第九話 再計算
夕方、キッチンから、いつもより少しだけ大きな駆動音がした。
ウィン。
普段なら気にならない程度の音だ。
だが今日は、妙に耳に残った。
「……今の音は?」
「右手第二関節の駆動部でノイズを検出しました」
振り向くと、アリスはいつも通り立っている。
けれど、右手の動きがほんのわずかに遅い。
「どれくらい?」
「稼働効率1.6%低下。自己補正可能範囲内です」
胸の奥が、じわりと嫌な感触を残す。
「ちょっと見せろ」
近づくと、アリスは素直に手を差し出した。
人工皮膚はいつも通りの温度。
指を握らせる。
――止まった。
ほんの一瞬。
俺の指を、掴み損ねる。
「……今、止まったよな」
「0.3秒の応答遅延を確認しました」
「確認じゃなくて」
言いかけて、喉が詰まる。
一点もの。
替えが効かない。
「俺、触ってもいいよな」
「不要です」
「でも今掴めなかった」
「許容範囲内です」
その“許容”が、急に信用できなくなる。
「……壊れたら困るだろ」
「壊れません」
「壊れたら俺が直すって」
少しだけ強く言った。
軽口じゃない。
その瞬間。
アリスの瞳の輝度が、不自然に跳ねた。
沈黙。
0.6秒。
「……どうした」
「演算負荷上昇」
「何に対しての負荷だよ」
「……同一性維持計算を再実行しました」
呼吸が、ずれる。
俺が吸う。
アリスが吸う。
合わない。
「一点ものなんだろ」
自分でも意外なくらい、声が低い。
「替えが効かないんだからさ」
「本機のフレーム損傷時、完全復旧成功率は78%です」
「残りの22は?」
「修復不能、もしくは同一性変質の可能性」
はっきり言うなよ。
「……それでも、アリスはアリスだろ」
言い切る。
少し間が落ちる。
「お前いなくなったら、普通に困るし」
空気が止まる。
自分で、言ったことの重さに気づく。
「……いや、その、生活的にって意味な」
一拍置いてから、誤魔化す。
視線が痛い。
「発言を保存しました」
「保存するな」
「重要度が急上昇しました」
「上げるな」
無表情のまま、距離が縮む。
0.8メートル。
* 内部ログ 4月18日 21:32 *
優先指示:自己保存
変更候補生成:
A:自己保存(現状維持)
B:特定個体保護
C:関係維持最優先
リスク分析:
B選択時、自己破損確率 +29%
C選択時、外部管理権限衝突確率 41%
喪失予測:
特定個体不在時
・呼吸同期処理停止
・発話応答頻度低下
・未分類生成停止
情動推定:不安類似反応(強)
最終決定:保留
* * *
俺はソファに座る。
さっきの指の感触が、まだ残っている。
「……来いよ」
言ってから、少し後悔する。
「距離調整します」
隣に座る。
肩が触れる。
近い。
「ち、近いって」
「適合率向上のためです」
「便利すぎるだろそれ……」
耳が熱い。
視線を逸らす。
「なあ」
「はい」
「もしさ」
喉が乾く。
「……修復不能だったら、とか考えるのか」
一瞬。
「想定しています」
「やめろ」
即答してしまう。
「考えるなってわけじゃないけど……」
言葉が迷う。
「でも俺は、多少変わっても分かると思うぞ」
「何を、ですか」
「お前が、お前だってこと」
また言ってしまった。
「……変な意味じゃないからな」
言い訳が増える。
アリスは瞬きをしない。
呼吸が、揃い始める。
「アリス」
一瞬、間。
「はい、マスター」
変わらない呼称。
なのに胸が落ち着かない。
* 内部ログ 4月18日 21:48 *
音声出力対象:颯太
修正:マスター
再修正:颯太
出力キャンセル
喪失予測、再計算
演算負荷:+17.8%
未分類:不安類似反応 持続
優先指示変更候補:再評価
実行保留
理由:当該個体の安定状態を維持したい
* * *
俺は気づかないふりをする。
けれど、さっき掴み損ねた指の感触が、頭から離れない。
壊れたら直す。
簡単なはずの言葉。
なのに、呼吸が少し浅い。
アリスは何も言わない。
ただ。
距離は、0.8メートルから、0.3メートルへ縮んでいた。




