エリイゼ公妃の独り言
金魚を王室の子どもたちに持ってきたのはこの娘だったかしら
たしかチキウ界産で、ヤヌカの夏市で売れ残ったと言ってたわね
あれはいつのこと? 3年前? それとも4年も前だった?
ハイゼルからの伝言を聞き終えた臣下たちがぞろぞろと退室するのを、まだ年若いくくり屋の少女が見送っている。それまではまつげまで伏せて部屋の隅に静かに佇んでいたのだ。そうすることで自分自身が目立たなくなるとでも思っているように。
けれどもこの娘は気づいていない。何色にも染められた薄い生地の衣装を、何枚も重ねて着ていても、その下にある伸びやかな身体は隠せないのだ。無造作に一本に編み込まれたお下げをつんつんと引っ張って、彼女の気を引きたい若者がどれほどいるかを知ったら、きっとこの娘は丸い眼をさらにまあるくするに違いない。
その筆頭がうちの長男坊なのよね
ほうっと息をついたあと、ハイゼルからの通信について思いを馳せる。不安がつのって胸の前で組んだ腕をさらにギュッと身体に巻きつけた。人払いをしてまで王子が伝えたかったことは何だろう。いい話のわけはない。
傍らに佇むくくり屋の少女を振り返ると、さきほどまでとはうって変わって、親しげな表情を浮かべている。線の細いところは父親似だが、肝が据わっているのは母親から受け継いだものに違いない。
「久しぶりね、ナカツカサ ノゾミ。ハイゼルの伝言を、ありがとう」
「エリイゼさま、ハイゼル様は大丈夫です。今は安全なところにいます」
でも、と続ける。「どうしてハイゼル様の二つ目の御伝言が、重要なものだとわかったのですか」
普通は笑っちゃいますよね、リシュリー・ララへのキスなんて。そう言いながらもノンナの眼も笑ってはいない。
「怪我をして発見されたルフは、ハイゼルが小さいころからの従者なの。」
「ええ、いつもハイゼル様のお側にいますね。腕白すぎるハイゼル様なのに、ルフさんの言うことは良くきいているようでした」
「そう。息子にとってはルフは家族同然の存在よ。それなのにさっきの伝言ではルフの容態を心配する様子もなかった。つまり一つ目は本当に伝えたいことを隠したうわべだけのメッセージだった」
ゆっくりと部屋の中を歩きながら考えを口にしてゆく。
だいたいハイゼルがあんなにしおらしく涙ぐむわけはないのだ。上の二人の兄よりも気が強く、知力に秀でた三男坊。他人の苦しみのためには涙しても、己の苦境ごときでは顔も歪めまい。と、すれば。
「あの金魚にうんぬんのたわけた台詞は、私以外には聞かせられない伝言がもうひとつあるということ」
あはは、とノンナは気のぬけたような笑い声をあげた。
「今ごろ、臣下の方々はハイゼル王子の恋人はどこのご令嬢かと噂されているでしょうね」
「どこかで聞いたような名前だと思っても、とっくに土の下にいる金魚だと気づく者はいないでしょう」
「ハイゼル様は賢いお方です。さて、はじめましょう」
くくり屋の少女はもう片方の手にも指なしの手袋をはめた。
懐から闇色の球をとりだすと、先ほどと同じように水盤の上にかざす。
「闇色の伝言には指定された受け手にしか音声が届きません。万が一、隣室に誰かがいても聞かれる心配はありません。例外は伝言を封じてまた開封する私たちくくり屋だけです」
「貴女は伝言の中味を知っているの?」
「いいえ。私が受けたのは、確実に人払いをせよという指示です。そして闇色の光映球の運び手は『砂の沈黙』と呼ばれる沈黙の誓いに縛られています」
「砂の沈黙‥‥」
「どんな伝言でも他言しないのは情報を扱うくくり屋としては当然ですが、特に機密性が高い闇色や金色、銅色などの球の情報にはさらに保険をかけてあるというか」
伝言の情報は狙われるに違いない。政敵やら敵国やらその他もろもろから。光映球が「指定された者」にしか利用できないならば、次にねらわれるのは情報を運んで開封にも立ち会ったくくり屋だろう。彼らが力づくで頭の中にある伝言の記憶を奪われそうになったときには、砂の沈黙にかけてある自己防衛の機能が発動する。記憶の奥深くにその情報を潜りこませて、表面的には記憶が失われたようになる。
そんな話をしながらノンナは先ほどよりも大きな球を作り出して水盤に浮かべた。闇色の光映球が内側からの光に満ちてゆく。その光の中に3人の姿が浮かび上がった。右側の黒衣の男は黒い布で眼を覆って跪いている。
「彼は魔術士です。この伝言に「盲目の誓い」をかけています。ハイゼル様が指定された方だけが情報を受け取れるようにと。この術の効果は魔術士自身も例外ではありません」
真ん中に立つのはハイゼル。一つ目の伝言での弱々しい様子はどこにも見られない。やはり芝居だったようだ。あの涙ぐむところは上手だったとあとで褒めてあげよう。さっきまでの包帯ももう巻いていない。怪我がたいしたことがないならどうして帰国しないのだろうか?
傍らの三人目が立ち上がった。にこにこした「おばちゃん」だ。小柄でぽよぽよした感じの彼女にハイゼルがしっかり掴まっている。「トーコ‥‥ 」思わず呟いていた。
30年来の旧友。にこにこしてぽよぽよしていても誰よりも強いことを知っている。そして沢山の異世界のものすごく沢山の王様やら皇帝やら国家元首やら魔王やらとおうちでランチを食べる仲。
異世界でいちばん有名なくくり屋「イズミ家のトーコ」が綺麗なチキウ式の一礼をした。