海の向こう
父が網を引き上げるとき、少年はいつも船尾に立った。
腰まで海に浸かるような感覚で、玄界灘の風が頬を叩く。父の背中は広く、塩で白くなったジャンパーが夕暮れに溶け込んでいた。少年は父の手元を見るふりをしながら、目は水平線の向こうへと逃げていく。
島に帰ると、母が麦茶を出す。テレビでは福岡の天気予報をやっていて、アナウンサーが「明日も晴れ」と笑っている。父はすでに焼酎を開けていた。
夜になると、少年は防波堤へ行く。
誰もいない。街灯がひとつ、海面にゆらゆらと映っている。島の明かりはそれだけだった。
でも海の向こうには、違う光がある。
釜山だと父が教えてくれたのは二年前のことだ。あの光が全部、街なんだ、と。少年にはまだ信じられなかった。光の粒がびっしりと水平線を縁取って、まるで夜空を逆さにしたみたいに広がっている。あんなに近くて、あんなに遠い。
スマホで釜山を検索すると、動画が出てきた。広安大橋がライトアップされていて、橋の下をフェリーが通っていた。屋台が並んでいて、若い人たちが笑いながら何かを食べていた。イヤホンをつけると、賑やかな韓国語と音楽が流れてきた。
少年は顔を上げた。
水平線の光は変わらずそこにある。静かで、遠くて、でも確かにある。あの光の下でも今、誰かがあの動画みたいに笑っているのだろうか。同い年くらいの子が、友達と夜の街を歩いているのだろうか。
波の音がした。
島のどこかで犬が吠えた。父が呼んでいるような気がして、少年は立ち上がった。スマホをポケットに入れて、もう一度だけ水平線を見た。
光はまだそこにあった。
少年は防波堤を降りて、家に向かって歩いた。砂利を踏む音が、夜に響いた。




