ガスコンの少年
以前、野生時代フロンティア文学賞で一次通過したけれど二次で落ちてしまった作品です。自分にとっては愛着のある作品だったのでここで供養を……。
この小説を書いていた時の一番の思い出は、夜中に執筆していて煮詰まって、色々と人生にも煮詰まっていて、ヤケクソですきっ腹に焼酎をがぶ飲み→酔っぱらって真っ暗な部屋で一人ダンス→明け方までゲロピーを経験したことです。
汚い話をしてすみません……。こんな情けない私の作品ですが、よろしければご覧ください。
一章 ガスコンの少年
ゆらり、ゆらり。
少年の背の上で、馬は秋風に吹かれている。
その珍妙な光景を目撃したのは、一六三〇年十一月一日の夕暮れどき、パリのフォブール(市外街区)・サン=タントーワヌを往来する人々だった。
「なんだね? あれは」
「十四、五ぐらいのガキが黄色の小馬を背負って歩いているな」
「そんなの、見たら分かるさ。俺が聞きたいのは、どうして人間が馬を運んでいるのかってことだよ。あべこべじゃねぇか」
「そんなに知りたけりゃ、あんたがあのガキに聞いてみろよ」
しかし、通行人の誰もが少年と馬に近寄ろうとはしなかった。人間と馬の立場が逆転しているありさまが不気味でもあったし、少年がオーグル(人食い鬼)のような恐ろしい怒りの形相をしていて近寄りがたかったからだ。少しでもからかいの言葉をかけたら、腰に帯びている剣で斬りかかって来そうなのである。
まあ、無理もない。少年はこの半日、驚くべき怪力と体力で馬を背負い、ずっと歩き続けていたのだ。人相も悪くなるだろう。
故郷からパリまでの十数日におよぶ長い道のり、この黄色の毛並みを持った小馬は少年をちゃんと背に乗せて運んでいた。しかし、パリまであともう少しというところで力尽き、ぶっ倒れたのである。どれだけ励ましても微動だにしない。捨てて行こうか、とも考えたが、幼いころから我が家の厩舎で世話を焼いてきた馬を見捨てるのも忍びなく、「ええい、ままよ!」と少年はへばった馬を背負い、ここまで来たのだ。
「ロシナンテ、そろそろ限界だ!」
ついに根をあげた少年は、小さな旅籠の前で我が愛馬ロシナンテを背から降ろした。ヒヒン! とロシナンテは抗議するように鳴く。「なぜ降ろした」とでも言っているのだろう。
「こいつ、あるじ気取りか。もう旅はおしまいだよ。パリに着いたのだからな。ああ! 我が希望の都市パリよ!」
少年は、歌劇の舞台上で熱演する俳優のように力いっぱい叫び、天を突き破らんばかりの勢いで両腕を上げた。道行く人々に変な目で見られているのも、お構い無しである。
華やかなるフランス王国の首都パリ。ここで一旗上げて、俺は立派な軍人になるのだ。少年はその当時の田舎の若者の多くが抱いていたささやかな夢とともに、上京してきたのである。
「そこの若い衆、人の旅籠の前で大声をあげてもらったら困りますよ。泊まっていくの?」
少年が振り向くと、丸々と太った中年親爺が困り顔でこっちを見ていた。どうやら、少年の喚き声に驚いて飛び出してきた旅籠の主人らしい。
「あ、悪い、客だ。泊めてくれ」
少年は素直に謝った。そして、腰の皮袋をごそごそと漁り、財布を取り出して中身を旅籠の主人に見せた。全額で十エキュある。
「ほら、ちゃんと金もあるぜ」
「なるほど、なるほど。さあ、中へどうぞ。馬は私が小屋につないでおきますよ」
少し警戒ぎみだった主人の顔が営業用の笑顔になり、少年は歓迎された。これは旅をしていて得た経験だが、年少の者が一人で旅籠に宿泊しようとすると、(こいつ、ちゃんと金は持っているのか?)と怪しまれることが多々あったのである。そんなときは、さきほどのように金を見せてやると、態度をころりと変えるのだ。
今日はまずこの旅籠で泊まり、明日の朝一番に起きて父の知り合いに会いに行こう。その人物がきっと少年を導いてくれるはずなのだ。
「きゃあ!」
少年が旅籠の建物に入ろうとしたとき、かすかに若い女性の声が聞こえたような気がした。ぴたり、と少年は足を止める。どこからだ? あれは悲鳴だったのでは? 少年は目をつむり、耳を澄ます。
「お客さん、どうかなさいましたか」
「しっ!」
少年は故郷で「あいつは犬よりも耳がいいのでは?」と噂されたことがあるくらいの地獄耳で、人間が豆粒に見えるほど遠くで自分の悪口を喧嘩中の友人に囁かれたとき、相手のところまで走っていって、ぶん殴ったことがある。
「誰か……助けて!」
今度は、はっきりと聞こえた。西の方角で誰かが助けを呼んでいる。
「親爺、馬と荷物を預かっていてくれ! 無くすなよ!」
少年は皮袋を旅籠の主人に手渡すと、女性の声が聞こえた方角へと走り出した。この皮袋には大事なものがたくさん入っている。少年の全財産十エキュ、父が書いてくれた銃士隊長トレヴィルへの紹介状、我が家の家訓を記した巻物、母がくれた膏薬などだ。
ひとけの無い、迷路のように入り組んだ小さな路地を少年は何の迷いも無く疾走する。
(あそこの角を左に曲がったところだ!)
いくら地獄耳とはいえ、声ひとつを頼りにこの躊躇の無さはどうであろう。後々、少年はこう思うのである。あのときの俺は、運命に背中を押されていたのだと。
案の定、少年は角を曲がった先で、ただならぬ場面に遭遇したのである。
黒マントの男が、二人の少女を路地の行き止まりまで追いつめていた。
「無体なことをするのはやめてください!」
少女の一人は少年と同じ年齢ぐらいだろうか、連れの十歳前後の女の子を背に隠すようにして庇い、黒マントの男と対峙している。旅籠で聞いた声の主は彼女のようだ。
少年はすぐにでも助けに行こうと思ったが、その気丈な少女の美貌に心を奪われてしまい、金縛りにかかったように固まってしまった。鮮やかな栗色の髪が美しく、顔は少し気弱そうに見えるが、青い瞳には意志の強さを宿した輝きがあり、健康的な薔薇色の肌をしている。どれだけ芸術的な絵画を見ても心動かさぬ野蛮人の少年が、恍惚として感嘆の声をもらしていたのである。
少年が出遅れてしまったその間にも、黒マントの男は「あなたに危害を加えるつもりは無い」と言いつつ、一歩、二歩と少女たちに歩み寄っていく。低く、冷厳な声だ。
「ただ、あなたの背に隠れている子どもをこちらに引き渡していただきたい。その娘はフランスにいてはいけないのだ」
「それ以上、近寄らないで!」
栗毛の少女は黒マントの男をキッと睨み、叫んだ。しかし、非力な彼女にはそれ以上の抵抗はできるはずもなく、男と少女たちの距離はじりじりと埋まっていく。男があと五歩も歩けば、少女の後ろで震えている哀れな子どもはあっけなく捕まってしまうだろう。
(いけない! 見惚れている場合か!)
ようやく正気を取り戻した少年は、「待て!」と怒鳴り、地を蹴って駆け出した。
背後から聞こえた声に対し、「何奴だ」と黒マントの男が振り返る。しかし、その声の主である少年は、いままさに男を通り越すところだった。さきほど聞こえた声は十数歩向こうから発したものだったはず。驚異的な足の速さである。
(この小僧、ギリシア神話のアキレスか!)
黒マントの男が驚いている間に、少年は少女たちを守るようにして男の前に立ちはだかっていた。
「農民の子倅が何の真似だ」
黒マントの男が吐き捨てるように言うと、少年は佩剣をバンバン叩きながら激昂した。
「お前は目が悪いのか? この剣を見ろ! 俺は貴族の息子だ!」
なるほど。着ている服は農民と大差無い粗末なものだが、腰に帯びたそのレイピア剣には美しい装飾が施されており、ひと目で高価な剣であることが分かる。旅立ちの際、貧乏貴族である父の唯一の宝だった伝家の宝剣を少年がくすねたのだが、それは内緒の話だ。
少年の容貌を見てみよう。褐色の髪に日焼けした面長の顔、ギラギラとした鋭い目つきやツンと筋の通った鼻は勇ましい美男子の典型と言える。ただ、全体的な外見はまだまだ幼く見え、可愛らしい小さな唇などあどけない子どものようである。
(こんな小僧を相手にしていられるか)と黒マントは思ったのだろう。やれやれといった雰囲気で肩をすくめた。
「悪かったよ、ガスコーニュからやって来た田舎貴族のお坊ちゃん。おじさんは仕事中なんだ。そこをどいてくれ」
ガスコーニュとは、フランスの南西部の地方である。西に大西洋と面し、南のピレネー山脈を越えたらスペインだ。ガスコーニュはフランス領土の最前線ということもあって、昔から勇猛な軍人が産出する土地という評判があり、この時代にはガスコーニュの多くの若者が軍人になるべくパリに上京していた。シャルルもその中の一人である。しかし、自分の生まれ故郷を黒マントの男に教えた覚えはない。
「なぜ俺がガスコーニュ出身だと分かった」
「言葉を少し聞いただけで分かるさ。そのひどい訛り……私が大嫌いなガスコーニュの田舎っぺどもの言葉だ」
「……お前、ガスコン(ガスコーニュ人)を馬鹿にしたな」
少年はふつふつと燃えたぎる闘志を剣に込め、鞘から抜き放った。
黒マントの男は鼻で笑い、「やめておけ。命知らずめ」と言う。
「その美しい娘を助けてお近づきになりたいだけなのだろう? いいだろう、その栗毛のお嬢さんは坊ちゃんにくれてやる。用があるのはお嬢さんの後ろの」
「剣を抜け、黒マント野郎」
「……邪魔をするのならば、殺す」
黒マントの男も剣を抜き、ゆったりと構えた。
「わ、私たちに構わず、早くお逃げください。あの男は本気です。彼はおそらく、枢機卿の……」
栗毛の少女が声をわななかせて言った。恐怖のあまり、うまく言葉が出ないのだろう。
「ご安心を。『ガスコンは命を十回捨てても一人の女を守れ』。我が家の家訓です」
落ち着き払った少年の言葉には、小石ほどの恐怖も焦燥も含まれていない。ついさきほどまで興奮して怒っていた少年とはまるで別人のように、冷静かつ慎重な剣士になっていた。
「我が名はシャルル・ド・バツ・カステルモール。ガスコーニュの貴族にしてカステルモール城の主、ベルドラン・ド・バツ・カステルモールの四男だ。近衛銃士隊に入るために、はるばる故郷からやって来た。さあ、俺は名乗ったぞ。決闘の前にお前も名乗れ」
「いまから死ぬ貴様に、名を教える必要など無い」
「ほほう? さっきは散々、俺の出自を馬鹿にしたくせして、そういうお前は名無しの権兵衛さんか! これは面白い、これからは名無しマントと呼んでやろう」
我らが主人公シャルルは、高笑いして「やい、名無し! 名無しマント!」と口汚く黒マントの男を罵るのであった。
無表情な男の顔からは彼の感情はよく読み取れない。だが、剣を握る右手がかすかに震えていることをシャルルは見逃さなかった。
「おや、名無しマントさん。手が震えているぜ。俺が恐いのなら、さっさと剣をおさめて帰りな」
「死ねい!」
びゅっ!
刃が空気を裂く音。黒マントの男の突きがシャルルを襲ったのである。直後、地面に血が数滴したたり落ちた。
「いやぁぁ!」
栗毛の少女は、シャルルがやられたのだと思い、悲鳴をあげた。しかし、負傷した右腕をおさえてうめき声をあげていたのは、黒マントの男のほうだった。
シャルルは敵に罵詈雑言を浴びせつつ、注意深く男の目や手足の動き、呼吸を観察していたのである。挑発に乗った男が憎々しい小僧に一撃を加えんと右足を前に出した瞬間、シャルルは(いまだ!)と相手の動きを読み、五体を躍動させた。
横に踏み込んで男の渾身の突きをかわし、電光石火、敵の右腕を突き刺したのだ。
ただ、黒マントの男も相当な手練れであるようだ。右腕に激しい痛みが走るのを耐え、剣をけっして落とさず、後方に飛び下がってシャルルと距離をとったのである。
(油断をしすぎたわ。血の気の多い若造のこと、てっきり猪突猛進の喧嘩剣法だとたかをくくっていたのだが、何という老獪な戦い方をする少年なのだ)
先に攻撃をさせて相手の戦法を知る。そして、敵の攻めの間隙を突き、反撃する。いずれも並の剣士ではできないことだ。実戦経験の浅い十代にしてこの力量、二十年もすれば恐ろしい剣の使い手になるだろう。
(殺すには惜しい小僧だ。いや、利き腕を負傷したいま、俺が逆にやられるかも知れぬ。リシュリュー枢機卿のお叱りを受けるだろうが、ここはいったん退こう)
黒マントの男は剣を鞘におさめると、マントを翻してシャルルに背を向けた。
「おい、逃げるのか」
シャルルは男があっさりと退いたことを意外に思い、呼び止めた。黒マントの男は振り向かずに立ち止まり、こう言った。
「小僧。シャルル・ド・バツ・カステルモールといったな。その名、覚えておこう」
「お前も名乗れ、名無しマント」
「……次に会ったときには、教えてやる」
まるで再会することが決定事項であるかのような台詞を残し、男は去って行った。
(やれやれ。上京して早々、とんでもない奴と遭遇してしまったぜ)
ふう、と息を吐いたシャルルは剣を鞘にしまった。シャルルの剣の師匠は、ガスコーニュ一の猛者(自称だが)の父ベルドランである。ベルドランは、自分の四人の息子の中で、末弟のシャルルが最も剣の才能があると見込み、七歳から十五歳で故郷を出るまでの八年間、シャルルに徹底的に剣技を叩き込んだ。熱が入りすぎ、シャルルは年に二度や三度、父親に半殺しの目に遭わされることもあった。
厳格な父であり、苛烈な師匠だったベルドラン。
黒マントの男の剣は、そのベルドランと同等もしくはそれ以上の早業だったのである。あの時、一秒の半分でも反応が遅れていたら、シャルルの胴体は串刺しになっていたであろう。いま無事に呼吸をしているのは奇跡と言っていい。パリには父のように強い剣士がごまんといるのだろうか。シャルルの胸の内は「誰にも負けてやるものか」というガスコン特有の闘争心で満ち満ちるのであった。
が、我らがシャルルの勇敢な姿が見られるのもここまで。
「あの……シャルルさんとおっしゃいましたか。危ないところを助けていただき、ありがとうございます」
栗毛の少女がシャルルに歩み寄り、鈴を振るような声で礼を言うと、ガスコンの純情少年はたちまち顔を真っ赤にして「え、あ、う」と、しどろもどろになってしまったのである。
ガスコーニュにいたころ、シャルルがまともに接した女といえば、母と姉、妹たちだけ。なかなか端正な顔立ちなので、田舎の娘や婦人たちにもてなかったわけではない。色恋に免疫のないシャルルは、彼女たちの好意を知らんふりして、ひたすら剣の修行に没頭していたのだ。うぶな子どもなのである。
「こ、困っている人を助けるのは、と、当然のことです。それでは……」
ときおり言葉を詰まらせながら、ようやくそれだけ言うと、シャルルはちょいと頭を下げてその場を離れようとした。
(馬鹿、俺の大馬鹿野郎。せっかく綺麗な人が話しかけてくれているのに、逃げるとは何という臆病者だ!)
シャルルは、自分の頬面を思いっきりぶん殴ってやりたい衝動に駆られたが、とりあえずいまは逃げることが先決。おのぼりさんの少年剣士は、悪漢の凶刃よりも美女の微笑みのほうが恐いのだ。
「あ! 待ってください!」
栗毛の少女の呼び止める声。せっかくのひと目惚れ、初恋だというのに。シャルルは後ろ髪を引かれる思いで、駆け去り……。
後ろから抱きつかれた。
いきなり襲いかかった人のぬくもり。シャルルはぎょっとして硬直した。まさか、そんな、パリの女というのはこんなにも大胆なのか。いや、そうではない。ちょっと待て。温かみを感じているのは背中ではなく、腰のあたりだ。
(抱きついているのは、子どものほうか)
いまだ動揺がおさまらないまま、シャルルは腰にまとわりつく十歳くらいの痩せ細った女の子を見た。黒マントの男に誘拐されそうになっていたときには怯えて小さな身体を震わせていたが、いまはあどけない顔で上目遣いにシャルルを見つめている。ブロンドの長い髪が眩く、肌は白蝋のように青白い。そして、不思議なことに、この子の青い瞳には人を無意識に引き込む魔法めいた力があるようにシャルルは感じた。
彼女が、何か一言、二言喋った。しかし、シャルルには理解できなかった。女の子の言葉はフランス語ではなく、どうやら英語らしい。
「『行ったらダメ』って言っているのですよ」
栗毛の少女は、シャルルににっこり微笑んだ。その聖女のように優しい笑みによって、シャルルの逃走しようという心はすっかり打ち砕かれてしまった。高鳴る胸の鼓動を必死におさえつつ、シャルルは彼女との会話を試みようとする。
「こ、この子はイギリス人なのですか?」
「ええ。ただ、この子と会ったことは、誰にも言わないで欲しいのですが……」
やはり、何らかの深い事情があって追われている子らしい。しかし、シャルルは他人の秘密をあれこれ穿鑿するような悪趣味ではない。
「大丈夫です。私はパリに今日やって来たばかりで、知り合いといえば、私より数年早く上京した兄ぐらいしかいませんから」
「たしか、あなたは近衛銃士隊に入るために上京されたのですよね?」
「はい。六歳年上の長兄も銃士なんです」
「……ド・バツ・カステルモールという姓の人なんて、近衛銃士隊にいたかしら?」
栗毛の少女が首を傾げた。このとき彼女が発した疑問に対して、シャルルはいくつかの質問をしておくべきだった。「なぜあなたは銃士隊の事情に詳しいのですか? 兄が銃士隊にいるはずなのに、私と同じ姓の人物が隊にいないとはどういうことでしょうか? ポールという名前なのですが、ご存知ありませんか?」
これらの謎をはっきりさせておけば、シャルルは少女と別れた後に起きる悲劇に対してうまく立ち回ることができ、暗い豚箱の中で寒々しい夜を過ごさずに済んだのかも知れないのだ。しかし、ひと目惚れの少女と相対しているシャルルは、すっかり舞い上がっていたのである。普段ならば「なぜ?」と思うことに対して、何の疑問も抱かなかった。
「私の名前はコンスタンスといいます。助けていただいたお礼に、ヴィユー・コロンビエ街までご案内したいのですが、この子をあるところまで連れていかないといけないのです」
「ヴィユー・コロンビエ街というと、トレヴィル銃士隊長の邸宅がある場所ですね。兄の手紙にそう書いてありました」
「はい。ですから、明日の朝、もしよろしかったら道案内をさせていただきたいのですが。今夜はどちらにお泊りですか?」
これはシャルルにとってありがたい申し出だった。ガスコーニュ地方の田舎町とは違ってパリは途方もなく大きく、都市の構造も複雑だ。東西南北も分からず、迷子になってしまうのではないかとシャルルも不安だったのである。
なんと優しい娘さんなのだろう! シャルルにはコンスタンスが天使に見えた。
「この路地を抜けた先の小さな旅籠に宿泊するつもりです」
「では、その旅籠に明朝十時にお伺いします。……行きましょう、シャルロット」
コンスタンスに名を呼ばれて、シャルルにずっと抱きついていた女の子はこくりと頷き、コンスタンスのもとに駆け寄った。この子はシャルロットというらしい。
「また変な奴に襲われたりしませんか? 目的地まで送らせてください」
「……では、しばらくの間、護衛をお願いできますか? ここから十分ほど歩いた、さるお屋敷の前で、迎えの馬車が待っているはずなので」
「分かりました」
「あと、シャルルさん」
と、コンスタンスは手で口をおさえ、急に悪戯っぽくクスクスと笑った。その可愛らしい仕草にシャルルはドキリとする。
「な、何でしょう」
「トレヴィルは、銃士隊長ではありませんよ」
「え?」
「彼は隊長代理です」
コンスタンスが言ったとおり、十分ほど歩いた屋敷の前に黒塗りの馬車が停まっていた。コンスタンスとシャルロットは、シャルルにお辞儀をして車に乗り込み、馬車は慌ただしくいずこかに走り去った。
(コンスタンス……。あれほど可憐な人がこの世にいるとは、夢にも思わなかった!)
夢見心地のシャルルは、スキップをしながら宿泊予定の旅籠へと向かう。
俺はなんと運のいい男なのだろう。パリに来て初日で、あんな素敵な人に出会えるなんて。しかも、明日にはまたコンスタンスと会うのだ! ひょっとすると、あの人とは深い縁があるのかも知れない。出世して立派な軍人になったら、俺のお嫁に来てくれるかしら。
生来の楽天家であるシャルルの妄想は止まるところを知らず、例の旅籠に着くころには「子どもは何人にしよう」などと具体的な家族設計に頭を悩ましていたのである。
しかし、そんな浮かれた夢は、現実の事件によっていっきに吹き飛ぶ。
「親爺、すまない。さっきの客だ」
と、シャルルが旅籠に入って旅籠屋主人にそう言うと、その福々しく太った中年親爺は、
「おや? おかしいですな」
などと首を傾げたのである。
「何がおかしい? 俺の馬はちゃんと小屋につないでおいてくれたか? 預けていた皮袋を返してくれ」
「あの黄色の小馬も、あなたの荷物もありませんよ」
「は?」
言っている意味が分からず、シャルルは思わず間抜け面になって聞き返した。
「無いって、荷物が勝手に逃げ出すわけがないだろう。ロシナンテは命令されなければ、世界が滅びる日まで一歩も動かない怠け馬なんだぜ。脱走なんてありえない」
「いえいえ、あなたの従者と名乗る人が、『我があるじは宿泊場所を変えるので、馬と荷物を返してくれ』と言って来ましたので、その人にお渡ししましたよ」
「俺に従者なんていない! やられた! 泥棒だ!」
シャルルは、旅籠の主人から泥棒の特徴とどっちの方角に行ったかを聞き出すと、旅籠を転げ出て、フォブール・サン=タントワーヌの街路を飛ぶように駆け抜けた。
(畜生! 都会はコソ泥が多いから気をつけろと母ちゃんが言っていたのに! 迂闊だった!)
きっとその泥棒は、シャルルが旅籠の主人に馬と荷物を預けてどこかへ走り去るのをこっそり見ていたのだろう。
ロシナンテは役に立たない馬だが、家族同然の存在だ。皮袋の中に入っている全財産十エキュ、父直筆の我が家の家訓状、母がくれた膏薬。これらも大切なものだし、何よりも失ってはまずいのが、父から授かったトレヴィル殿への紹介状である。
シャルルが生きた時代は、現代の我々が想像しているよりも縁故が物を言った。偉い人がガスコンなら、信頼のできる同郷ガスコーニュの人間を積極的に採用するのである。縁故に頼るのは当たり前であったし、それは恥ずかしいことだという発想はなかった。
(父親からもらった紹介状を道中で紛失するような阿呆が、銃士隊に採用されるだろうか?)
くそ、くそ、くそ。シャルルはついさっきまでの甘い夢想も忘れ、絶望と焦りにとらわれて走り続けた。
すでに日も暮れ、通行人もまばらである。家々の明かりだけを頼りにシャルルは泥棒を捜した。がむしゃらに走ったため、いま自分がどこにいるのかも分からない。無事にロシナンテと皮袋を取り戻したとしても、コンスタンスと明日の朝に待ち合わせしている、例の旅籠に帰れるだろうか?
ヒヒィィン!
「あ、痛ぇ! この野郎!」
馬の鳴き声と男の悲鳴。もしやと思い、シャルルは二つの声がした方角に目を凝らして見た。シャルルは視力がよいだけでなく、夜目も利くのである。
小さな馬は死んでも動くかとばかりに座り込み、男は必死になって立たせようとしていた。手綱を力いっぱい引っ張るが、びくとも動かず、馬は男の頭をかじった。
「また噛みやがったな、こん畜生!」
暗がりのため毛の色までは判別できないが、あの怠惰で傲慢な馬は我が愛馬ロシナンテに違いない。シャルルは「おい、あんた!」と叫んで駆け寄った。
近づいてみると、やはり、その馬はロシナンテだった。ロシナンテの横でかじられた頭をおさえて痛がっている男をシャルルはギロリと睨んだ。背が低くて陰険な目つき、頭に白髪がまじっていて五十歳くらい、と旅籠の主人から聞いた泥棒の特徴そのままだ。
「やい、コソ泥。俺の馬と荷物を返せ!」
シャルルは泥棒の胸倉をつかみ、唾を飛ばして怒鳴った。すると、陰険な五十男は悪びれもせずに、
「けっ。油断して人に物を預けるあんたが悪いのさ。世の中、自分以外の人間を信用したら地獄を見るぜ。それにしても、あんたの馬はまったく使えねぇな。こんなやる気の無い馬、馬市場で売っても大した金額にはならないだろうよ。二度も儂の頭を噛みやがって、忌々しい。動物の裁判にでもかけてやろうか」
と、せせら笑ったのである。
シャルルは小さからぬ衝撃を受けた。どんな悪事を働いた者でも、心の中では罪悪感に苦しんでいる。それが人間というものだとシャルルは母のフランソワーズに教えられた。だが、目の前の泥棒は「盗まれたほうが悪い」と居直り、まったくおのれを恥じていない。それどころか、盗んだ馬の文句を持ち主に言うという始末だ。
「お前、罪の意識は無いのか?」
「罪? このパリにはな、母親を幽閉する国王、イギリス人と不倫する王妃、貧しい農民から金を巻き上げる枢機卿、といったように貴い身分になるほど罪深くなっていく決まりがあるのさ。そのくせ、あいつらは三食美味いものを食って、毎晩温かいベッドで寝るんだ。儂のようなケチな泥棒が犯す罪なんて、可愛いものじゃねぇか」
「雲の上の人の話など俺には分からん! ただ、俺の物を盗んだお前だけは引っ叩いてやる!」
「ははん! 面白いね。この口八丁のジャック様に暴力を振るったら、どうなるか知っているかい? やってみな。さっき儂をかじったあんたの馬もろとも、牢獄にぶち込んでやる!」
「馬が牢獄に入れられるわけがないだろ! この大風呂敷野郎!」
シャルルは力任せに、ジャックと名乗る泥棒を殴り倒した。ジャックは体をひねるようにして後方に吹っ飛ぶ。
「ぎゃぁぁぁぁぁ! 助けてくれー! 暴漢だー! 追い剥ぎだー!」
倒れたジャックは海老のように地面を跳ね回り、ジタバタともがきだした。一心不乱に叫び、「誰かー! 殺されるー!」と助けを呼ぶのである。
(何だ、こいつ。一発殴られたぐらいで)
シャルルはジャックの大げさな反応に呆れ、唖然としてその滑稽な海老ダンスを眺めている。まさか自分に危機が訪れているとは露ほども思わずに。
「おい、外で誰かが叫んでいるぜ!」
「見ろ、ガキがおっさんを襲っている!」
「年寄りが倒れているぞ!」
民家、店屋などあちこちの建物から、騒ぎを聞きつけた人々がどやどやと出てきた。彼らはあっという間にシャルルとジャックを包むように人だかりをつくる。
すると、ジャックはさっきよりもさらに声を張り上げ、まるで哀れな老人のように、
「こ、この若者がいきなり『金をよこせ』と言って、儂を殴るんじゃ! しかも、自分の馬をけしかけて、儂の頭を二度も噛ませたんじゃ! ほれ、誰か儂の頭と頬を見てくれ! ひどい怪我なんじゃ!」
と、野次馬たちに助けを求めた。
シャルルは狼狽した。これでは俺が悪者みたいではないか。
「違う! このおっさんが俺の馬と荷物を奪ったんだ! こいつは泥棒なんだ!」
必死に弁明するが、人々はシャルルに厳しい視線、口八丁のジャックに同情のまなざしを向けている。
「どけどけ、暴漢はどこだ?」
「我々は近衛銃士隊です。一般市民のみなさん、後は私たちにお任せを」
「まったく……。国王陛下直属の俺たち銃士が、どうして追い剥ぎを捕まえなきゃいけないんだ。この地区の巡邏隊はどこを見回りしているんだ?」
黒山の人だかりをかきわけ、立派ないでたちをした三人の男が現れた。
(国王陛下の銃士? あの人たちが近衛銃士隊か!)
三人とも羽飾りのついた鍔広の帽子をかぶり、銀糸組紐の十字架と国王ルイ十三世の頭文字「L」を描き入れた青羅紗のカサック外套を身に纏っている。あれが近衛銃士隊の隊服だろうか。
「小僧。若いもんが年寄りをいじめたらダメだろう。さぁ、大人しくお縄につきな。あと、お前の馬も牢屋行きな」
三人の銃士のうち、一番図体のでかい男がシャルルの腕をつかんだ。
「ど、どうして馬まで?」
「動物裁判を知らないのか? 人に危害を加えた動物も、法的責任を問われるんだよ」
「そんな馬鹿な!」
昔のヨーロッパの人々は、罪があれば人間、動物、無生物を問わずに裁かれなければならないと考えた。そうしなければ神の御心に反するのである。動物裁判の具体的な判決例を見てみると、
子どもを襲った雌豚を死刑。
乗り手を振り下ろして死なせた馬を死刑。
フランス革命期、反革命的な犬を死刑。
これらの判決文を被告である動物の前で読み上げ、刑を実行した。大真面目なのである。
「ロシナンテは……俺の馬は、この泥棒のおっさんに連れて行かれそうになったから、抵抗して噛んだんだ。俺だって、ロシナンテと荷物をおっさんから取り戻そうとしただけなんだ。おっさんの身体を取り調べしてくれたら分かる!」
「ああ! 痛い、痛い! 噛まれたところと殴られたところが痛い! 死にそうだぁ~!」
ジャックは涙と鼻水を出しながら、泣きじゃくる。二人目の紳士風の銃士がシャルルをキッと睨み、シャルルをなじった。
「こんなか弱い老人を痛めつけて、君には罪の意識というものが無いのかね?」
「さあ、連行だ、連行」
三人目の威厳のある銃士も、シャルルのもう一方の腕をつかむ。
(このままでは、本当に捕まっちまう!)
一か八か銃士たちに戦いを挑んで、強行突破しようか。シャルルは一瞬、そう考えたが、そんなことをしたら近衛銃士隊に入れなくなると気がついて考え直した。しかし、他にいい方法はあるだろうか?
(そうだ。兄貴が銃士隊にいたんだ)
同じ隊の仲間の名前を出してその弟だと名乗れば、三人の銃士も俺の話を少しは聞いてくれるかも知れない。そう期待してシャルルは長兄の名を口にした。
「俺は近衛銃士隊の銃士ポール・ド・バツ・カステルモールの弟だ。兄貴と同じ銃士になるために上京して来たんだ。だから、俺の話を……」
「知らんな」
「え?」
「ポール・ド・バツ・カステルモールなどという男、私たちは知りません」
「そんなわけ……」
「連行! 連行!」
哀れ、ガスコンの少年と黄色の小馬は、有無を言わさず連れて行かれたのであった。
シテ島はパリの中央部に位置する、セーヌ川の中州だ。この島の西側にコンシェルジュリー牢獄がある。我らが主人公シャルルとその愛馬ロシナンテは、この牢獄の一番下等な牢屋に入れられた。人間と馬、相部屋だった。
「これがお前たちの共用トイレだ」
牢番が檻の中のシャルルに、汚いバケツを投げ渡す。そして、一切れのパンがのった皿を牢の床に置き、「仲良く食事しろよ」と言った。
(俺が家畜扱いされているのか、馬が人間扱いされているのか)
シャルルはひどく情けない気持ちでいっぱいになったが、ひとつだけどうしてもこの牢番に頼みたいことがあるので、精一杯、下手に出て「お髭の美しい牢番さん、少しお願いがあるのですが」と言った。
「何だい、ガスコーニュ訛り」
「俺は明日、ある女性と会う約束があったんです。でも、俺が牢獄にいる以上、その人を待ちぼうけさせてしまいます。何とかして、彼女にいまの俺の現状を伝える手段はありませんかね」
「おのぼりさんのガキのくせして、女と待ち合わせとはおませな奴だ。で、その恋人の名前は?」
「コンスタンス」
恋人と言われたのが嬉しくもあり気恥ずかしく、シャルルは頬を赤らめて答えた。
「どこの家の娘さんだ?」
「それは……」
と、言いかけて、そういえば彼女のことを何も知らないことに気がついたのである。丈の長い清楚なワンピースをコンスタンスは着ていたが、それが上流階級の貴婦人の衣装なのか、中流または下流階級の娘の普段着なのかシャルルには判断できない。
あのとき、シャルルは美しいコンスタンスと話すのに夢中になっていて、彼女がいったい何者なのかという疑問を抱く余裕すら無かったのである。せめて家の住所ぐらい聞いておくべきだった。
「分かりません」
シャルルはそう返答するしかなかった。
「だったら、待ち合わせの場所は?」
「どこかの町の旅籠だけれど……町名を知りません」
パリに来たばかりのシャルルが知っている町の名といえば、兄の手紙に書いてあったトレヴィル殿の邸宅があるヴィユー・コロンビエ街だけである。コンスタンスと待ち合わせしている旅籠や、黒マントの男と決闘した路地裏がフォブール・サン=タントワーヌにあって、口八丁ジャンの姦計によってシャルルが銃士たちに捕まったのがサン・ポール広場(バスティーユ牢獄の囚人が処刑される場所)の近くだったことなど、無知なガスコンの少年は何も知らない。
「それじゃあ、伝言のしようもないな」
牢番は呆れて笑い、自分の食事を摂るために衛兵の間に行ってしまった。
がっくりうな垂れたシャルルは、自分の迂闊さ、未熟さを嘆いた。
いくら上京したての田舎者とはいえ、パリに来た初日に糞臭い豚箱行きとは。涙ながらに見送ってくれた故郷の家族、友人たちに合わせる顔が無い。
大事な紹介状を初め、父と母からもらった物ことごとくをあの泥棒に奪われてしまった。レイピア剣も牢番に取り上げられている。手元に残ったのは、沈み込んでいるご主人の横で、今夜たったひとつの食料であるパンをもしゃもしゃ咀嚼しているロシナンテのみ。
「お前、裁かれるんだぞ。よく食欲が出るな」
怒る気にもなれず、シャルルはなげやりにとても優秀な愛馬に話しかけた。シャルルは法律を知らない。少年が年寄りを殴って、馬が人間をかじって、果たしてどのような刑に処されるのやら。
ブル、ブルルゥ。
知るか、そんなこと。横着な性格のロシナンテのことだ。そんな感じの台詞を言ったのだろう。パンを食べきると、ロシナンテは実に緩慢な動きでバケツまで歩いていき、糞をたらし始めた。小馬のくせに、普通の馬より量が多い。
シャルルは顔をしかめてトイレ中のロシナンテの尻から目をそらす。馬糞の臭いは幼いころから嗅ぎ慣れてはいるが、眼前で豪快な音を立てて排泄されるのは気分のよいものではない。しかも、あのバケツは共用トイレ、すなわち、後でシャルルも使うのだ。馬糞が溜まったバケツと自分の尻をご対面させることになるのかと思うと、実は人間の尊厳というものは紙のように薄っぺらく、軽いのではないかとシャルルは疑いたくなるのであった。
「まったく。パリまで背負って来てやったというのに。恩知らずの馬め」
シャルルは、用を足してゆったりと座り込んでいるロシナンテに悪態をつくと、床に敷いてある藁の上に寝転がった。この藁が今日のシャルルのベッドである。
パリでは、悪い奴ほど高貴な人間で、美味いものを食って温かいベッドで寝ている。
シャルルは、口八丁のジャックが言っていた言葉をふと思い出した。あれは本当のことなのだろうか?
(少なくとも今夜、無実の俺があの陰険な泥棒野郎よりも粗末なベッドで寝ているのは確かなことだ)
せめてコンスタンスの夢でも見よう。シャルルはそう念じて目を閉じたが、夢に出てきたのは、あの黒マントの男と泥棒のジャック、ロシナンテの尻と糞だった。
二章につづく
一章を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
「前書きで汚い話を書いておいて、小説本編でも汚い話を書くな!」とお怒りのかたは、お許しください。次回以降も汚い話がちらほら出てきます。なにせ、ゲロを吐きながら書いた小説なので。
ちなみに、次回は歴史上有名なリシュリュー枢機卿やアンヌ王妃なども登場してきます。余談ですが、三銃士のヒロインでこの小説でもヒロインのコンスタンスについて。ダルタニャンの息子が結婚した女性の名前がコンスタンスというそうです(すごい偶然!)
では、次回もご照覧あれ!