ロマンス前夜
「ダルタニャンとマリー・ド・メディシスの陰謀」の三話目です。
この章から「欺かれし者の日」事件の中心人物となるマリー太后が登場します。マリー太后が企む陰謀とはいったい・・・?
ではでは、ご照覧あれ~。
三章 ロマンス前夜
トレヴィルの邸宅には、昨夜にシャルルが出会ったような銃士たちがごろごろといて、庭で喧嘩まがいの剣の試合をしている荒くれ者たちや、厨房でこっそりとワインを盗み飲みしている飲兵衛、枢機卿の護衛士と争いになったときにいかに自分が活躍したかを仲間たちに言いふらしている目立ちたがり屋など、多種多様、国王に仕える軍人たちの屯所というよりはならず者どもの巣窟のようなありさまだった。
「コンスタンス、お帰り」
「今日も綺麗だね」
「宮廷は肩が凝るだろ」
コンスタンスは銃士たちの人気者らしく、喧嘩中の乱暴者たちは慌てて剣を鞘におさめてあいさつし、のんだくれの銃士はワインの瓶を背中に隠しながらでれでれとした顔でコンスタンスを褒め、自慢話を競っていたお調子者たちはトレヴィル殿の娘にねぎらいの言葉をかけた。
そして、コンスタンスの後ろに見知らぬ少年がいるのを発見すると、
(何だ、こいつ)
俺たちのコンスタンスとぴったりいやがって、という敵愾心を燃やしながら、銃士たちはシャルルを睨むのであった。シャルルは、なぜ自分が睨まれているのか分からなかったが、睨んでくる奴にはとりあえず睨み返した。負けん気なら誰にも劣らぬガスコンの少年なのである。
「ここが父の部屋よ」
そう言いながら、コンスタンスはドアを叩いて、室内で「入りなさい」という声がすると、シャルルをトレヴィルの部屋に招き入れた。
シャルルは、謁見の間とでも呼ぶべき大きくてお宝がたくさんある部屋に案内されるのだと勝手に考えていたが、銃士隊長代理トレヴィルの部屋は意外なほど小さく、まったくと言っていいほど華美さも無くて、素朴な執務室だった。
「お父様、ただいま戻りました」
「ああ」
「昨晩、お話したシャルルさんをお連れしました」
「うむ」
「お父様」
「何だ」
「服を着てください」
精悍。
その一言に尽きる、上半身をもろ肌脱いだ筋肉質の男が、机の上に胡坐をかいてサーベル剣の手入れをしていた。この人物こそがガスコーニュ出身の出世頭、ガスコンの憧れの的のトレヴィル伯爵だった。フランス軍のイタリア遠征に従軍し、帰還したばかりなのである。
シャルルは五十代ぐらいの老軍人を想像していたのだが、いま目の前で見るトレヴィルはどう見ても三十代前半の壮年である。
ブロンズ色に日焼けした肌と強靭な体躯。頭部の毛を全て剃り落としており、頭髪、眉毛、髭など何一つ生えていない。上半身は裸のくせしてなぜかベレー帽を頭にちょこんとのせている。全体的にいかつい印象なのだが、唯一、目だけは涼やかで貴人を思わせる気品が漂っていた。
「暑い」
トレヴィルがぶっきらぼうに言うと、コンスタンスは「もう」と頬を膨らませた。
「確かに今日は暑いですが、お客さんの前ですから」
コンスタンスは床に脱ぎ捨てられていた上着を拾い、トレヴィルに無理矢理着せようとした。娘のお節介に顔をしかめたトレヴィルだが、サーベルを鞘にしまって大人しく服を着た。そんな父娘のやりとりを見ながら、まったく似ていない親子だとシャルルは思うのであった。
「で、君がベルドラン殿の四男坊か」
トレヴィルは椅子に腰かけ、シャルルに笑みを向けた。さっきまでの無愛想な父親の顔とは違い、目下の者を可愛がる、気のよい上司の顔である。
「お初にお目にかかります。シャルル・ド・バツ・カステルモールです」
シャルルは恭しくあいさつをし、愛嬌よく微笑んだ。
コンスタンスが、あらかたの事情は話しておいてくれたらしく、シャルルが近衛銃士隊に入るためにパリまで来たこと、正体不明の黒マントの男からコンスタンスを救ったこともトレヴィルは知っていた。
また、コンシェルジュリー牢獄からトレヴィル邸までロシナンテを連れて来た下男(やはり、三回ほど噛まれたらしい)が、昨晩のシャルルを襲った悲劇についてトレヴィルに報告していたので、銃士隊長代理は現在のシャルルの状況をおおかた把握していた。
「父君から預かった、私への紹介状を失ったそうだな」
「面目次第もございません」
シャルルが気まずそうに顔を伏せると、「いや、こっちも悪かったんだ」とトレヴィルは言った。いままでパリ貴族の言葉遣いだったのが、急に土臭いガスコーニュ訛りになったので、驚いてシャルルは顔を上げた。トレヴィルの故郷のベアルンと、シャルルの故郷のカステルモールでは同じガスコーニュでも少々訛りにも違いはあるが、同じガスコンとしての親しみが湧いてくるのであった。
「君を捕まえたのは、うちの銃士たちだからな」
トレヴィルはそう言うと、机に置いてあった鈴をチリンチリンと鳴らした。すると、隣室の控えの間にいた銃士三人が気まずそうな顔をして入って来た。
「ああ!」
シャルルは思わず大声を上げて、彼ら銃士を指差す。なんと、昨日シャルルを牢獄へと連行した三人組の銃士ではないか。
「いやぁ、一日振り」
「お元気でしたか?」
「健勝そうで何よりだ」
銃士たちは口々にあいさつするが、きまりが悪そうだ。シャルルはもの凄い形相で彼らをねめつけた。
「紹介しよう。右からアドルフ、アラン、ボドワンだ」
威厳堂々たる風貌の銃士アドルフが、シャルルに握手を求めてきた。その手をはねのけてやろうかと思ったが、まさかトレヴィルの前で悪態をつくわけにもいかない。渋々、シャルルはアドルフと握手をした。ただし、思いきり力を込めて。
「痛っ!」
続いて紳士風の銃士アラン、巨漢の銃士ボドワンとも握手していく。アランは、見た目よりもずっと怪力なシャルルの握力にやられて、情けない声を上げた。
実はシャルルと同じガスコーニュ出身であるボドワンは、ガスコン特有の負けず嫌いを発揮して全力で握り返し、シャルルとにらめっこを始めた。
「こら、ボドワン。昨日のことは俺たちが悪かったんだ。大人しく引き下がれ」
「そうですよ。まだ私たちはシャルル君に謝罪していない」
アドルフとアランにたしなめられて、ボドワンは「ううむ」と唸りながら手の力を緩めた。それを見て取ったシャルルは、いまだ、とばかりにさらに力を込めてボドワンの手を握る。ボドワンは「ぎゃぁぁ!」と叫ぶしかなかった。
「シャルル君。気は済みましたか?」
アランがたずねると、シャルルは笑顔で頷いたので、「では、昨日の謝罪を」と三人の銃士たちはそろって若きガスコンの少年に頭を下げた。
「早とちりで豚箱に放り込んで悪かったな」
「後で調べて分かったことなのですが、君が昨日揉めていた相手は口八丁のジャックといって、盗んだ物を売りさばくタチが悪い泥棒だったのです」
「しかも、持ち主が取り返しに来ると、昨日みたいに舌先三寸で相手を地獄に陥れる、ふてぇ野郎なのさ」
銃士たちがかわるがわるにする説明を聞いていて、シャルルは、自分以外にもあのコソ泥の被害に遭った人がいるのか、それは見逃せぬと義憤に駆られるのであった。
「そいつは、必ず俺が懲らしめます」
トレヴィルに向き直り、シャルルはそう宣言した。向こう見ずな性格のシャルルには、あのコソ泥を広いパリの街から捜し出し、鉄槌を下すという根拠無き自信があったのである。トレヴィルは頷き、
「頼もしい言葉だ。それでこそ、ガスコン。銃士を目指す男だ」
と、若き同郷人を褒め称えるのであった。
「もし、そのジャックという泥棒から紹介状を取り戻すことができたら、その日から君を銃士の見習いにしてあげよう」
国王を守る近衛銃士隊はそう簡単に入れるわけではなく、数年間のいわゆる試用期間があり、その間の給料は出ない。銃士隊から生活費だけはもらって、一生懸命に働き、一人前と認められたら銃士の隊服が着られるのである。
「しかし、口八丁のジャックがいつまでもパリにいるとは限らない。ジャックが見つからず、紹介状を取り戻せなかった場合は、銃士隊のために何か手柄を立てなさい」
「手柄、ですか?」
「そうだ。君が銃士としての資質を自ら証明できるのならば、喜んで君を迎えよう」
紹介状が無いのならば田舎に帰れ、と言われるのではないかと心配していたシャルルはトレヴィルの恩情に感謝した。
「お任せください!」
どん! と胸を叩いて、シャルルはトレヴィルに約束するのであった。
しかし、一つだけシャルルには分からないことがあった。
「俺の兄は、銃士隊にいないのでしょうか?」
昨日のことを思い出す。銃士隊長代理の娘であるコンスタンスも、三人の銃士アドルフ、アラン、ボドワンも、シャルルの兄を知らないと言ったのだ。カステルモール家の長男ポール・ド・バツ・カステルモールは、確かに数年前に近衛銃士隊に入ったはずなのに。それとも、兄は「俺は銃士隊に入った」などと嘘の手紙を故郷に送っていたのだろうか。
「いや、シャルル。君の兄ポールは我が隊に所属している。しかも、アドルフ、アラン、ボドワンの友だちだ」
トレヴィルがそう言ったので、シャルルは再度三人組の銃士を睨むことになった。昨日は知らないと言ったくせに、兄貴と友だちだったなんて!
「ま、待て、シャルル。これに関しては、俺たちは悪くはないんだぜ?」
ボドワンが慌てて弁解する。それに続いてアランもシャルルをなだめるように言った。
「そうです。私たちは、本当にポール・ド・バツ・カステルモールという名前を知らなかったのですよ。なぜなら……」
「なぜなら、俺たちの友だちはポール・ダルタニャンだからさ!」
アドルフが役者のような仕草で両手を広げて言うと、今度はシャルルが「誰だ、それ?」と首を傾げた。
(ダルタニャン? その姓は確か……)
シャルルが「もしかして、それは……」と言いかけるよりも前に、新たな人物がトレヴィルの部屋に入って来た。
その人物、銃士隊の隊服である青羅紗のカサック外套を着込み、シャルルと同じ褐色の髪、そっくりな容姿である。違う点といえば、シャルルがギラギラ輝く男らしい目と日焼けした肌をしているのに対して、彼は優しげで女のような目と色白の肌をしていることだ。
「兄貴!」
「シャルル、大きくなったな。六年ぶりだったかな」
相変わらず気取った話し方だと思いつつも、肉親との久方振りの再会をシャルルは素直に喜んだ。
「兄貴。どうして名前を変えて……」
「うわっ。お前、めちゃくちゃ臭うぞ」
「そんなことより、名前……」
「今日からお前は、俺と同じ下宿先で寝泊りする。さっさと帰って身体を洗うぞ。その臭さはいかん」
(人の話を聞かない癖、まったく直っていないな……)
シャルルはため息をつきながら、兄ポールが名前を変えた理由は後でゆっくり聞くしかないと諦めるのであった。
「トレヴィル殿、コンスタンス。今日は私の愚弟がご迷惑をおかけしました」
弟が呆れ顔になっていることなど気にもしないポールは、トレヴィルとコンスタンスに折り目正しく礼を言った。
ポールとコンスタンスの目が合うと、コンスタンスはプイと顔をそらしてシャルルに話しかけた。
「そういえば、シャルルさん。ロシナンテのこと、忘れていない?」
コンスタンスにそう指摘されて、「あ! うっかりしていた!」とシャルルは叫ぶ。トレヴィル邸の厩舎で愛馬ロシナンテを預かってもらっていたのだった。
「はぁ? ロシナンテだって? あの駄馬、まだ生きていたのか」
ポールが嫌なものを思い出してしまったとばかりに、顔をしかめる。気位が高くて滅多に人に懐かないロシナンテが、最も嫌っていた人間がポールで、少年時代のポールがロシナンテに乗ろうとするたびに、あの馬は暴れてポールを地面に叩き落としていたのである。
「しかし、よくあの怠け者がガスコーニュからパリまで人間を運べたな」
「いや、途中から俺がロシナンテを背負って来た」
「売っちまえ! そんな馬!」
ポールがシャルルの肩を小突きながらそう言うと、トレヴィルやアドルフたち銃士三人は声を上げて笑った。笑えないのはシャルルだ。
(兄貴が言うと、冗談に聞こえないから困る)
この長兄だけは昔からどうも苦手だと二度目のため息をついたシャルルは、コンスタンスもぜんぜん笑顔ではないことに気がついた。窓から差し込む夕日のせいか顔が赤く染まり、じっとうつむいている。
どうしたのだろう、と心配するとともに、切ない感情がシャルルの胸を締め付けた。コンスタンスの何気ない表情や仕草のひとつひとつが、シャルルには魅惑の魔法のように思えるのであった。
シャルルがポールに連れられてフォッソワイユール街の下宿先に行き、アドルフ、アラン、ボドワンら銃士たちも退出すると、トレヴィルの執務室には父と娘が二人きりとなった。
トレヴィルは部下たちがいなくなると、早速、服を着崩して行儀の悪い座り方になった。これはトレヴィルの性分で、くつろぐときに服はきちんと着たくないし、姿勢正しく落ち着いていたくないのである。娘のコンスタンスは何度か父を矯正しようとしたが、十二歳のころに無駄な努力だと悟り、人前以外ではトレヴィルの悪癖に文句を言うことはなくなった。
「どうだった」
トレヴィルは言葉短かに、コンスタンスに問う。どうだったとは「王妃様のご様子はどうであったか」ということである。生来のトレヴィルは極端に無口な男で、唯一の家族であるコンスタンスと話すときには言葉数は非常に少ない。それでも、コンスタンスには父の言いたいことが理解できた。
「シャルロットを我が子のように可愛がって、一時もそばから離そうとなされません」
「あの御仁の忘れ形見ゆえな……」
トレヴィルは、五年前に起きたアンヌ王妃の許されぬ恋、ダイヤモンドの首飾り事件を回想する。
当時、二十四歳であった王妃の心を奪ったのは、イギリスの宰相バッキンガム公爵だった。
英国一の色男として知られたバッキンガム公爵は、かつてお忍びでパリを訪れた際に、宮廷の舞台で女神の役に扮して踊っていた若き王妃アンヌにひと目惚れしてしまった。危険な恋であればあるほど燃え上がる性質の彼は、何としてでも他国の王妃であるアンヌを我が恋人にしたいと強く願ったのである。
一方のアンヌ王妃は宮廷内で孤独だった。夫のルイ十三世はもともと「純潔ルイ」と渾名されるほど女性への欲望が淡白なうえ、アンヌ王妃が妊娠するたびに流産して世継ぎを産めないことに腹を立てていて夫婦関係は冷え切っていた。さらに、宰相であるリシュリュー枢機卿の政策を採用して、フランスはアンヌ王妃の実家であるスペイン・ハプスブルク王家と敵対する姿勢をとっていたのである。スペインから付き従って来た王妃の女官たちも早い時期に追い出されていた。王妃は孤立感に苦しみ、愛に飢えていた。
バッキンガム公爵が恋の本懐を遂げるのは、一六二五年のことだった。公爵はイギリスの正式な使者として、フランスを訪れたのである。フランス国王ルイ十三世の妹ヘンリエッタ・マリアをイギリス国王チャールズ一世の王妃として迎えるためにやって来たのだ。
そのバッキンガム公爵の二度目のパリ訪問時に、公爵とアンヌ王妃は急接近し、ある晩に王妃の閨から英語で囁かれる愛の言葉と艶めかしい女の嬌声が聞こえてきた。そういう噂がパリで流れたのである。
事の真相は当の二人と、ルイ十三世によって処罰された王妃付きの侍女数名しか知らない。しかし、アンヌ王妃がバッキンガム公爵に魅かれていたのは事実だったろう。なぜなら、王妃は愛の印としてダイヤモンドの首飾りを公爵に手渡していたのである。
だが、このことが夫であるルイ十三世に露見しそうになった。さらにリシュリュー枢機卿からも責められ、アンヌ王妃は銃士隊長代理のトレヴィルに泣きついた。トレヴィルは帰国したバッキンガム公爵から首飾りを取り戻すべく銃士数名をイギリスまで密かに派遣したのであった。これがダイヤモンドの首飾り事件である。
その後、バッキンガム公爵は暗殺されて死ぬ。フランスの西部ラ・ロシェルでルイ十三世に反旗を翻した反乱軍を支援するために続々とイギリス艦隊を送り込もうとしていた最中のことであった。
(まさかとは思うが、バッキンガム公爵はフランスを倒し、本気で王妃様を我が物にしようとしていたのでは……?)
くだらぬ妄想と考えつつも、トレヴィルはときおりそう思う。あの情熱的な色男ならばやりかねないと。そして、王妃は亡き恋人の破滅的な愛にいまでもとらわれている。その証拠が、あのブロンドの少女シャルロットだ。
バッキンガム公爵にはキャサリンという妻がいたが、それ以外にもたくさんの愛人をあちこちに囲っており、その愛人の一人が産んだ私生児がシャルロットだった。シャルロットの生母は産後の肥立ちが悪く死んだため、公爵は正妻のキャサリンにシャルロットを養育させたが、憎い愛人の子であるシャルロットをキャサリンは虐待していたのである。
シャルロットにとって唯一の頼りだった実父が軍港ポーツマスの酒場で凶刃に斃れると、哀れなブロンドの少女は継母によって屋敷を追い出されてしまったのであった。
バッキンガム公爵の忘れ形見がロンドンの街で路頭に迷い、物乞いをしているという情報を友人であるシュヴルーズ公爵夫人(ルイ十三世と対立して国外に逃亡中)から手紙で知らされたアンヌ王妃は、
「ぜひともその女の子を救い出して、私の手で育てたいわ」
と、言い出したのである。シュヴルーズ公爵夫人とバッキンガム公爵の元側近(公爵と王妃の密会の手引きをした人物)の手を借りてシャルロットをロンドンから連れ出し、パリに到着したシャルロットを侍女であるコンスタンスに迎えに行かせたのが昨日なのだ。
アンヌ王妃は、愛した男の娘シャルロットを大切に養育することで亡き恋人への愛を貫こうとしているのである。
(国王陛下がこのことを知れば、激怒されるだろうに)
トレヴィルは、シャルロットが原因でルイ十三世とアンヌ王妃の関係がさらに悪化することを危惧している。同じ宮廷内にいて、シャルロットの存在を隠し通せるはずがない。また、ルイ十三世がまだ気がついていないとしても、リシュリュー枢機卿はバッキンガム公爵の私生児がパリに入ったことを察知しているはずだ。昨日、コンスタンスとシャルロットを襲ったという黒マントの男は枢機卿の配下に違いないとトレヴィルは読んでいる。
リシュリューは数多くの政敵を苛烈な手段によって次々と屠り、フランス王国の権力を掌握した恐るべき政治家である。スペイン・ハプスブルク王家との関係をめぐって対立しているアンヌ王妃を陥れるための材料として、シャルロットを利用しようとしても不思議ではない。
トレヴィルは、国王ルイ十三世のためならば死をも恐れぬ忠節無類の男だが、愚かしくも哀れな王妃アンヌにも同情している。だから、二人の仲をこれ以上悪化させたくないと切に願っているのだ。
バッキンガム公爵の件で追放された侍女たちに代わって、娘のコンスタンスを王妃の侍女として宮廷内に入れたのも、トレヴィルが宮廷で起きる様々なことを把握して不測の事態にいつでも対応できるようにするためだった。コンスタンスは父から、アンヌ王妃の相談役だけでなく、王妃が首飾り事件のときのような自分の立場を悪くする浅慮な行動をとったときに、トレヴィルにそれを報告する役目を与えられている。
このシャルロットの一件が不測の事態につながるか否か? それはトレヴィルにもまだ分からない。しかし、何かしらの波乱は覚悟しなければならないだろう。
「目を離すな」
トレヴィルは、コンスタンスの手を握って言った。娘よ、これは王家のための重要な仕事なのだと。コンスタンスは父の思いを察し、「はい、お父様」と強く頷いた。
王妃の動向、国王の機嫌、枢機卿の思惑……。このうち国王と枢機卿に目を光らせるのは父トレヴィルの役割、王妃を見守りつつ監視するのが娘コンスタンスの役割なのだ。
しかし、トレヴィルにも盲点があったのである。この国を揺るがす力を持った四人目の存在を見逃していた。
かつてフランス王国・ブルボン王家を牛耳り、絶大な権力を握った女がいる。失脚した後は人々にその存在を忘れられかけていたが、その女は国王、王妃、枢機卿の動静をじっくりと観察しつつ、再び権力の座に返り咲く機会を狙っていた。
女の名は、太后マリー・ド・メディシス。先王アンリ四世の王妃にして、現国王ルイ十三世の生母である。彼女が、一六三〇年晩秋のフランスをかき乱すことになる。
パリには、国王ルイ十三世のルーヴル宮殿以外にも、母のマリー太后が居住するリュクサンブール宮殿があった。イタリア・フィレンツェの名門メディチ家の生まれであるマリー太后が、若いころに自分が住んでいたメディチ家のピッティ宮殿を真似て改築させた宮殿である。リシュリュー枢機卿のプチ・リュクサンブールとは目と鼻の先にあった。
晩餐を終えたマリー太后は、三男のオルレアン公ガストンを伴って、宮殿内に飾られた全二十一の連作絵画を鑑賞していた。
『マリー・ド・メディシスの生涯』
これが連作絵画の題名である。マリー太后本人がバロック絵画の巨匠ルーベンスに命じて制作させたもので、大した偉業を成したわけでもない太后の人生を神聖かつ壮大に描いている。
知恵の女神ミネルヴァから教育を授かって賢く育つ少女マリー。
神の祝福のもとフランスに嫁ぎ、新郎アンリ四世に熱いまなざしを注がれる花嫁マリー。
夫の死後、幼い息子ルイ十三世を守って摂政となった賢母マリー。
それらの絵画に描かれた自分の栄華をマリー太后は満足そうに眺め、ガストンはたっぷりのおべっかで母の偉大さを褒め称えている。
しかし、全てが虚飾だった。
マリーは聡明と呼ばれるにはほど遠い女性で、嫁いだ国の言葉を習得する根気も持たず、フランス語を話せるようになるのにかなりの歳月がかかった。
では、夫を魅了する美女であったのかといえば、それも違う。アンリ四世が「見合いの肖像画とまったく違う!」と叫んでしまうほどぶくぶくと太っていたのである。
そして、息子のルイ十三世との関係も最悪だった。摂政であったマリーは先王の政策を無視した政治を行なって人々の信頼を失ったあげく、成人したルイ十三世のクーデターにより一時期幽閉されたこともあるのだ。このときのクーデターで、マリーの寵臣であり愛人でもあったコンチーノ・コンチーニ元帥は暗殺され、コンチーノの妻でマリーの侍女だったレオノーラ・ドーリも魔女として処刑された。
いまは息子と和解して静かにリュクサンブール宮殿で暮らしているマリー太后だが、それは表向きのことだった。この女は、その肥満しきった脂肪だらけの巨体ですら覆いきれない、大きな野望を心中でたぎらせていたのである。
「世間の評価など気にしない。私は偉大なのよ」
息子によってパリを追放されたときの場面を描いた『パリを去る王母』を憎々しげに見つめながら、マリー太后は呟いた。フランスに嫁いで三十年、いまだにイタリア訛りがひどい。
「母上は、ブルボン王家になくてはならないお方です」
すかさず、ガストンが追従すると、マリー太后は「ほほほ」と甲高い声で笑った。脂ぎった肉厚の頬が小刻みに揺れる。
(正直、ブルボン王家など、どうでもいい)
そう思いつつ、母に従順な我が子の頬を撫でた。
「もうすぐよ。あとほんの少しだけ辛抱をしていたら、私たちに幸福が転がり込んでくるわ。それまで、楽しみに待っていなさい」
「と、言いますと?」
「ルイに、リシュリューの罷免を約束させたのよ」
ガストンは目を大きく見開き、「おお、あの憎き宰相を……」と呟いた。
リシュリュー枢機卿は、かつてはマリー太后の腹心であった。しかし、取り立ててやったにも関わらず、太后の一派がルイ十三世によって粛清されてその力を大きく失った後、自分だけ上手く立ち回り、いつの間にかフランスの最高権力者となった裏切り者だ。
リシュリューにも、「国王と太后の和解を仲介したのは、この自分なのだ」という言い分があるのだが、太后はそんな些細なことは忘れてしまっている。太后はリシュリューを激しく恨み、リシュリューもかつての後ろ盾を煙たく思っていた。険悪な仲と言ってよい。
「しかし、国政をリシュリューに頼りっぱなしの兄上が、よく承知しましたな」
「ふん。あの子とリシュリューの絆など、うわべだけ。ルイは、政治家としてのリシュリューを尊重していても、リシュリューという一個の人間は嫌いなのよ」
先月の十月まで続いたイタリア遠征。この間、リヨン(フランス南東)に宮殿を置いていたルイ十三世が突然倒れ、国王危篤の噂が流れた。
喜んだのは、力を失っていたマリー太后の一派や反リシュリュー派の人々である。国王が死んだ後、太后に従順な王弟ガストンを即位させれば、マリー派はかつての勢威を取り戻すことができると期待したのだ。そして、リシュリューを追放または処刑するための密議も行なわれた。
しかし、ルイ十三世は奇跡的に死神から逃れたのである。王弟即位とリシュリュー排斥の計画は水泡に帰したと人々は思った。マリー太后を除いては。
「ルイ。あなたは、リシュリューに操られている可哀想な人形よ。あの男はブルボン王家を利用して、自らの権力を強めるつもりなのだわ。リシュリューはフランスの毒よ」
死に瀕する息子ルイ十三世の枕元で、マリー太后は囁き続けていたのだ。母上、もうやめてください、朕は苦しいのです、分かりました、お約束します、ですから静かに眠らせてください。国王が息も絶えだえにそう答えるまで、彼女は呪いの言葉を続けたのである。
復活したルイ十三世は、とんでもない約束を母と交わしてしまったことをいまは後悔しているだろう。病弱で意志の弱い国王にとって、個人的に毛嫌いしている人物ではあるが、辣腕の政治家リシュリューは欠かすことのできない臣下なのである。
だが、一度交わした約束を反故にさせる気など、マリー太后には無かった。息子がどれだけ渋っても、強く迫って、裏切り者リシュリューを絶対に蹴落とす。
イタリア遠征からフランス軍が帰還し、パリに国王、太后、枢機卿がいるこの十一月の内に全ての決着をつけるつもりだった。そのための準備も、ある人物に着々とさせている。
「お入りなさい」
マリー太后は、パンパンと両手を叩いた。
大廊下からカツンカツンという足音が聞こえ、やがて姿を現したのは法務大臣ミシェル・ド・マリヤックだった。
この腰の曲がった老人は、リシュリュー枢機卿の政権下で法務大臣を務め、国璽(国家の印章)の管理も任せられているリシュリュー派の大物だった。しかし、いまはマリー派に寝返っていたのである。
ガストンは、この信仰心が篤く謹厳実直な老大臣を疑わしげに見つめた。彼の性格と六十七歳という高齢から考えて、恐怖の政治家リシュリューを裏切ってマリー太后側に走るなどという危険を冒すとは思えないのだ。
「彼を信用してもよろしいのですか?」
リシュリューほどの策謀家だ。自分の犬を他人の家にもぐらせて、探りを入れるぐらいのことはやりかねない。
ガストンがまったく自分を信用していないことを察したミシェルは、深々と頭を垂れて言った。
「王弟殿下。このミシェルめをどうかお信じください。神に誓って、私は太后さまと王弟殿下に忠誠を尽くします。これは私にとって、聖戦なのです」
「聖戦だと?」
「枢機卿はカトリック教の聖職者でありながら、カトリックの国々と対立し、プロテスタントどもの国々に味方しています。同じカトリック教徒として許せぬのです」
ミシェルは誰よりも信心深いカトリック信者である。
この時代のヨーロッパは、三十年戦争と呼ばれる、カトリック派とプロテスタント派の国々に分かれた宗教戦争のまっただなかだった。一六三〇年時点でフランスはこの戦争に参戦していない。しかし、カトリック教を信奉する神聖ローマ帝国、スペインらハプスブルク家に対抗姿勢をとり、プロテスタントの国々を支援する政策をリシュリューはとっていた。ミシェルはその政策に怒りを感じていたのだ。
「教会の裏切り者リシュリューを排除し、フランスを正しきカトリック教徒の国に戻すためならば、私は死をも厭いません」
「しかし、文官のそなたに何の力があるというのだ」
「私は国璽を管理しておりますゆえ、偽りの王命を下すことができます。そして、我が弟ルイ・ド・マリヤック元帥が軍隊を動かして枢機卿一派をこのパリから掃討するのです」
「政変を起こすのか!」
ガストンが宮殿中に響くような大声を上げたため、いままで黙って聞いていたマリー太后が「しっ」と息子を咎めた。
「リシュリュー排斥後、私たちが新しい政府をつくるために、邪魔になる者は全て始末するのよ。いずれにせよ、マリヤック兄弟だけではまだ味方が足りないのも確か……」
太后は陰湿な笑みを浮かべ、「あのスペイン女をこちら側に引き入れましょう」と言った。
「スペイン女とは、誰のことですか」
「決まっているじゃない。アンヌ・ドートリッシュよ」
「それは……」
無理でしょう、と言いかけてガストンは口をつぐんだ。自分の母が行なった兄嫁に対する陰険ないじめの数々を思い出し、そんな過去を忘れてアンヌ王妃を味方に引き入れると言う母マリーの無神経さに呆れてしまったのである。
確かにアンヌ王妃は夫のルイ十三世とは冷え切った関係だ。そして、実家であるスペイン・ハプスブルク家と争う政策をとるリシュリューとも犬猿の仲である。
しかし、自分をときには無視し、ときにはいじめた鬼姑に手を組もうと言われて、アンヌ王妃は頷くだろうか。
マリー太后はガストンの心配をよそに、また「ほほほ」と醜く笑った。
「あんな小娘、弱みを一つ握ってやれば、こちらになびくわ」
「弱みと言っても、そんな簡単には……」
「バッキンガム公爵の私生児」
「え?」
ガストンは言葉の意味を理解できすに固まった。マリー太后は我が子に構わず、偽りの栄華を描いた我が連作絵画を再び見上げる。
『サン・ドニ聖堂におけるマリー・ド・メディシスの戴冠式』
遠征に出る前のアンリ四世が、マリー王妃に留守中のフランス統治を任せるために行なった戴冠式の場面である。
(この日から、フランスは我が手中に入った。そして、まだ手放してなどいないのだ)
必ずリシュリューを倒す。彼女にとってリシュリューは、自分に跪いていたころの三十代のリシュリューのままであり、四十五歳のフランス王国宰相リシュリューなど、ただのこけおどしにすぎないと思っている。前に書いた、この世でリシュリューを恐れない人間の一人目こそ、このマリー・ド・メディシスという女なのである。
両腕を大きく広げ、マリー太后は巨躯を震わせて叫んだ。
「『マリー・ド・メディシスの生涯』はまだ終わっていない!」
国王の病。
王妃の孤独。
枢機卿の政治。
太后の陰謀。
ガスコンの少年シャルルは、まだ何一つ知らない。いまはただ、数年ぶりに再会した兄ポールとの共同生活に大きな不安を感じていた。
フォッソワイユール街の下宿屋に着くなり、
「お前は後からこっそり部屋に入って来い」
と、兄に命令されたのである。
「どうして」
「大家には、お前が今日からここに住むことを言っていない」
「早く言ってくれよ」
「馬鹿、そうしたら二人分の家賃をとられちまうだろ。これから俺が外に出ているときは、お前は部屋の中で息を殺しているんだぞ」
そんな会話のやりとりをした後、シャルルはこん畜生と思いながらも、下宿屋の外壁をよじ登って二階の兄の部屋に侵入したのである。すでに夜だったのでよかったが、真っ昼間にできる芸当ではない。
窓から部屋の中に飛び降りたシャルルは、むっつりとした顔で兄を睨んだ。
「お帰り」
「ただいま」
ポールはすでにくつろいでいて、ボルドー産のワインをぐびぐびと飲んでいた。
「身体の臭い、だいぶましになったな」
「よじ登って来る前に、井戸で身体を洗った」
「誰にも見つかっていないか」
「たぶん」
ポールは自分が座っている円卓をこんこんと叩いた。お前もここに座れ、ということだ。
「兄貴に聞きたいことがあるのだが」
椅子に腰を下ろしたシャルルは、すでにワイン瓶を空にしてしまったポールに、トレヴィル邸で聞きそびれたことを問いただした。
「なぜ父方の姓を捨てて、母方の姓を名乗っている」
ダルタニャンは母フランソワーズの実家の姓だ。兄がポール・ダルタニャンなどとパリで名乗っているせいで、シャルルがいくら「俺はポール・ド・バツ・カステルモールの弟だ」と言っても、近衛銃士隊の人々に通じなかったのである。挙句の果て、牢獄に入るはめになってしまった。
「そりゃぁ、あれだ。ダルタニャン姓のほうが、受けがいいからだよ」
「受け?」
何の話か分からない、と言いたげにシャルルは首を傾げる。ポールは二本目のワインを開けて杯に注ぎながら言った。
「ド・バツ・カステルモールなんて田舎貴族の姓、このパリでは誰も知らない」
くい、と酒をあおる。故郷にいたころはまったく酒を飲めなかったポールだが、この数年でかなり強くなったようだ。
「だが、母方のダルタニャン姓は違う。俺たちの母方の祖父ジャン・ダルタニャンはパリではちょいとした有名人だったからな」
「そうなのか?」
「近衛歩兵連隊の旗手を務めていたそうだ」
「旗持ちのどこが偉いんだよ」
「馬鹿、軍旗は軍隊の象徴だぞ。それを掲げて行進できるのは名誉なことなんだよ」
「そんなものなのか」
「そんなものだ」
いまいちよく分からないが、父方の姓よりも母方の姓を名乗ったほうが出世には有利らしいとはシャルルも理解した。
「というわけで、シャルル。お前も今日から母方の姓を名乗れ」
「……まぁ、話の流れでそう来るとは思っていたが」
「嫌なのか?」
「嫌ではないが……」
ほんの少し、父ベルドランが可哀想だな。シャルルは、田舎貴族の悲しさで多額の借金に毎日悩まされている老父に思いをはせた。
(しかし、俺も出世するためにパリまで来たんだ。父ちゃんもそれを望んでいる。名前を変えただけで有利だというのなら、そうするべきだ)
昨日、今日とパリで体験したことを思い出す。この街では要領の悪い人間は生きていけないのだ。処世術などまったく知らない不器用なシャルルだが、兄の助言に従って名前を変えることぐらいはできるだろう。
「分かった。今日から俺は、シャルル・ダルタニャンだ」
決然たるその言葉とともに、シャルル・ダルタニャンは誕生した。
このガスコンの少年こそ、後年、フランスの文豪アレクサンドル・デュマが描いた一大ロマンスの主人公ダルタニャンのモデルとなった人物である。
四章につづく
というわけで、シャルルがなぜ「ダルタニャン」となったのかというエピソードで三章は終わり、次回はアトスのモデルとなった少年(実在のアトスはシャルルと同年代なのです!)が登場します。ちなみに、史実のポルトスとアラミスはシャルル・ダルタニャンよりも年下で、この時点ではまだパリにいません。続編を書く機会があったら登場させるつもりだったけれど・・・。
次回もご覧ください!(ぺこり)