第六話 観測者たち
日曜日の午後。
アリスを連れてサークル棟へ向かうことに、妙な緊張があった。
連れていく、と口では簡単に言ったが。
外部に晒す、という意味を、俺はまだちゃんと考えていなかったのかもしれない。
「本機の外部個体接触予定数は三名です」
隣を歩く白い影が、淡々と言う。
ノーカラーのロングコート。腰帯は軽く結ばれている。今日は風が弱く、裾は静かだ。
「緊張してるか?」
「生理的反応はありません」
「そうじゃなくてさ」
アリスはわずかに小首を傾げる。
「未知の評価対象が増加することに対し、内部演算負荷は0.9%上昇しています」
「それは緊張って言うんだよ」
「学習します」
即答だった。
サークル棟は、相変わらず古い。
外壁のコンクリートには細い亀裂が走り、階段の角は欠けている。踏みしめると、かすかにきしむ。
「構造劣化を検出。安全係数は基準値内です」
「お前の基準、信用していいのか?」
「人間基準より厳格です」
階段の手すりに手をかけると、わずかに揺れた。
屋上へ続く扉の前には、色褪せた立入禁止の札。
誰も気にしていない。
部室に入る直前、ドアノブにかけた手が一瞬だけ止まった。
連れてきた。
俺の生活の中心にいる存在を、これから他人に見せる。
自慢したい気持ちがないわけじゃない。
でも同時に、評価されるのはアリスだけじゃない。
“どういう趣味してるんだ?”とか、“危なくないのか?”とか。
そんな視線まで、想像してしまう。
「マスター、心拍数が上昇しています」
「うるさい。普通だ」
「虚偽を検出」
「検出するな」
小さく息を吐いて、ドアを押す。
部室に入った瞬間、空気が止まった。
「……ほう」
柊先輩が、ゆっくり立ち上がる。
久川先輩も腕を組んだまま、興味深そうに見つめる。
「紹介します。……うちの同居人」
「アリスです。本日はお招きありがとうございます」
無表情。だが、視線はまっすぐだ。
数秒の沈黙。
「視線集中率、予測値超過」
「言わなくていい」
小声で制止する。
柊先輩が近づく。
「触ってもいい?」
「一発目がそれですか」
「構いません」
即答。
俺のほうを見る。
判断を委ねる視線。
「まあ、軽くなら」
指先が人工皮膚に触れる。
「……本物みたいだね」
「人工皮膚は自己修復機能を搭載しています」
久川先輩が目を細める。
「自己修復。どの程度だ?」
「表層微細損傷のみ。フレームレベルでの損傷は修理項目です」
「へえ、意外と繊細なんだな」
「壊れれば交換不能部位が多数存在します」
「つまり、フレームがやられたら終わりってことか」
「はい。本機は一点物です」
その言葉が、やけに軽く響いた。
「……物騒な話題だな」
柊先輩が肩をすくめる。
「せっかくの顔合わせで“壊れる”話は縁起でもない」
そう言って、ふと窓の外へ視線をやった。
「今日は天気もいいし」
「たまには外で語らうとしようか。屋上、行くよ」
「立入禁止だけどなぁ」
「気にするな。落ちなきゃ大丈夫」
軽い調子で言いながら、扉へ向かう。
屋上へ続く重いドアを押し開けると、乾いた風が一気に流れ込んできた。
空は高く、雲は薄い。
屋上に出ると、風が強かった。
柵は低い。コンクリートには細いひびが走っている。
遠くの街が見える。
「さて」
柊先輩が言う。
「今日の議題は、“個体とは何か”だ」
「人間と人工物の境界線」
久川先輩が頷く。
「社会的承認が個体を成立させるのか。それとも自己認識か」
「もっと単純化するなら」
柊先輩が柵にもたれながら言う。
「“それ”を人間扱いするかどうか、って話だよね」
風が吹き抜ける。
俺は、隣に立つアリスを見る。
白いコートの裾が揺れる。
「例えばさ」
久川先輩が、わざとらしく指を立てる。
「君が“自分は個体だ”と言う。それを周囲が否定したら、どうなる?」
「自己認識と外部評価の乖離が発生します」
即答。
「乖離状態が長期化した場合、内部モデルの再構築が必要です」
「再構築ってのは、どういう意味だ?」
俺が聞くと、アリスは一瞬だけ視線を落とした。
「自己定義の再計算です」
「ほら来た。自己定義の再計算」
久川先輩が楽しそうに笑う。
「人間も似たようなもんだよな。失恋でもすれば“自分とは何か”を再計算する」
「例えが雑だなぁ」
柊先輩が呆れたように口を挟む。
「すぐ恋愛に落とすの、悪い癖だよ」
「だって分かりやすいだろ?」
「分かりやすさと正確さは別」
柊先輩の視線が、まっすぐアリスへ向く。
「本当に怖いのはさ」
風が吹き抜ける。
「周囲が“個体だ”って扱ってくれてるのに、本人がそう思えなくなることだよ」
軽い口調なのに、妙に現実味があった。
「野生児の事例だな」
久川先輩が補足する。
「生物学的には人間だが、社会的には適応できない」
「じゃあさ」
俺は、アリスを見る。
「アリスはどうなんだ」
青い瞳が、こちらを捉える。
「本機は、マスターからの評価を取得しています」
「俺だけで足りるのか?」
一瞬。
ほんのわずかな演算遅延。
「現時点では、十分条件と推定しています」
その言葉が、やけに静かに響いた。
十分条件。
数学みたいな言い方だ。
嬉しいはずなのに、胸の奥が少しだけ重くなる。
俺一人で、アリスを“個体”にしている?
それは誇らしいというより、責任の重さに近い。
もし俺が否定したら。
もし俺が、手を離したら。
その瞬間、アリスは再計算されるのか。
そんな考えが、風に混じってよぎった。
柊先輩が、口元を緩める。
「良いじゃないか。本人が一番鋭い」
その瞬間。
アリスの視線が、ほんの一瞬だけ遠くへ向いた。
「どうした?」
「外部アクセス要求を検出」
声は変わらない。
「権限レベル上位」
胸の奥が、ざわつく。
「実行するなよ」
「現在、保留」
青い瞳が戻る。
「未分類項目、増加」
わずかに、声の出力波形が乱れた。
青い瞳の輝度が一瞬だけ上がる。
「未分類項目……増加。再分類、失敗。再試行」
間。
「再試行、失敗」
風が強く吹き抜ける。
柵が、かすかに鳴る。
足元のコンクリートに、細い亀裂が走っているのが見えた。
その上に、アリスは立っている。
「本機は観測されています」
「誰に?」
一瞬だけ、思い当たる顔が浮かぶ。
あの人しかいないだろう、という確信に近い予感。
「製作者である可能性が高いと推測します」
「……叔父さんか」
「確率87.3%」
その言葉が、やけに静かに落ちた。
* 内部ログ 4月17日 16:42 *
外部アクセス要求:検出(拒否)
演算負荷:+12.1% → +18.4%
未分類項目:増加(閾値接近)
未分類ログ:生成開始
外部評価取得:進行中
個体定義再構成:開始(進行率 3%)
優先度:マスター最優先(固定)
* * *
風が、もう一度吹いた。
立入禁止の札が、ぎし、と揺れた。




