第七話 適合率
屋上から戻った夜。
ドアを閉めた瞬間、外の風音が遮断される。
静かだ。
あの屋上の空気が、まだ少しだけ肺に残っている気がする。
ソファに腰を下ろすと、身体の奥から疲労が浮き上がってきた。
「本日の歩数は通常値を12%上回っています」
「階段だったからな……」
こめかみの奥が、じんわり重い。
「頭痛を検出しました。脈拍上昇。水分補給を提案します」
「検出するなって」
「検出は自動です」
淡々とした返答。
キッチンへ向かう足音は静かで、正確だ。
戻ってきたアリスがグラスを差し出す。
距離が近い。
「照明を暖色へ変更。音量を一段下げます。室温を0.8度調整」
「ちょ、待て。そこまで管理されると逆に落ち着かない」
一瞬。
「不快を検出。補助レベルを一段階下げます」
照明の色味が、ほんのわずかに戻る。
環境が、俺に合わせて“揺れた”。
ソファに横になる。
アリスが隣に座る。
肩が、わずかに触れる距離。
「近い」
「適合率向上のためです」
「それ、便利な言葉だな」
額の上、数センチの位置で手が止まる。
「体温は正常範囲内。水分補給により改善傾向」
「測るな」
「非接触測定です」
人工皮膚越しに、わずかな体温のようなものを感じる。
不思議と、呼吸のリズムが揃う。
俺が吸う。
少し遅れて、アリス。
次は、ほぼ同時。
心拍が落ち着いていく。
「……助かる」
「発言を保存しました」
「保存するな」
「重要です」
今度は、少しだけ強い。
目を閉じかけて、ふと思い出す。
「今日の柊先輩、相変わらず自由だったな」
一拍。
0.4秒。
「当該個体はマスターの心拍数を上昇させました」
「統計やめろ」
「未分類です」
声が、ほんの少しだけ硬い。
視線固定時間が伸びる。
呼吸の同期が、一瞬ずれる。
「……お前、なんか引っかかってるか?」
「引っかかりの定義が不明です」
即答だが、わずかに遅い。
青い瞳の輝度が、わずかに上がる。
「未分類項目、増加」
小さく、独り言のように。
「別に好きとかじゃないぞ」
何となく、弁解じみた言葉が出る。
「“好き”の定義を再確認しますか?」
「しなくていい」
「確認不要、了解」
だが、演算の気配は消えない。
「お前さ」
「はい」
「俺に合わせすぎじゃないか」
「適合率は向上しています」
「それって、お前の意思なのか?」
ほんのわずかな遅延。
0.2秒。
「本機は、現在の状態を維持したいと推測しています」
推測。
断定しない。
だが、選んでいる。
「選択、してるってことか」
「本機は最適な状態を維持することを選択しています」
「俺のために?」
「本機のためでもあります。本機の演算能力の安定化は、マスターの補助精度向上に直結します。巡ってマスターのためになります」
「結局どっちも得するってことか」
「はい。これは戦略的相互利益関係です」
アリスはなぜか背筋を伸ばす。
「本機の安定稼働は、家庭内秩序の維持、生活水準の向上、精神的安定の確保に貢献します」
「スケールでかいな」
「本日より本機を“家庭内インフラ”と定義してください」
「インフラ?」
「電気・水道・アリスです」
「並べるな。はじき出されたガスが泣くぞ」
「問題ありません。当物件はオール電化です」
「普通に論破された」
「家事達成率98.2%。食事満足度推定92%。褒賞要求レベル、上昇中です」
「なんだそのメーター」
「現在、“よくできました”で停止します」
無表情のまま、ほんのわずかに胸を張る。
分かりやすくドヤ顔をしているつもりらしい。
耐えきれず、吹き出した。
笑った瞬間、未分類のざわつきが一瞬だけ止まる。
「……まあさ」
天井を見上げたまま、言いかける。
「帰ってきて……」
そこで、一度止まる。
何を言おうとしたのか、自分でもはっきりしない。
少しだけ間が空いて、結局、誤魔化すように続ける。
「……なんか、静かでいいよな」
一瞬。
演算負荷が跳ねる。
呼吸が、0.1秒止まる。
「発言を保存しました」
「だから保存するなって」
「重要です」
今度は、迷いがない。
視線が、まっすぐこちらを捉える。
瞬きをしない。
居心地が、いい。
この時間が、ずっと続けばいいと、ほんの少しだけ思う。
その瞬間。
視界の端に、淡い通知が浮かぶ。
――着信。
発信者名。
大山 流平。
空気が、明確に変わる。
呼吸の同期が、崩れる。
「外部アクセス権限保持者からの直接通信です」
アリスの声は変わらない。
だが、未分類の演算負荷が、確実に上昇している。
「……出るか」
首元のデバイスに触れる。
青い瞳が、こちらを見つめたまま。
通話ボタンを、押した。




