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牢獄と仮宮殿

「ダルタニャンとマリー・ド・メディシスの陰謀」の2話目です。

小説内でも当時のパリの街の様子が出てきますが、上から汚物が降ってくるなんて嫌ですよね。もしも自分が昔のパリ人だったら、汚物をぶっかけられまくっていたでしょう。しょっちゅう、鳥のフンが頭に降ってくる運の悪い私なので・・・。

二章 牢獄と仮宮殿


 シャルルが牢屋の中で悪夢にうなされているころ、夕方にシャルルと剣を交えた例の黒マントの男はある人物の前で跪いていた。よほどその人物への畏怖の念が強いのだろう、シャルルに対して放った鷹のように鋭い眼光も、人を馬鹿にした尊大な態度も、見る影も無く消え失せており、粗相をした犬が罰を受けるのを恐れて、飼い主の前にしおらしく控えているようである。

 ここはフランス王国の宰相リシュリュー枢機卿の私邸、プチ・リュクサンブール。「もう一人のフランス国王」と揶揄される男が、毎日の政務を行なう場所である。

「それで、おめおめと逃げ帰って来たのかね。ロシュフォール伯爵」

 執務室に、リシュリューの、聞く人が背筋を凍らせるような冷徹な声が低く響く。黒マントの男、ロシュフォールはびくりと肩を振るわせた。

 壁にかけられたバロック様式の荘重なる絵画、ルネサンス期の彫刻、まばゆいばかりの華麗な調度品の数々。室内は輝かしい宝で溢れているが、それらの持ち主であるリシュリューは、常に何かの苦痛に耐えているような陰気で重苦しい顔をしている。彼の肉体で唯一怪しい輝きを放っているのが目だ。赤き僧衣を身に纏った枢機卿の炯々たる眼光に射すくめられ、戦慄を覚えないフランス人などこの世には二人しかいない。残念ながら、リシュリューの懐刀であるロシュフォールは、その二人のうちに含まれていなかった。

「まことに……申し訳なく」

 ロシュフォールはうめくように、おのれの不甲斐無さを侘びた。十四、五の少年に邪魔をされて、任務を果たせなかったのである。「万死に値します」と枢機卿の忠僕は恥じ入るばかりだった。

「その少年、シャルル・ド・バツ・カステルモールといったか」

「はい。近衛銃士隊に入るのだと言っておりました」

「君を退けるような凄腕なら、ぜひとも我が護衛隊の護衛士にしたいものだが」

 リシュリューは、国王直属の銃士隊と似たような枢機卿の護衛隊を組織していた。国外だけでなく、フランス国内に多くの敵を持つリシュリューにとって、我が身を守るために必要な部隊なのである。

 この護衛隊の護衛士が、近衛銃士隊の血の気の多い銃士たちと反目し合い、御法度である決闘をたびたび行なっているのがリシュリューの頭痛の種の一つなのではあるが。

「手の者を使い、必ずや少年を猊下のもとに連れて参ります」

 ロシュフォールはそう誓った。いまいましい田舎者のガスコン少年だが、実際に剣を交えたロシュフォールは彼の実力を認めてもいたのである。

「まあ、ガスコーニュの少年の件は任せよう。しかし、今夜、私がここに連れて来て欲しかったのはイギリス人の少女だったのだがな」

 不機嫌な枢機卿が眉間に皺を寄せると、ロシュフォールは再び平身低頭した。あの十歳前後のブロンドの女の子、シャルロット。彼女が何者なのかを知る人間は少ない。しかし、少女の父親はイギリス、フランス両国で知らぬ者は一人もいないだろう。

「バッキンガム公爵……」

 リシュリューは、苦虫を噛み潰したようにその名を呟いた。あの男が死んで二年が経つというのに、王妃の自覚無きスペイン女はいまだに過ぎ去りし恋に執着しているのだ。


 翌日の正午。シャルルは牢屋の劣悪な環境に早くも音を上げそうになっていた。

 相部屋の囚人が人間なら、まだ我慢もできる。しかし、シャルルのすぐ傍らでまったりと眠っているのは馬なのだ。

 ロシナンテはあまり賢い馬ではないとシャルルも知っていたが、昨晩からの傍若無人な我が馬の行動の数々にはむかむかさせられ続けた。

 まず、シャルルが朝目覚めると、冷たい床に寝ていた。身体中が痛い。ベッドにしていたはずの藁が消えているのである。ロシナンテを見ると、口の周りに藁が……。

 「こいつ、この馬野郎、よくも俺のベッドを」とシャルルがロシナンテを叱ろうとすると、何やら黄色の小馬はむしゃむしゃと咀嚼している。まだ藁を食べているのかと思ったが、ロシナンテの足もとを見たら、縁の欠けた空の皿が一枚。どうやら、牢番が運んで来た朝食をまたもや食べてしまったらしい。一人占めならぬ一頭占めだった。

 食事が済むと、ロシナンテは昨晩と同じように排泄を始めたのだが、今度はバケツを使わずに、ごく自然にシャルルが座っている真横の床に糞をたらしたのだ。ロシナンテはバケツをトイレと認識していたわけではなく、昨夜はたまたまあそこで用を足しただけなのだろう。

(腹は減るし、糞臭いし、ハエがたかってくるし……気がおかしくなりそうだ!)

 業腹のシャルルは、拳に血が滲むのもお構い無しに、牢屋の壁を幾十度も殴った。知能の低いロシナンテに当たっても仕方が無い。いま一番殴ってやりたい奴は、あの口八丁のジャックだ。あいつめ、あいつめ、あいつめ。何度壁に怒りをぶつけても、猛り狂うガスコンの血はまったく鎮まらないのであった。

「おい、止めろ! 壁が壊れちまう!」

 牢番が慌ててやって来て、シャルルを叱りつけた。昨日、シャルルが髭を褒め、コンスタンスへの伝言を頼もうとした牢番である。牢番の顔を見て、そういえばコンスタンスと約束した十時はとっくに過ぎているとシャルルは思った。

「ああ! コンスタンスに悪いことをした!」

 最後に一発、シャルルは力任せに壁を殴ると、固い床に後ろ向きに倒れた。ロシナンテの顔がすぐ目の前に来て、シャルルの頬をなめた。あまりにも飼い主が荒れているので、少しは慰めてやろうという気になったらしい。

「そのコンスタンスさんが、来ているぞ」

「は?」

 信じられない言葉を聞いて、シャルルはがばっと身を起こす。牢番はニッと笑った。

「釈放だ。お前さん、とんでもないお方と知り合いなんだな」

「…………?」

 訳も分からぬままシャルルとロシナンテは待合室へと牢番に連れて行かれ、そこでコンスタンスと再会したのである。シャルルの姿を見るまで非常に心配していたコンスタンスだが、一日ぶりにガスコンの少年と対面してパァァと明るい笑顔になった。

「シャルルさん。無事に会えてよかった……」

「ど、どうしてここが?」

 近寄ろうとするコンスタンスに対し、シャルルは一歩下がった。ついさっきまで馬糞まみれの牢屋にシャルルはいたのである。シャルル本人の嗅覚は麻痺してしまっているが、コンスタンスが嗅いだら、鼻が曲がるほどいまの自分は臭いかも知れない。

 が、コンスタンスはずんずんと歩み寄って来る。シャルルは当然逃げる。

「どうしたの? シャルルさん」

「い、いまの俺は臭いですから」

 このまま逃げ惑うわけにもいかないので、シャルルは正直に答えた。

「確かに、くせぇな」

 髭が自慢の牢番が、シャルルをからかった。シャルルはかっと顔を真っ赤にする。ガスコンの少年は、初恋の人の前で臭うと言われたのが、死ぬほど恥ずかしかったのだ。

「あら、そうですか? 私は今日、鼻が詰まっているんです。全然分かりませんわ」

(そうか、鼻詰まりか!)

 それがコンスタンスの気遣いの言葉だとは思いもしないシャルルは、彼女の台詞を額面通りに受け取って、それならぴったりそばにいても大丈夫だと安堵するのであった。疑うことを知らない性格なのである。

 さて、コンスタンスがなぜコンシェルジュリー牢獄に来たのか。彼女がシャルルに説明した内容をかいつまんで話すと、以下の通りである。

 コンスタンスはシャルルと約束した朝十時に、フォブール・サン=タントワーヌの例の旅籠を訪れた。そこで、旅籠の主人から、ガスコーニュ訛りの少年が馬泥棒を追いかけて出て行ったきり戻って来なかったと聞いたのである。また、旅籠に泊まっていたある商人に、「昨夜、どうもそれらしき少年が、サン・ポール広場で騒ぎを起こして牢獄に連れて行かれるのを見た」と教えてもらった。驚いたコンスタンスはあるお方に懇願し、シャルルを釈放してもらったというのだ。

(牢屋の中の人間をそんな簡単に出せるなんて、そのお方とは何者なのだろう?)

 そうシャルルが疑問に思う必要は無かった。なぜなら、コンスタンスが「いまからそのお方のもとに、あなたをお連れします」と言ったからである。

「昨日のお礼を言いたいそうです」


(俺はいったいどこに連れて行かれているのだろう?)

 シャルルは、コンスタンスに導かれるまま、昼下がりのパリの街を歩いている。

 真っ直ぐに歩けない。

 忙しなく街路を行き来する人々。左の通路から飛び出して来る馬車。右の通路から走って来て、危うく馬車に轢かれそうになる豚。……昔のパリでは放し飼いにされている豚が町中をうろうろしていたのである。

 誰かと、何かと、ぶつからないようにするのに必死で、コンスタンスにあれこれと質問する余裕も無い。不思議だ、コンスタンスはどうしてあんなすいすい泳ぐように前へ進めるのだろう。

 ちなみに、ロシナンテはトレヴィル殿の邸宅で預かるということで、コンスタンスの供をしていた下男がヴィユー・コロンビエ街まで連れて行った。下男は気弱そうな顔をしていたので、ロシナンテになめられて噛まれていないかが心配だ。

(俺を牢から出してくれたお方は偉い人に違いないが、コンスタンスもただの娘ではないらしい)

 彼女の話から察するに、その高貴なお方とコンスタンスはつながりがある。また、銃士隊長代理トレヴィルのことも知っているようだ。普通の町娘ではない。

 シャルルは、自分の少し前を歩くコンスタンスの後ろ姿を見つめながら、彼女が俺のような田舎者では手の届かない大貴族の令嬢だったらどうしよう、と不安に思うのであった。

「気をつけな!」

 不意に、頭上から声が降ってきた。

「シャルルさん!」

 次の瞬間、シャルルは振り返ったコンスタンスによって手首をつかまれ、ぐいっと身体を引き寄せられていた。思わずシャルルは前によろめく。

 抱き合うようなかたちになってしまい、シャルルの鼓動は跳ねた。コンスタンスの瑞々しく可憐な唇が目の前にあるのだ。シャルルが少しでも首を前に動かせば、彼女の唇をいともたやすく……

 べしゃ!

 誘惑的で天国のような時間は、背後でした不快な音により一秒で終わった。ぎょっとしたシャルルが振り返って足もとを見ると、シャルルがさっきまで立っていた場所に汚物が飛び散っていたのである。その汚物に、町を徘徊していた豚たちが群がり、がつがつと食べ始めた。

「まだ夕刻でもないのに、こんな人通りの多い時間帯に捨てるなんて、信じられないわ!」

 コンスタンスは、汚物が降ってきた建物の二階の窓から顔を出している、無精髭の男をキッと睨みつけた。

 中世ヨーロッパの都市は思いのほか不衛生で、一般の住居にはトイレがなかった。代わりにおまるのような物があり、それがいっぱいになると、二階や三階の住人は通路の人間に一声かけて、窓から投げ捨てたのである。放し飼いにされている豚たちは、いわばパリの町の清掃係で、パリ人たちが街路にまき散らした汚物を食べることで処理してくれていたのである。ただし、コンスタンスが怒ったように、人の往来が頻繁な真っ昼間に汚物を捨てるのはマナー違反だった。

「ありがとう、コンスタンス。お陰で服を汚さずに済んだよ」

 シャルルは礼を言った。牢獄の待合室で交わした会話で、二人とも同い年の十五歳だということが分かり、敬語はやめている。

 ちなみに、シャルルは牢獄を出る前に服を着替えた。故郷を出て以来、ずっと着ていた粗末な服はあちこちが破れ、汚臭に慣れっこの牢番たちが嗅いでも顔をしかめるほど臭ったのである。コンスタンスが準備よく持って来てくれていた、ベレー帽、清潔な上衣、半ズボンをいまは身に着けていて、腰には釈放時に返却されたレイピアの剣がぶら下がっている。

「シャルルさん。街を歩くときは、前後左右だけでなく、上も気をつけてね」

 コンスタンスが冗談交じりにそう言うと、シャルルは力無く笑った。糞まみれになるのは、もう懲りごりだ。


(これは、ひょっとすると宮殿なのでは?)

 「ここよ」とコンスタンスが言った場所は、シャルルがこれまでの人生で一度も見たことが無いような、広大な敷地内に絢爛たる建物が建ち並ぶ大邸宅だった。

 シャルルは最初、大貴族の屋敷、もしくは近衛銃士隊の隊長(トレヴィルが隊長代理なら、本当の隊長がいるはずだ)の屋敷に連れて来られたと思っていたのだが、城館の奥深くに入れば入るほど、これはただの人間が住む場所ではないのではと考えたのだ。ガスコーニュの田舎者でも、それぐらいのことは察しがつく。

「コンスタンス……ここはもしかして」

 果てし無く続く長いながい回廊で、古代の王や英雄、聖人たちの彫刻像に見下ろされながら、シャルルは恐るおそる質問した。

「国王陛下の宮殿なのでは」

 すれ違った一人の衛兵が、「何だ、このみずぼらしい少年は」と小さく呟いたが、一緒にいるコンスタンスに気づくと、シャルルを不審尋問することもなく通り過ぎて行った。

「ちょっと外れ」

「え?」

「国王陛下の本当のお住まい、ルーヴル宮殿はいま工事中なの。ここは、陛下の仮のお住まいで、昔、コンチーノ・コンチーニという元帥の屋敷だったところよ。……陛下の怒りを買い、粛清された人だけれど」

 この規模で臣下の屋敷だと言われて、シャルルは驚きを隠せなかった。では、ルーヴル宮殿はどれだけ巨大で華麗なのか。シャルルには全く想像できない。

(とはいえ、国王様のお住まいであることには変わりない。午前中に豚箱にいた俺が、午後には仮宮殿にいるなんて、喜劇作家でも思いつかない筋書きだ!)

 ということは、俺がいまからお会いするのはルイ十三世国王陛下なのか? 恐れを知らぬガスコンの少年も、さすがにこの急展開な事態に逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。

 やがて、シャルルとコンスタンスは大きな噴水のある庭園にたどり着いた。

「しばらく、ここで待ちましょう。もうすぐしたら、お見えになるはずだから」

 コンスタンスはそう言うと、「ここは素敵なところでしょう?」とシャルルに笑いかけた。シャルルは庭園を見回す。なるほど、猥雑としたパリの街中とは別世界だ。

 大きな噴水の水しぶきがここまで飛んできて、涼しく気持ちいい。均等に植えられた樹木は青々として爽やかだ。花壇には赤と白のバラが、香り立つ美しさで咲き乱れている。

 緊張のあまりカチコチになっていたシャルルも、おかげで多少は気分が落ち着いて身体の強張りもほぐれてきた。

「あ、蝶々」

 シャルルは、目の前を舞っていたつがいのキアゲハの片方を両手で包むように捕まえ、コンスタンスに差し出した。幼いころ、妹にそうしてやると、すごく喜んでいたことを思い出したのだ。しかし、コンスタンスは少し困ったように笑いながら、

「恋人と離ればなれにされて可哀想よ。放してあげて」

 と、シャルルをたしなめたのだった。

 そうか、俺は蝶たちのデートの邪魔をしたのか。それは無粋なことをしてしまった。シャルルは、コンスタンスに子どもを諭すように言われたことを恥ずかしく思いつつ、蝶を解放してやった。そのときだった。

 馬の蹄の音がした。


 シャルルがハッと驚いて蹄の音が聞こえた方角を見ると、繚乱たるバラの海の彼方、芦毛のアンダルシアン馬を駆る貴婦人の姿があった。こちらに近づいて来る。

 高貴な女性は馬を嫌がって、乗馬などできないだろうとシャルルはこれまで決めつけていたのだが、あの美しい貴婦人の見事な手綱さばきはどうであろう。さらに驚いたことには、貴婦人は前に女の子を乗せており、その子が昨日出会ったブロンドの少女、シャルロットだったのである。

「王妃アンヌ・ドートリッシュ様です。失礼の無いように……」

 コンスタンスが小声でシャルルの耳元に囁いた。

(ということは、俺を牢屋から出してくださったのは、王妃さまだったのか!)

 王妃の馬は、シャルルとコンスタンスの数歩前で止まった。シャルルは淀みない動きでベレー帽を脱ぎ、右手を胸に当てて貴族の礼儀作法通りにお辞儀をした。そして、王妃に声をかけられるまで、じっと待った。ついさっきまで、あまりにも奇天烈な展開に気後れしていたシャルルだが、「大事な場面で礼儀作法を忘れる人間はガスコンではない」という我が家の家訓第八十一条の言葉を思い出したのである。

 馬上のアンヌ王妃は、優しげにシャルルに微笑んだ。十四歳で故国スペインを離れてフランス国王ルイ十三世に嫁ぎ、フランス国民を感嘆させたその美貌は、二十九歳のいまになっても衰えるどころか、ますます成熟して匂い立つばかりの美しさを誇っている。

 しかし、どうもこのお方の美貌は俺の大好きなコンスタンスとは違う。無礼な話ではあるが、シャルルは心中で首を傾げた。王妃とコンスタンスは同じ栗色の髪、青色の瞳、白い肌をしていて、かなり共通点が多いのだが、いったい何に対して違和感がするのか、シャルル本人にも分からない。

「あなた、馬糞の臭いがするわね」

 アンヌ王妃の唐突な言葉に、シャルルの思考は吹っ飛んだ。さっきまで何を考えていたのかも忘れて、思わず「え?」と聞き返してしまったのである。若干、声も裏返っていた。王妃の第一声でまさか「馬糞」などと汚らしい単語が出てくるとは夢にも思わなかったし、(ああ、やはり俺はまだ臭っているのだ)と泣きたくなったのだ。せっかく着替えたというのに、臭いが身体に染み付いていたらしい。

 コンスタンスも慌てて取り成そうとするが、「王妃様……」と彼女が言うよりも早く、アンヌ王妃の第二声がシャルルに投げかけられた。

「コンスタンスからあなたのことは聞いたわ。シャルルはガスコーニュ出身なのよね。ガスコーニュのお人は、みんな馬糞のような臭いがするの?」

 シャルルはそっと王妃の顔を見た。何ら悪意のこもっていない、無邪気な微笑みをたたえている。

(このお方には悪気はいっさい無いのだろうな。こう言ったら他人は傷つくなどという配慮をこれまでせずに生きてこられたのだ)

 いくら短気なシャルルでも王妃を相手に怒るわけにもいかないし、そもそも悪意が無い人間に腹を立てること自体が虚しいことのように思える。逆に、彼女のあけっぴろげな性格のおかげで、王妃に拝謁しているのだという張り詰めた緊張感は消え失せてしまっていた。ここまで一方的に好き放題に言われて、馬鹿みたいに呆けているのは情けない、この屈託の無い貴婦人を笑わせてやろう。そこまで考える余裕がシャルルには出来ていた。

「王妃様。これはガスコーニュの臭いではなく、パリの臭いなのです」

 シャルルは、ガスコン特有のふてぶてしさと厚かましさを大いに発揮して、昨日と今日、この仮宮殿に来るまでに自分がパリで体験した話を雄弁に語り始めた。その話の中で、我が愛馬をパリまで背負ってきたことや謎の黒マントの男と対決したことなど、自分の力自慢、腕自慢もあったが、大半は牢獄で馬糞まみれになったこと、パリの街で危うく汚物をかけられそうになったことなど、傍らで聞いているコンスタンスがはらはらするような下品な話題に多くの時間を使った。

 コンスタンスが冷や汗をかくのも無理は無い。貴人というのは自分の言葉に責任は持たないが、下の身分の者には厳しいのである。アンヌ王妃が先に下品なことを言ったからといって、無位無官のシャルルが糞だの汚物だのと王妃の前で口走るのはとんでもないことだ。もう一度、牢獄行きになっても文句は言えない。

 だが、この日のアンヌ王妃はすこぶる機嫌がよかった。また、シャルルの語り口調がとても巧みで、ときには大げさな表現や滑稽な仕草を交えて話すものだから、王妃はにこにこ微笑みながら、茶目っ気たっぷりなガスコン少年の話芸を傾聴した。

 アンヌ王妃に抱かれるようにして馬に乗っていたシャルロットが、いつの間にか馬から下りてシャルルのすぐ横に座っている。どうやら、昨日助けられたこともあって、シャルルのことを気に入ったらしい。強く抱きしめられたら簡単に折れてしまいそうな細い身体をぴったりとシャルルにくっつけて、無邪気に笑っていた。シャルルの身体から漂う悪臭は気にならない様子だ。

「……というわけで、このシャルルに染み付いた臭いはパリのものなのです」

 シャルルが語り終えると、アンヌ王妃とシャルロットがパチパチと拍手をしてくれた。そのときに気がついたことなのだが、王妃は両手に白く美しい手袋をしていた。その手袋に包まれた手首には金のブレスレットが輝いており、国で一番高貴な女性ともなるとたかが手袋一つにも凝るのだな、とシャルルは素朴な感想を抱くのであった。

「コンスタンス。面白い少年ね」

「は、はい……」

 コンスタンスも認めてくれた、とシャルルは心の中で胸を張ったが、シャルルの後ろにいるコンスタンスの笑顔はひきつっていた。

「そうそう、忘れるところだったわ」

 アンヌ王妃はそう言って、ふいに左の手袋を外し、馬上からシャルルの顔の前に手を差し出した。シャルルはきょとんとしながらも、真珠のように美しい手だと息を呑んだ。王妃が手袋をしているのは、この玉のごとき手が傷つかないようにするためなのだろう。

「この子を……シャルロットを助けてくれた、ご褒美よ」

 つまり、王妃の手の甲にキスをする栄誉をシャルルは与えられたのだ。

 シャルルは、自分のそばをぴったりと離れないシャルロットに、ちょいと目をやり、

(怪しい男に狙われたり、王妃に大切にされていたり……このイギリス人の女の子は何者なのだろう?)

 と、不思議に思った。そういえば、最初に出会ったときも、コンスタンスに「この子と会ったことは、誰にも言わないで」と口止めされている。このシャルロットというブロンドの女の子にはどんな秘密が隠されているのだろうか?

 いや、それよりも、だ。

 シャルルがいま最も厄介だと感じているのは、王妃様のご褒美だった。

 厄介、というのも語弊がある。騎士が見目麗しき王妃様や王女様に忠誠の証のキスをして戦場に出向く、というロマンに満ち溢れた騎士の物語を円卓の騎士ランスロットの末裔だとか名乗る故郷の長老から、幼いときにたくさん聞かされて目を輝かせていたシャルルである。このご褒美を名誉なことだと思わぬわけではない。

 しかし、すぐ後ろで愛しのコンスタンスが見ているのだ。生まれて初めて愛した女性の目の前で、いくら王妃とはいえ、他の女性にキスをすることにシャルルは激しい抵抗を感じた。あと数歳、分別のできる年齢ならば、王妃様のご褒美を断るのは無礼だと判断できたのだろうが……。

「それがしのごとき地位無き者には、あまりにもったいなく……」

 と、シャルルがなるべくガスコーニュ訛りをおさえて、武人らしいいかめしい言葉遣いで遠慮すると、アンヌ王妃はあからさまにつまらなさそうな顔をした。コンスタンスも、「シャルルさん!」とこの不敬なガスコン少年を諫めたが、後の祭りである。

「田舎者はがつがつした人間が多いと思い込んでいたけれど、あなたはとても謙虚なのね。王妃の私にはキスできないと。手になんて、ただのあいさつ代わりなのに」

 王妃の言葉に棘があることを悟り、シャルルは(ああ、やってしまった! やはり俺は迂闊すぎる!)と、ここで初めて自分の王妃に対する対応のまずさに気がついた。

「でも、ご褒美はあげないとね。シャルル、コンスタンスにキスしなさい」

「な!」

 シャルルとコンスタンスが狼狽して顔を見合わせる。シャルルは耳の先まで真っ赤にし、コンスタンスは困惑している様子だった。

「コンスタンスは私の侍女だから、代わりのご褒美よ」

 アンヌ王妃はシャルルに意地悪をしているわけだが、コンスタンスにしてみれば、とばっちりもいいところだろう。しかし、王妃の命令にまた逆らって、これ以上、機嫌を損ねるわけにはいかない。コンスタンスは何一つ抵抗することなく、おずおずと手をシャルルに差し出した。うら若い娘にしてみれば、自分の意思でもないのにこのような行為を人前でするのは恥ずかしいに違いない。

 シャルルはじっとコンスタンスの白い手を見た。小さくて可愛らしい手だが、よく見ると細い指には縫い物でつけたと思われる傷がある。何もかも侍女や召使にさせていて、傷ひとつない王妃のシルクのような手は芸術的と言えたが、生活の温かみが感じられるコンスタンスの手のほうが俺は好きだとシャルルは思った。

(そんなコンスタンスの手を俺は辱めてもよいのだろうか?)

 人に命令されてキスするなど、彼女の自尊心を無視している。宮廷のパーティーなどで貴族たちに日常的にあいさつのキスをされているアンヌ王妃には分からないだろうが、十代の思春期にとって、手へのキスひとつも一大事なのである。

 二度も王妃の命令を拒否するわけにもいかないし、どうやってこの場を切り抜けるべきかとシャルルが固まって悩んでいると、意外な助け舟が出た。

「え? 私は別に二人をいじめてなんていないわ」

 アンヌ王妃が弱った顔で、頬を膨らませて何ごとかを抗議しているシャルロットに弁明を始めていたのである。

『シャルルとコンスタンスをいじめたらダメ!』

 英語でそう言っているらしいことは、シャルルにも何となく雰囲気で分かった。シャルルとコンスタンスが困り顔をしているのを見て、王妃が二人をいじめているのだと察したのだろう。

「分かった、分かったわ。そんなに怒らないで。可愛い顔が台無しよ」

 アンヌ王妃もシャルロットには弱いらしく、「もういいわ」と二人への命令を取り消した。

「そもそも、お礼が言いたくてあなたをここに呼んだのに、大人気無いことをしてしまったわ。ごめんなさいね」

 王妃でも反省はするらしい。いや、気まぐれな王族だからこそ、自分の意見をころころと変えられると言うべきか。

「シャルル。これをあげるわ」

 アンヌ王妃は右手の手袋を飾っていた金のブレスレットを外すと、シャルルに投げ渡した。シャルルは慌ててそれを両手で受け取る。

「コンスタンス。今日はもう家に帰ってもいいわ。トレヴィルによろしく」

 そう言い残すと、アンヌ王妃はシャルロットを再び馬に乗せ、颯爽と駆け去って行ったのであった。


「コンスタンス。ごめんなさい」

 銃士隊長代理トレヴィル邸があるヴィユー・コロンビエ街へと向かう道すがら、シャルルはコンスタンに謝った。まるで叱られた幼子のようにしゅんとしている。

 アンヌ王妃との謁見で、取り次ぎをしてくれたコンスタンスにシャルルが迷惑をかけたのは明らかだった。コンスタンスもきっと怒っているだろう。シャルルは彼女にどんな責めの言葉を言われても、仕方が無いと覚悟している。だが、コンスタンスから返ってきた言葉は予想外なものだった。

「過ぎたことで思い悩んでも、明日の薬にはならないわ」

 シャルルを見つめるまなざしはあくまでも優しく、我が母フランソワーズの慈悲深い瞳に似ているとシャルルは感じた。

 幼いころ、いたずらばかりしていたシャルルは、しょっちゅう父ベルドランにどやされたものである。頭にたんこぶをつくって逃げ込む先は、いつも母の部屋。フランソワーズは泣きじゃくるシャルルの頭や頬を優しく撫でて、

「男の子が、いつまでも一つのことでくよくよしていたらダメよ。何が悪かったか反省できたら、いつもの元気なシャルルに戻りなさい」

 と言い、最後に頬にキスをしてくれるのだ。

(コンスタンスは、母ちゃんに似ている)

 そう思うと、シャルルの胸の中で甘い感情が広がり、コンスタンスへの思慕の情はますます増していくのであった。

「パリに来たばかりの地方貴族の子が、いきなり王妃様と会うことになるなんて、例外中の例外なの。粗相があっても仕方が無いと思う。シャルルは反省しているだけ立派よ」

「そ、そうかな」

「本当にひどい人なんて、王妃様の許しも無く、手にキスをした無礼者もいるのだから」

 それは確かにひどいな、そいつの顔を見てみたい。シャルルは少し呆れながら思うのであった。

「さあ、もうすぐ私の家に着くわ。夕暮れも近いし、急ぎましょう」

「え? コンスタンスの家? トレヴィル殿の邸宅ではなく?」

「あれ? 私、言わなかったかしら」

 コンスタンスはにっこりと微笑み、

「トレヴィルは、私の父よ」

 と、言ったのである。

(コンスタンスは王妃様の侍女であり、銃士隊長代理の息女でもあったのか!)

 初恋の人の正体をここで初めて知り、驚きを隠せぬシャルルであった。

                              三章へつづく

2話目も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

次回、シャルルのお兄さん・ポールが登場しますが、ポールは実在の人物です。どんな兄ちゃんなのかは次回をご照覧あれ~。

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