚いて言った。
「こんな夜更けに? 夜道は危ないから、俺が送って行くよ」
「迎えの馬車が屋敷の外で停まっているから大丈夫よ。ポール、ごめんね。行ってきます」
「ああ。気をつけて。さっきは……ありがとう」
コンスタンスは、王妃の使者とともに、あたふたと出て行き、部屋にはダルタニャン兄弟だけが残った。シャルルは、椅子にもたれかかっているポールに、毛布をかけてやる。
しばし、シャルルは兄をどんな言葉で力づけようかと悩み、無言でいたが、自分はニコラのように口達者ではないのだから、下手に遠まわしな言い方をせずに直球でいこうと考えた。
「兄貴は、逃げたんじゃない」
「どうした、急に」
「兄貴は、俺たちに危険を知らせるために下宿まで走ったんだ。兄貴が来てくれなかったら、ジュサックたちに下宿を急襲されて、いまごろ俺はどうなっていたか分からない」
「うん。分かっている。コンスタンスにもそう言ってもらって、少し気持ちが楽になったところなんだ」
「そうか。コンスタンスが」
よく見ると、シャルルが毛布を取りに部屋を出て行く前よりも、ポールの表情が和らいでいた。血色も少しよくなっている。シャルルがいない間に、コンスタンスがポールを慰めてくれたのだろう。
「コンスタンスは、優しい子だな」
「ああ。どことなく、故郷の母さんに似ている」
ポールは、自分の右の手のひらを左手でぎゅっと握り締めた。まるで、愛しい人の残り香が染みた衣服を抱きしめるような、そんな仕草だった。シャルルは、兄がこんなにも柔らかな表情をしているのを生まれて初めて見た。なぜだか知らないが、ほんの一瞬、シャルルは言い表せないような不安に襲われた。
「シャルル。もう寝ようか」
「……あ、うん。……兄貴、あのさ」
「どうした?」
「兄貴はさっきコンスタンスと……」
「ん?」
「……いや、何でもないよ。お休み」
きっと考えすぎだ。優しいコンスタンスは、ただ兄貴を慰めただけに決まっている。疲れているから、余計なことを考えてしまうんだ。そう考えながら、シャルルはゴロリと横になった。ここでもシャルルの寝床は椅子でつくったベッドである。
(コンスタンス…………)
コンスタンスはいなくなったというのに、やけに彼女の匂いが部屋に残っている。切なくなったシャルルは、天井を見つめながら、(今夜こそコンスタンスの夢が見たい……)と願った。いままでに何度もそう祈り、叶わなかったシャルルの願いである。
だが、やはり夢に現れたのはコンスタンスではなく、アドルフ、アラン、ボドワンの死体を壊れた人形のように重ねて、その上に座っているジュサックだった。殺人狂は薄笑いを浮かべて、シャルルを見つめていた。
アンヌ王妃が、真夜中にコンスタンスを呼び出したのは、シャルロットが急に発熱したからだった。
「コンスタンス。シャルロットは死なないわよね? 死なせたら、ダメよ」
子どもを育てた経験の無い三十路前の王妃は、ただおろおろするばかりだ。十五歳のコンスタンスのほうが、よほどしっかりしている。
「ただの風邪だと思います。医者に診てもらったほうが、安心ではありますが……」
シャルロットは、国王ルイ十三世には秘密の存在である。宮廷の侍医を呼んだり、民間の医者を仮宮殿に招いたりしたら、国王にバッキンガム公爵の私生児が自分の膝元にいることが知られてしまう恐れがあるのだ。いくら愛薄い夫婦関係とはいえ、妻が浮気相手の娘を我が家に匿っていると知って、激怒せぬ夫がいるだろうか。
「今夜は私が徹夜で看病しますので、王妃様はお休みください」
「絶対に死なせないでね。きっとよ」
「はい。力を尽くします」
十四も年の離れたアンヌ王妃とコンスタンスだが、容姿が似ていることもあって、他の侍女たちには仲睦まじい姉妹のように見えた。ただし、姉がコンスタンスで、ずっと年上のはずの王妃が妹である。
まだ少女時代の延長線上にいるような王妃は、侍女たちにわがままをしょっちゅう言う。それは結婚しても夫の愛を得られず、妻になりきれていないことが大きな原因かも知れないが、王妃付きの侍女たちは、まるで童女を相手にするかのごとく仕えねばならなかった。
アンヌ王妃のもとに初めて出仕したときのコンスタンスは、それこそ童女と言っていい年齢だったが、生来備わった人間的温もりと包容力で仕え、わずかな時間で王妃はコンスタンスに懐いたのである。愛に飢えて異国の公爵と恋に落ちたように、家族のような理解者が宮殿内に欲しかったために年下の姉を求めたのだった。
シャルルが王妃に拝謁したとき、外見に共通点が多いコンスタンスと王妃だが、二人の美貌はどうも種類が違うとガスコンの少年は感じたが、それは間違いではない。
十五歳のコンスタンスはこれからいよいよ蕾を開く未成熟な美しさだが、その内面は母親のような慈愛に満ちている。彼女のこの温かさにシャルルは恋をした。
二十九歳のアンヌ王妃はいままさに満開の大輪の花だが、その心は幼稚で、誰かに愛されたいともがき苦しんでいる子どものようだ。
そんな危うい王妃だからこそ、コンスタンスは我があるじを放っておけないと思うのであった。そして、王妃もコンスタンスを我が姉のように頼るのである。
「さあ、王妃様。お休みください」
何とかアンヌ王妃を落ち着かせて、泊り込みの侍女に寝所まで連れて行かせると、コンスタンスはベッドに眠るシャルロットの額をそっと触った。高熱である。
(子どもは病気に罹ったら、簡単に死んでしまう。何とかして、薬を飲ませてあげたいけれど……)
そうすると、やはり医者が必要だ。明日、知り合いの町医者にシャルロットの病状を話して、薬を調合してもらおう。私が仮宮殿にこっそり薬を持ち込めば、誰にも気がつれないはずだ。そうコンスタンスがあれこれ考えていると、知らぬ間にシャルロットが目を覚ましていた。
「コンスタンス。どうして、まよなかにいるの?」
「え? シャルロット、フランス語が話せたの?」
いままで、シャルロットが英語でしか話しているところを見たことがなかったため、コンスタンスは驚いた。拙い発音ながらも、しっかりフランス語を話しているのである。
「うん。おとうさまに、おしえてもらったの。でも、フランスのことばがわかるのは、みんなにはないしょ」
「あら、秘密なのね。だったら、どうしていまはフランス語を話しているの?」
「コンスタンスは、シャーロット(シャルロットの英語読み)をイジメないから」
熱のせいで焦点の定まらない目をコンスタンスに向け、シャルロットはたどたどしい言葉で答えた。
「シャーロットはね、こうみえても、まけずぎらいなの。キャサリンおばさんに、おまえのははおやは、わるいおんなだった、だからしんだのよっていわれて、まいにちケンカしていたの。なぐられても、ごめんなさいっていわなかったわ。くやしかったから。でも、さいごにはおいだされてしまって……」
そこまで話すと、シャルロットは少し黙った。辛かったことをたくさん思い出したのだろう。継母に虐待された毎日のこと、父が死んで屋敷を追い出された日のこと、ロンドンの街で家の無い貧しい兄妹とともに物乞いをして、ときに食料をめぐって喧嘩をした日々のこと……。
「ことばがわかるから、ケンカになっちゃうの。だから、フランスにいったら、ことばをわからないふりしようって。いやなことをいわれても、ニコニコ、おばかさんでいられるもの」
「シャルロット……。でも、王妃様はあなたを可愛がってくれているでしょ?」
「おうひさまは、シャーロットじゃなくて、おとうさまをあいしているんだわ。シャーロットをだっこするとき、『ジョージ、ジョージ』って、なくんだもの」
アンヌ王妃がシャルロットを保護したのは、亡き愛人バッキンガム公爵ジョージ・ヴィリアーズを偲ぶよすがとするためである。そのことを幼いシャルロットは、敏感に察していた。
「シャーロットのおともだちは、コンスタンスとシャルルだけ」
「シャルロットったら、シャルルさんのことを気に入ったのね」
コンスタンスがアンヌ王妃のもとに出仕するたび、シャルルに会いたいと英語でコンスタンスにせがむのがシャルロットの日課だった。
「うん……そう。だから……」
また眠たくなってきたらしく、シャルロットはうとり、うとり、まどろみ始めた。
「お休み、シャルロット。いつかきっと、シャルルさんと会わせてあげるわ」
コンスタンスは、眠りに落ちたシャルロットの頭を優しく撫でた。この子の幸せは、パリの宮殿内で見つかるのだろうか。この国の王に知られてはならない秘密の存在として。
「あ! お、お待ちください!」
王妃の寝所から、女たちの慌てふためく声がした。大きな音も二度、三度と聞こえてきて、コンスタンスは思わず身構える。
何ごとだろう。コンスタンスはベッドから離れ、王妃の寝所に向かおうとした。しかし、彼女の目の前に驚くべき人物が現れ、コンスタンスはぎょっとする。
国王ルイ十三世が、ベッドに眠るシャルロットを血走った目で睨み、「汚らわしい、汚らわしい、汚らわしい」と狂ったように呟いているのだった。
翌朝、プチ・リュクサンブールのリシュリュー枢機卿の寝所には、トレヴィルとシャルルがいた。リシュリューの呼び出しに応じたのである。
「枢機卿の罠かも知れません。たった二人で敵の本拠地に出向くなど、危険すぎます」
銃士たちは敬愛する隊長代理の身を案じて、異口同音で引き止めたが、二十代の青年だったころからリシュリューに敵愾心を燃やすトレヴィルは、首を縦に振らなかった。
(来いと言われて、おめおめと逃げるのは、ガスコンではない)
半ば子どもじみた対抗心ではあったが、その枢機卿に対する負けん気が、トレヴィルをここまで登りつめさせたと言っても、過言ではない。
が、いざリシュリューに会ってみると、肩すかしを食らった。
「……よく来たな、トレヴィル君。げほ、げほ」
リシュリューは体調を崩して寝込んでおり、ベッドから起き上がることもできなかったのである。栗毛の馬に乗って決闘の場に颯爽と現れ、あの荒くれジュサックを殴り倒した威風堂々たるリシュリュー枢機卿とは、まるで別人のようだとシャルルも驚いた。
「昨日は、ちと激しすぎた。その無理が祟ったようだ」
リシュリューは十七世紀を代表する大物政治家の一人だが、非常に感情の起伏が激しい人物でもあった。普段は膀胱や痔の痛みに耐えるために陰鬱な顔をしているが、いったん怒ると癇癪を起こして部下を叱り飛ばし、悲しければ大声で泣き喚いて側近たちをうろたえさせるのである。そして、虚弱な身体が内なる激情に翻弄されて疲弊すると、いまのように寝込んでしまうのだった。
「聴罪司祭(罪の告白を聴き、赦しをあたえる司祭)を呼びましょうか。臨終に間に合うように、急がねば」
「トレヴィル君、嫌な冗談はやめてくれ。私はまだ十年以上は生きたいんだ」
「四十代で、あと十年しか余命を望まぬというのも、謙虚な話ですな」
「この病弱な身体では、それぐらいが妥当だろう」
リシュリューはようやく上半身を起こしたが、身体の痛みに耐えているらしく、呼吸が荒い。
「てっきり、昨夜の件を根に持って、私とこの少年を討ち果たす計画かと思っておりましたが、どうやらその元気は無さそうですな」
護衛士たちがいまトレヴィルたちを襲っても、弱っているリシュリューを人質にとれば、簡単にプチ・リュクサンブールを脱することができるだろう。
「いや、昨日のことは素直に謝ろう。私は一人の少年をここに連れて来ることだけを命じていたのだが、ジュサックが暴走してしまった」
「一人の少年とは、俺のことですか」
シャルルが初めて口を開くと、リシュリューは凛々しいガスコンの少年を見つめ、「ふむ。よい面構えだ」と呟いた。
「私が比類無き剣士と認めているロシュフォールの利き腕に、一突きを食らわしたというのは本当か」
「あの黒マントの男のことですか。そうです」
「ロシュフォールも君の剣技を褒めていた。それゆえ、我が護衛隊に招きたいと考えていたのだ」
あの陰険そうな黒マントが自分を褒めたというのが、いまいち信じられないシャルルだが、一国の宰相であるリュシュリューが一介のガスコンの少年に興味を持つなど、なおさら信用できない。
だが、リシュリューは穏やかな表情をシャルルに向け、「どうだね、見習い期間を免除してやってもいい。護衛士にならないか」と誘うのである。そばで近衛銃士隊長代理トレヴィルが、こめかみの血管をぴくぴくさせているのには、お構い無しだ。
シャルルが噂に聞いていたリシュリュー枢機卿とは、自分に逆らう者の命を平然と奪う冷酷な政治家だった。昨夜初めて見たリシュリューは、気性の激しい剣士ですら恐れ敬うほどの威圧感を持つ豪胆な人物に見えた。いまのリシュリューは、言葉巧みにシャルルを篭絡しようとする、狡猾な老人のようである。
(どれが本当のリシュリュー枢機卿なのか、分からない)
リシュリュー、トレヴィルのような度外れた傑物には、一面性だけでは語ることのできない複雑さがある。そのことを年少のシャルルはまだ知らない。だが、リシュリューに対する返答だけは、決まっていた。
「お断りします。俺は、近衛銃士隊に入るためにパリに来たのです」
「護衛隊の人間が、君の仲間を殺したことを怒っているのか?」
「それもありますが、猊下のお人柄が信用できないのです」
「ほう?」
「猊下は、ロシュフォールに命じて、か弱い女と子どもを襲わせました。正々堂々とした人間のやることではありません」
「例の私生児のことか……」
リシュリューはうめくようなため息をつくと、「あれは国家のためにしたことだ」とシャルルにではなく、トレヴィルを睨んで言った。
(君もバッキンガム公爵の私生児のことは知っているのだろう)
アンヌ王妃の心を盗んで、ルイ十三世の宮廷内に大きな混乱をもたらし、ラ・ロシェルの戦いではフランス軍を追いつめようとしたバッキンガム公爵。あの男の私生児が、いまアンヌ王妃の保護下にあることは、娘を王妃付きの侍女にしているトレヴィルなら、すでに知っているはずだ。だが、王妃びいきの銃士隊長代理は、あのスペイン女の愚かな行動を見守るつもりなのだろう。
バッキンガム公爵の娘をパリに、アンヌ王妃のそばに置いておくのは危険すぎる。その子どもを利用して、宮廷をかき乱そうとする者が現れる可能性は高い。そんなことも分からないトレヴィルではないはずだ。この男は孤独な王妃に同情しすぎだ、とリシュリューは苛立っているのだ。
「男にとって最も厄介な存在は女だ。女のか弱さなど、男の幻想にすぎないのだよ」
「それは、私に仰っているのですかな、猊下」
トレヴィルが睨み返す。枢機卿と銃士隊長代理の視線が火花を散らした。二人が初めて出会って以来、百回以上は繰り返されてきたことである。
そして、いつもこの睨み合いは、リシュリューが「まあいい」と笑って視線をそらすことによって終わる。十三歳年下の自分を若造扱いしているのだと、トレヴィルはそのたびに悔しがるのだが、二十代のころとは違い、三十二歳のトレヴィルはそのような感情を何とか隠せるように成長していた。
「君のことでもあるが、私自身のことでもあるのだ」
自嘲するような薄笑いで、リシュリューは呟く。トレヴィルは、じっと枢機卿を凝視したままである。シャルルは、話がどこに向かっているのか分からず、困惑するばかりだ。
「今日、ここにトレヴィル君を呼んだのは他でもない。宰相として、近衛銃士隊に任務の依頼をするためだ」
「銃士隊は、国王陛下直属の部隊です。宰相といえど、銃士隊に命令するなど、越権行為でしょう」
「それゆえ、依頼と言っておる。だから、君には拒否権がある。ただ、これはルイ十三世国王陛下の治世を揺るがしかねない一件なのだ」
「貴族の反乱ですか」
「違う。私にとって、国王陛下にとって、最も厄介な女が動き出した」
「その女とは……」
「マリー・ド・メディシス」
「太后様ですと! いや、いや、確かにあのお方は国王陛下と干戈を交えたことはあるが、すでに和解しているはず。太后様が猊下のことを憎んでいるという噂はもっぱらだが、陛下とは母子の関係が再びこじれたとは聞いていない。猊下、あなたはご自分の身を守るために、我々銃士隊を利用しようと企んでいるのではないのですか」
「相変わらず手厳しいガスコンだ……」
ひどくうんざりとした顔をして、リシュリューはぼやいた。だが、ごほん、と咳払いをすると、背筋を伸ばして表情を引き締め、人々から恐れられる辣腕宰相の顔になり、「よいか、聞きなさい」と言った。
「先王アンリ四世陛下が亡くなったころ、君はまだパリにいなかったから、詳しくは知らないだろうが、先王の死にまつわる噂話ぐらいは耳にしたことはあるだろう」
「いきなり何の話を……」
とまで言って、トレヴィルは口をつぐんだ。
先代の国王アンリ四世は一六一〇年の死の年に、ドイツ遠征を行なおうとした。国内を長期に渡って空けるため、王妃であるマリー・ド・メディシスにフランス統治の全権を一時委譲したのである。
アンリ四世が死んだのは、マリー王妃に国内の統治権を譲った翌日だった。
先王は馬車に乗っている最中、カトリックの狂信者によって暗殺されたのである。その日、アンリ四世の警護は不自然なほどに手薄だったという。
「まさか、太后様がやったと?」
「あの女はおのれの栄耀栄華のためなら、それぐらいのことはする。長年、彼女の下にいた私には分かるのだ。権力者になるために夫を殺した女が、自分を権力の座から引きずり下ろした息子を心から許していると思うか?」
「それは、つまり……」
「断言しよう。マリーは、私という国王陛下の盾を取り除いた後は、必ずや陛下を始末する。君が国王陛下の命令しか聞かないというのなら、そうすればいい。だが、君に今度命令を下してくれる国王は、ルイ十三世陛下ではなく、あの母親にべったりで無能な王弟オルレアン公かも知れないがな!」
リシュリューはそう叫ぶと、枕元にあった一枚の紙をトレヴィルに放り投げた。
それは、法務大臣ミシェル・ド・マリヤックが弟のルイ・ド・マリヤック元帥に宛てた手紙で、リシュリューの密偵が、昨夜、ルイ・ド・マリヤックの屋敷に潜入して入手したものだった。老大臣と弟の元帥の裏切りを早くから察知していたリシュリューは、長い期間に渡ってマリヤック兄弟を泳がせていたのだ。その手紙には、驚くべき文言が書かれてあった。
――リシュリュー排斥は間近。
――決起のために、バッソンピエール元帥を味方に引き入れろ。
――太后様は、王弟オルレアン公の即位をお望みである。
「……!」
「マリー太后の動向が怪しいと私はずっと彼女を見張っていた。そして、とうとう政府転覆の証拠をつかんだのだ。どうする、近衛銃士隊長代理トレヴィル! 私と手を組んでルイ十三世陛下を守るか! それとも、次の国王に仕えるか!」
トレヴィルは、クワッと目を剥くと、左胸に拳を激しく叩きつけた。
シャルルは、一人、パリの街を歩きながら「分からん、分からん」と唸っていた。
(いったい、何がどうなっているのやら……)
どう見ても犬猿の仲だったはずのリシュリューとトレヴィルが、一時的ではあるが同盟を結んだのである。しかも、もうすぐ国家を左右する大事件が起こるという。
(昨夜の銃士隊と護衛隊の争いは、無かったことにするのだろうか。双方で死人が出たというのに、そんな簡単に水に流せるものなのか?)
分からん、分からん。知恵者のニコラに話して、彼の意見を聞いてみたいとシャルルは思ったが、二コラの屋敷がどこにあるのか知らないので訪ねることもできない。
いったんトレヴィルとともに、トレヴィル邸に戻ったシャルルは、まだコンスタンスが帰宅していないと知って心配になり、様子を見るために仮宮殿まで向かっていた。
「む? 何だ、あの馬車は」
仮宮殿のすぐ近くまで来たとき、もの凄い速さで走る馬車とすれ違った。あんなに飛ばしていたら、歩行人を轢いてしまうぞと思いつつ、シャルルが気を取り直して再び歩き出すと、また馬車とすれ違った。これもすごい速さだった。
「ちぇっ。何なんだ、いったい」
シャルルがぶつぶつ言っていると、また前から何かが……。
「コンスタンス!」
「シャルルさん!」
シャルルは、仮宮殿から飛び出してきたコンスタンスとぶつかった。よろめいて後ろに倒れそうになったコンスタンスの手首をつかみ、ぐいっと自分の身体に引き寄せる。心の準備も無く愛しい人の身体に触れてしまったシャルルは、ひどく動揺したが、何とか平静を装って「ごめん」と身体を離した。
コンスタンスは、しばらく肩を上下させて、真っ青な顔で立ち尽くしていたが、
「シャルロット!」
と、叫ぶと、その場に膝をついて崩れてしまった。
シャルルは、自分が何かコンスタンスを傷つけるようなことをしたのではないかと思い、
「コンスタンス、どうしたのさ。俺が気に触ることをしたのなら謝るよ。だから、顔を上げてくれ」
と、オロオロするばかりで、コンスタンスがわななく声で呟く言葉の意味など、まったく分からなかったのである。
「お父様に知らせないと……。大変なことになってしまったわ!」
「シャルロットが攫われただと……」
トレヴィルは、血相を変えて屋敷に戻って来た娘の報告を聞き、ついに不測の事態が起きてしまったかと舌打ちした。
波乱は覚悟していた。そして、アンヌ王妃を守る決意も。だが、よからぬ陰謀が起きようとしているこの最悪なときに、しかも、シャルロットを仮宮殿から連れ出したのがマリー太后だと聞いて、トレヴィルは狼狽したのである。
(あのお方は、シャルロットを利用して、王妃様を自らの陰謀に引きずり込む気だ)
コンスタンスが説明した、昨夜から今日の午前までに起きた仮宮殿での出来事は、以下の通りである。
まず、国王ルイ十三世に、バッキンガム公爵の娘をアンヌ王妃が保護していることを教えたのは、マリー・ド・オートフォールという宮廷女官だった。
女官オートフォール嬢は、女嫌いと言っていいほど潔癖だったルイ十三世が、初めて恋をした妖美な十四歳の少女だ。アンヌ王妃は、夫が女官に夢中になっているのを横目に、男女の快楽を国王が知って、自分にも興味を示してくれるようになるのなら、それでいいと考えていたようである。だが、この女官は、もとはマリー太后の侍女だった。
シャルロットの存在を何らかの方法で知った太后が、かつて自分に仕えていたオートフォール嬢を使い、ルイ十三世の耳に入れたのだ。
激怒したルイ十三世は、真夜中、長らく訪れていなかったアンヌ王妃の寝所にズカズカと入り込み、「汚れた血を引いた子どもはどこだ!」と怒鳴った。
突然のことに驚いたアンヌ王妃は、シャルロットが眠っている隣室のドアの前に立ち、夫の行く手を阻もうとしたが、それではそこにシャルロットがいると教えているのと同じである。
「そこにいるのか、あの公爵の子が」
「な、何のこと? 誰もいないわ!」
「お前はなぜ、いつも朕を困らせることばかりするのだ! そこをどきなさい!」
王妃を押しのけ、ルイ十三世はシャルロットの眠る部屋に入った。そして、その憎き私生児を発見すると、「いますぐパリから追い出す!」と叫んで、シャルロットをベッドから引きずり下ろそうとしたのだ。
シャルロットの看病をしていたコンスタンスが、国王にすがりつき、哀願した。
「陛下、どうかお慈悲を。この子はいま病気なのです。この夜更けに外に放り出されたら、十一月の冷えた空の下、とても生きてはいられません」
「君はトレヴィルの娘ではないか。答えなさい、この子がバッキンガムの私生児か?」
「私の口からは何も答えられません。ただ一つはっきりしていることは、この幼い子は、陛下のご決断次第で、今夜にも命を落としてしまう哀れでか弱き存在だということです」
「……哀れなのは、妻に裏切られ続ける朕のほうだ」
シャルロットは、真夜中に仮宮殿から追い出されることは、何とか免れた。しかし、ルイ十三世は、「明日には朕のいる場所から遠ざけるように」とコンスタンスに命じたのである。もはや、そうするしかなかった。
絶対にシャルロットを手放さないと駄々をこねるアンヌ王妃をコンスタンスは何とか説得し、トレヴィル邸で預かることにした。そして、翌朝、病気のシャルロットを安静に運ぶため、コンスタンスが馬車の手はずを整えていたとき、予想もしていなかった人物が仮宮殿に現れたのである。
マリー太后だった。
「ルイ。ちょうどいま、十歳ぐらいの召使が欲しいと思っていたのよ。この子、私が貰ってもいいかしら。さんざんにこき使ってあげるから」
太后はルイ十三世に一言だけそう言うと、供の者に命じて、熱でふらふらのシャルロットを強引に連れ出し、馬車に乗せてしまったのだ。
そのままリュクサンブール宮殿へと走る太后の馬車。それを追いかけて、アンヌ王妃も馬車に乗り込み、シャルロットを救いに向かった。太后のような人に連れて行かれたら、シャルロットは奴隷のような扱いを受けるに違いないと思ったのである。
「私は、お父様にこのことを知らせるために、王妃様と別行動をとったのですが……」
語り終えたコンスタンスは、果たしてその判断は正しかったのだろうかと思い悩み、目を伏せた。単身、リュクサンブール宮殿に乗り込んだアンヌ王妃のことが心配なのだ。
「これでよい」
言葉短かにトレヴィルはそう言うと、娘の栗色の髪を撫でた。
マリー太后は、シャルロットを人質にして、アンヌ王妃を陰謀の仲間にしようとしているのだ。浅はかな彼女は、太后の口車に乗ってしまうかも知れない。ならば、シャルロット救出も、リシュリューと不本意ながら共同で計画した明日決行の作戦に組み込む必要があるだろう。
トレヴィルは、閉じられたドアの向こう側で盗み聞きしている少年に向かって、大声で呼びかけた。
「シャルル! 全部聞いていたのなら、話は早いだろう! 君に銃士としての資質を試す機会をあげよう!」
同じころ、リュクサンブール宮殿では。
「太后様、シャルロットをお返しください!」
玉座の間で、マリー太后とアンヌ王妃が対峙していた。
玉座に深々と腰かける太后の足もとでは、シャルロットが高熱のあまりへたり込んでいる。アンヌ王妃は、マリー太后の近臣たちに遮られて、シャルロットに一歩も近づくことができない。
「いいわよ、返してあげるわ。ただし、私のお願いを聞いてくれたらね」
「な、何ですか」
アンヌ王妃は、不敵に笑うマリー太后に怯えつつ、聞いた。フランスに嫁いできたころ、十代の王妃は、この恐ろしい鬼姑に陰湿ないじめを受け、自尊心をズタボロにされたのだ。
「この薬を明日の夕食に、ルイの食事に混ぜなさい」
太后から小瓶を受け取った侍女が、王妃のもとにそれを運んで来る。
「え? 何ですか、これは……」
不吉な予感がして、アンヌ王妃は玉座のマリー太后を見つめた。
「分からないの? 察しの悪い子ねぇ。そんな馬鹿だから、ルイに嫌われるのよ」
「太后様、これをルイが口にすると、どうなるのですか。お、教えてください」
「そうするとね、あなたはスペインに帰れるの」
「どうして……」
「アンヌ。私はこう見えても、あなたに同情しているのよ。愛無き夫の束縛に苦しむその姿は、昔の私に似ているわ」
「も、もしかして、この薬で、ルイを……」
「夫婦とは、悲しいものね。そばにいても、ただの他人なのだから。ずっと分かり合えない。誰よりも近くにいるからこそ、距離を感じる。それでも愛を期待してしまい、裏切られ、憎しみに変わる。その苦しみから、あなたを解放してくれるのが、その薬よ」
「私は、ルイに死んで欲しいとまでは思っていません!」
「そう。だったら、この子を殺すわ。あなたが心から愛した男の忘れ形見をね」
マリー太后は、シャルロットの長い髪をつかんで顔を上げさせると、爪が鋭く伸びた五本の指で小さな首を絞めた。シャルロットは、声を出すことができず、苦悶の表情を浮かべる。
「残酷すぎるわ! そんな小さな子を!」
「ならば、言うことを聞く?」
「……太后様。あなたにとっても、ルイはかけがえのない息子なのではないのですか」
「あの子は、偉大なるマリー・ド・メディシスの生涯に傷をつけた親不幸者よ!」
激昂したマリー太后は、シャルロットを床に叩きつけた。
「いじめないで! どうして、シャーロットをいじめるの!」
これまでじっと耐えていたシャルロットが、ついに感情を爆発させた。泣きじゃくりながらも、醜悪な笑みを浮かべるマリー太后に反抗のまなざしを向ける。
「ほう。あなた、フランス語が話せたのね」
「だって、もう、がまんできないから! シャーロットは、なにもわるくないのに!」
「いいえ。あなたの存在そのものが罪よ」
マリー太后は、自分の肥満した肉体とはまるで対照的な、シャルロットのほっそりとした身体を憎々しげに見つめる。
太后の生まれ育ったイタリアでは、豊満な女性が美しいとされた。若き日のマリーは、その豊かな肢体を人々に褒めそやされたものだ。しかし、嫁いだ国のフランスでは、しなやかな細い身体が愛された。フランスでのマリーの扱いは、「デブな商人の娘」だったのである。
(このシャルロットという子は、大人になれば、たくさんの男どもに愛されるフランス人好みの肉体になるだろう。
私だって、イタリアで結婚をして、イタリア人の夫と家庭を築いていれば、美しい妻、美しい母として幸せに過ごせたのだ。メディチ家の持参金目当てのアンリ四世に嫁ぎさえしなければ……)
マリー太后は、乱暴にシャルロットの腕をつかんだ。太后があまりにも恐ろしい形相で睨むので、シャルロットは「ひっ……」と声を引きつらせた。
「あなたの身体に百合の烙印を押してあげる。罪深い人間が、その犯罪の証として身体に押される焼印よ」
「シャーロットは、わるいことなんて……」
「いいえ。あなたはきっとなるわ。たおやかな肢体で男どもを魅惑する妖婦にね。だから、将来、愚かで可哀想な男どもがあなたに惑わされないように、その肩に罪人の証を刻んであげる!」
太后は、もの凄い力でシャルロットを引きずり、玉座の間から去ろうとした。アンヌ王妃が「シャルロット!」と叫ぶと、太后はちらりと王妃に視線をやって微笑んだ。
「その薬、今夜はルイの食事に混ぜないでね。明日、ルイに最後の親孝行をしてもらわないといけないから」
アンヌ王妃は震える手でその小瓶を握り締め、膝をついて泣き崩れた。玉座の間には、すでにマリー太后とシャルロットの姿はなく、遠い部屋から少女の悲痛な叫び声が聞こえてきた。
七章につづく
というわけで、シャルロットは罪人の証である百合の烙印をおされてしまいました。これで三銃士が好きな人はシャルロットが何者なのかお分かりになると思います。
次回から決戦に向けてクライマックス一直線です。七章もどうかご覧ください!