Drop 01 空の彼方で目覚める死――LIFE『3』、初めての殺し合い
高度10,000メートル、巡航速度700キロ。特殊繊維のスーツによる生命維持で、加圧と保温がなければ、意識を保つことさえ許されない死地だ。 四発のプロペラが刻む重低音が、床から骨へと直接、俺の死期を告げていた。 プロのスタントマンとして、あえてこの「終焉」へと歩き出す。
「……悪いな、みんな」 振り返れば、何も知らない仲間たちがいつも通りの笑顔で俺を見ている。 彼らは知らない。俺が今から、パラシュートを開くつもりのない「スタント」を始めることを。
前方で、ロードマスターが手信号を出す。
赤ランプ。 薄暗い機内の中が、血の海を一瞬思い出させる。
俺は、後部ハッチへ歩いた。 金属床の震えが、ブーツを突き抜けて膝まで這い上がってくる。
――ガチャン。
ロックが外れ、鈍い油圧音が機内に響いた。隙間から黎明が、闇に忍び込んできた。
風が流れ込むんじゃない。 空気が、機内をまるごと削り取っていく。
轟音は、もう音じゃない。 鼓膜を蹂躙する暴力だ。
ハッチの淵に立つ。
振り返る。
相変わらずの、笑顔だ。 何も知らない仲間たちが、俺に「仕事」の成功を期待している。
(誰も、わかっていない)
グリーンランプが点灯した。
俺は死に向かって――金属の機体に最後の一歩を蹴った。
透明なマイナス50度。その鋭利な冷気が、特殊スーツを突き抜けて血管を直接なぞっていく。時間通りに黎明の光が、ゴーグル越しの瞳を黄金色にする。
落下の中に、あいつの風切り音が聞こえる気がした。
この高さの酸素を、また一緒にカナタと味わってみたかった。
……なあ、いいさ。もうすぐ、そこへ行く。
ひと月前のあの場所へ。 俺のせいで逝った、お前と同じ場所へ――。
今、追いかけている。
ごめんよ、カナタ……。
溢れた涙が瞬時に結晶化し、まつ毛の上下を凍りつかせた。 閉じた瞼の奥で、機内で見た赤ランプの残像――血の色だけが揺れている。
大事なスタントで、俺が、フォームを崩した。 もっと早く立て直せていれば。 あの局面で、お前にすべてを背負わせることもなかった。
俺は両腕を体に密着させ、『ヘッドダウン』へと移行した。 特殊スーツが形状を変え、大気の壁を切り裂く。 時速五百キロ。弾丸と化した俺の視界で、地表が膨張を始めた。衝突までは数秒。大気が強く抱擁する。
不意に、凍りついた瞼が熱を帯びて溶ける。 俺は――思わず目を開いた。
光が乱雑に侵入し、距離感が消失する。
「……カナタ?」
最後まで、こんな俺と一緒に飛んでくれるのか。
相棒を殺したプロ失格の。人間としても失格の、俺なのに。
ありがとう、カナタ。
温かな光に向かって腕を伸ばす。 警告音も、誰かの叫びも、もう届かない。
俺は……不思議と、落ち着いていた。
練習中の事故。 あの日と同じ結末。加速する重力の果てに、ようやく終わりの瞬間が見えた。
――だが。
一瞬で、何かが違うと感じた。
目を開けば、あふれる光。 俺はまだ生きているのか? いや、ここが天国なのだと思った。温かくも、寒くもない。嘘のようだ、些細な痛みすら存在していない。
……そして、静かすぎた。
耳を潰さんばかりだった轟音も、体を切り裂く風圧も消え失せている。 それらは俺の体を通り抜け、光に変換されているようだった。 穏やかな光だ。
ゴーグルをずらし、マスクを剥ぎ取ってみる。
「……ほう」
飛んではいない。だが、確かな浮遊感だけがあった。 本当に何もない。
心臓の音だけが、深い積雪に埋もれた時計のように、やけに遠くで脈を打った。
「……死んでも、意識だけは残るのか」
見回したところで、景色と呼べるものは存在しない。 瞼を閉じても、この光は網膜の裏側に直接届いてくる。 暗闇を照らす、執拗なデジタルの光。
……誰も、いないのか。
無力感に抗うように、光の大海を泳ごうと四肢を動かす。 この虚無の先に、何かが浮かび上がらないか、と。
だが――。 そこにはカナタすら、いなかった。
無意識に、左腕の時計を見る。 撮影用の偽物だが、中身は深海にも耐える現場仕様だ。 そのタフなはずの文字盤から、デジタルの光が消えていた。
キ……キ……。
「……どこからだ。アラームの故障か……?」
キ……キ……。
違う。時計じゃない。俺の中からだ。耳じゃなく、頭の芯で鳴っている。
――ピッ。
無機質な電子音が響き、視界にザラついたノイズが纏わりついた。
『……聞こえていますか。突然で、すみません』
穏やかだが、この世の誰よりも遠い場所から届く声。 ……女神、が。俺なんかに、謝っているのか?
『時間がないので、ぱっぱと説明しますからね。いきますよ?』
……ぱっぱと、か。天国の受付にしちゃ、随分と立て込んでるらしい。死んだ後も、のんびりはさせてもらえないか
『これからあなたには――〝殺し合い〟をしてもらいます』
……地獄だったりしてな。
皮肉混じりの思考を、動揺が素早く塗り潰していった。
『あなたの命は今、三つあるんです』
そんなことがあるものか。 だが――気付けば、俺は自分の胸を掴んでいた。 心臓が、確かな。ひと重の鼓動を、刻んでいる。
『今から表示しますので、右下辺りを見ていてくださいね』
今度は何を見せられるのか。視界の端に、まるで火が立ち上るように「それ」が浮かび上がった。
【NAME:| 久良岐 時羅《Kuraki Tokira》 LIFE:『3』 】
そこには俺の本名。デジタルオレンジで表示されていた。
『ここのLIFEが〝0〟になってしまうと、完全に死ぬんです。……はい、〝消えて〟しまうんです』
逆に考えれば――リテイクを二度もしなければ、死ぬことさえ許されないのか。
……0か。今の俺は何なんだ。死へのカウントダウンなのか。
『なので、LOSTする前に誰でもいいので殺して下さい。〝キル〟を三つ集めて欲しいんです』
それはどう扱えばいいんだ。 その、あまりに軽くなった命を。死神か、俺は。
「あ、そろそろ時間です。次に出会うのは、あなたのライフがひとつ減った時。……気をつけてくださいね。では……あと、3、2、1……」
――ゼロ。
カウントが消えた瞬間、視界が広がった。
いきなり、俺は空にいた。 静寂は粉砕され、鼓膜を焼き切るような風の咆哮が戻ってくる。 体感でわかる。高度一万メートル。飛び出した直後の、あの死の空だ。
「……時間が、巻き戻ったのか?」
そう呟く暇もなかった。
ドォン!
凄まじい衝撃とともに、何かが側面から俺に激突し、しがみついた。 ……なんだ? 視界に飛び込んできたのは、カラフルなジャンプスーツを纏った小柄な影。 ……女のようだ。
彼女の右胸のあたりに、ホログラムのような文字が浮かんでいる。
【NAME:| 朝霧 楓《Asagiri Kaede》 LIFE:『3』 】
全身でしがみ付く彼女は、……俺の命を、取りにきたのか。 先ほどの説明が、頭によぎる。
だが、この暴風の中でひ弱そうな彼女は、まるで磁石に吸い寄せられたかのように俺から離れない。その異様な力は、ただ恐怖に震え、必死に俺へ縋り付いているようにも見えた。
でも……俺に助けを求めているのでは……。
そんなことを考えていた時だ――
彼女が、何かを「口」に含んでいるのが見えた。 それはキャンディなどではない。 鈍い銀色を放つ、ピンの抜けた――信管。
「…………っ!」
気づいた時には、もう遅かった。 彼女は俺を逃がさないように、さらに強く、その腕に力を込める。 極限の恐怖に歪んだ顔で、彼女は笑った気がした。
直後。
空の上では、爆音すら瞬時に凍りつくのかもしれない。俺たちの体は飛散した。
まるで、二人分の赤い雪だ。 肉片と化した俺たちは、混ざり合いながら、地上へ向かって緩やかに落ちていった。
俺はまた。 一方的に、意識を奪われた。
……ち、……ちょ。
ん。――何か聞こえる。
『ちょっとあなた……』
意識が揺り起こされる。 暗闇の向こうから響くのは、さっきまでの澄んだ声とは似ても似つかない、余裕をなくした少女の声だ。
「あ……」
『もう。早すぎるんですけど! そんな黒くてカッコいい装備してるのに、弱いとかあり得ないんだけど!』
「君、落ち着いてくれ。……俺の声が聞こえているなら、だけど」
そう、言いながら自ら落ち着く。俺は即死したはずの記憶を感じた。
喉の奥から鉄の匂いが漂ってくる。鼻に抜ける前に唾液と一緒に飲み込み耐えた。
『私、聞こえてます! ここ、殺し合いなんです! あ、もしかして……殺し合いとか、無い世界の人ですか? そんな恰好して……おかしいです……』
……そうか。この格好で勘違いされたのか。 スタント用の耐熱・耐衝撃スーツ。……まあ、間違いでもない。俺は死を演じる現場のプロだからな。
……しかし、光に溶けそうな体ひとつで浮かびながら。 俺は、姿も見えない「女神」だろう相手に、こっぴどく怒られているのか。
『あの、次は頑張ってもらえますよね? さっきのは運が良かっただけですから。……ライフを見て下さい。時羅さんの【LIFE:2】の横に【 | 】……キル数が付いてます。たぶん、相手ともみ合った結果、相打ちになったんだと思います』
相手を殺した。 あの少女を。 ……いや、彼女が俺を巻き込んで死んだ結果、「ここ」がそう判定したのか。
「俺をこんなことで、天国や地獄に振り分けているのか? 三人分の命と引き換えに……。それが、ここの言う『正しい救済』なのか」
俺の問いに、彼女は一瞬、言葉を詰まらせた。
『……天国? 貴方の言うそれはわからないです。でも――〝次のステージ〟に行かなければならないの。消えたくなければね。……私は、絶対に消えたくない。まだ……守れてないものがあるから』
声から、トゲが消えた。 震える吐息の奥に潜む、見覚えのある「必死さ」。 それは、撮影現場で大怪我を負いながらも「まだ、やれます」と縋り付いてきた、かつての仲間たちの顔と重なった。
……俺は、何かを根本から勘違いしているのか……?
『もう時間がないの、ごめんなさい。……また空で始まるわ。頑張って』
彼女の気持ちが、急激に下がったのがわかる。 この声の主は、確実に……俺にはない「何か」を背負っていた。
その直後だった。
【 Null Horizon Drop ok 】
視界の端に無機質なログが浮かんだ瞬間、何もない白濁の世界が、俺を手放した。
意識が切れる。
だが、すぐに。
重力。 温度。
――現実だけが、叩きつけるように戻ってきた。
三度目の、一万メートル。 俺は、この世界がどうなっているのか見たかった。
この特殊スーツなら、落下時間を通常の三倍まで引き延ばせる。 四肢を広げ、風を抱いて姿勢を制御する。 強引に作り出したその猶予は、俺が俺自身に問いかけるための時間だ。
だから俺は―― 宇宙を見ようとして、体を捻った。
……この空の先に、 何かがある気がした。
既に太陽が丸く見えているのに、空には満天の星々が見えていた。 物凄く綺麗だ……だが、現実ではない。 当たり前だが、改めて理解する。
――あいつの言う通り、殺し合いの庭なのだと。
空を見上げると、いくつもの人影があった。 みんな流れ星のように、俺を抜いて落ちていく。美しさには酔うことはないが、その中で同じような速度で近づく影には興味と不安があった。暴風でぶれる視界の中、どうにか形を追うと……箱。 その箱が、ゆっくりと俺に近づいてきた。
全身で、速度と距離を調整する。 ……だが。違和感がある。 磁石に引かれるように、向こうから距離を詰めてくるのだ。
――両手で受け止めた。
離れない。 中を確かめようと中身を握った瞬間、最初から箱なんて無かったみたいに、それは粉のように舞って消えた。 手の中に残っていたのは……拳銃。ベレッタM9A4。
これを使えと言うことなのか。海外で実銃を撃ったことはある。だが、それは地面の上だ。 空では、狙うという概念そのものが崩れる。撃つ度に体の軸がずれ、照準を合わせた瞬間には、もうそこに相手はいない。
……そうだな、これは限りなく相手に接近して使う武器になるだろう。 俺の技術を使えば、接近はたやすいはずだ。体を操作して、速度と距離を微調整すれば、あとは――相手の近くで撃つだけ。
だが。
この世で消去とは何を指すのだろう。 完全な死、なのだろうか。
俺が求めていた安らぎには、少しの血の温かさでも、記憶として残っているはず。だが、ここでの消去は、全てが無かったことにされる予感があった。その無機質さが、俺の指先を凍らせていた。
……死はいいが、消去は嫌なのだろうか。死の質を、死んでから問うだなんて、皮肉な我ままだな。
さっきの女性のように、カラフルなスーツを纏った者が何人か見えた。普通の登山服の者もいる。だが、中には既に凍死してもおかしくない姿で、空を切るように落下していく者もいた。
もし、俺がシュートするなら誰にする。流れる影たちを見ている内、偶然に目に入った――美しいフォームで緩やかに落下していく者。ターゲットととして狙いをつけた。
体をひねり、空気を蹴るようにして速度を調整。腕の角度、脚の位置、胸の向き――わずかなフォームの違いで、落下の軌道を操る。相手に接近する距離を見極め、速度を微調整しながら、まるで水面を滑るように流れる。
視界の端で、他の落下者の影がかすめる。だが、俺の意識はひとつ――相手を捉えた。接近するほど低い振動を感じていく。その音に紛れて、俺は音もなく、一羽の猛禽のように覆いかぶさった。
相手は手には何も持っていなさそうだが、慌てている様子もない。その落ち着きが、かえって気になる。だが、もう地面まで、あと一分程度だろう。 俺はそのまま、銃のセイフティを確認し、最終接近に入った。
先ほどからデジタルオレンジで表示されている、彼の名前が気になった。
【NAME:|九哩 健斗《Kumairu Kento》 LIFE:『3』】
どうやら、彼も日本人らしい。
その時だ、俺の気配を感じたのか、この健斗はゆっくりと体勢を反転した。健斗はゴーグル越しに俺を見つめている。 諦めているのか?、フォームは微動だにしない。 俺はベレッタを、そっと彼の頭部に押し当てた。
今、ここで撃てば外すことはないだろう。 ただ、余計な思考が纏わりつく。
……もしかして、こいつはこの場所のルールを知らないのか? だとしたら、無警戒なフォームのまま落下している理由も納得できる。 だが、知っていてこの落ち着きなら……それは――。
……だめだ。思考のループに嵌ってはしょうがない。
俺は、こいつを殺してまで、次に進みたいのか? それとも何もせずに、自分だけがロストするのか。
あがく時間は、もうない。決めなくてはならない。
地面への衝突。 普通なら、とても見られないほど悲惨な姿になるだろう。 だが、この特殊スーツのおかげで、俺は頭と胴体に別れる程度だろう。 同じスーツを着た人の事故を目にしたこともあったからだ。
「…………っ」
また、俺の視界が真っ赤になった。 ……そして、なんというか―― 変な角度で、離れた自分の体を見ているような……。 そんな気もした。
俺は、三度目の死も、容赦なく意識を奪い取った。




