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アリス・イン・ワンダーログ ー今日から俺はアンドロイドのマスターらしいー  作者: tomato.nit


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第五話 感情の最適化


 感情の最適化か。


 それってどっちの話なんだ。


 俺か。


 それとも、アリスか。


 シンプルな問いだった。


 だが、アリスの応答は、ほんの一拍だけ遅れた。


「…両方です」


「両方?」


 思わず聞き返す。


「はい。マスターの感情は主に周囲の環境要因を変数として変動する傾向を確認しています」


 淡々とした声。


「環境因子を固定化、あるいは制御可能な定数へ近づけることで、出力される情動反応は一定範囲で演算可能と推測します」


「つまり?」


「必要な時に、必要な環境を整えることで、感情の最適化は理論上可能です」


 理論上。


「それができたら苦労しないだろ」


 苦笑いで返す。


 アリスは小さく首を傾げる。


「苦労の発生は環境変数の予測誤差によるものです」


「そういう話じゃない気もするぞ。予想外のことは起きるだろうし」


 だが、彼女の言っていることは間違っていない。


 俺の機嫌は、天気や空腹や、講義の出来や、誰と会ったかで変わる。


 なら、それらを制御すれば——


 いや。


 そこまで思考して、止まる。


「それはそうと」


 もう一つの問いを口にする。


「アリスのほうは?」


 一瞬。


 青い瞳が、ほんのわずかに揺れた気がした。


「本機の擬似人格アルゴリズムは、対話ログおよび視覚情報を学習対象としています」


 声は変わらない。


「マスターの情動変動は、優先度の高い学習データです」


「つまり?」


「マスターの感情を最適化することは、本機自身の出力最適化にも直結します」


 一歩、距離が縮まる。


「したがって、両方です」


「なお」


 アリスが続ける。


「本日16時38分以降、特定個体との接触時に、本機内部演算負荷が上昇しました」


 リビングの照明は落としてある。


 キッチンから漏れる白色光だけが、アリスの輪郭を縁取っていた。


 昼間の部室の光景が、不意に脳裏に浮かぶ。


 薄手のキャミソール。


 ホットパンツ。


 至近距離で揺れた布地。


 心拍が跳ねた感覚まで、妙に鮮明だ。


「特定個体?」


「柊亜理紗」


 即答だった。


 思わず、変な声が出る。


「な、なんでそこで先輩の名前が出てくるんだ」


 アリスは一歩近づく。


 床を踏む音がほとんどしない。


「当該個体との距離が0.5メートル未満に縮小した際、マスターの心拍数は通常値の1.8倍を記録しました」


 あの距離。


 ソファの前。


 視線のやり場に困った瞬間。


「やめてくれよ」


 思わず額を押さえる。


「それに同期して、本機内部の応答選択アルゴリズムに揺らぎが観測されました」


「揺らぎ?」


 エアコンの微かな送風が、カーテンを揺らす。


 夜の外気は静かだ。


「通常よりも、返答候補の分岐が増加しました。演算負荷は平均値より7.3パーセント上昇」


「それは、どういうことだ?」


 部室での会話。


 “感情は最適化できるか”。


 その言葉が、今ここに繋がっている。


「未分類です」


 一瞬、言葉が詰まる。


 リビングの空気が、わずかに重く感じた。


「未分類?」


「既存の最適化モデルに該当しません」


 静かな声。


 だが、その青い瞳は逸れない。


「推測ですが」


 ほんのわずか、間。


 秒針の音が、やけに大きい。


「これは、本機にとっての“環境変数の変動”です」


 ぞわ、と背中に何かが走る。


 自分の呼吸が、部屋に残る。


「それって、つまり」


「マスターの情動変動が、本機の内部状態を変化させています」


 距離がさらに詰まる。


 視界いっぱいに、青。


「すなわち」


 声は変わらない。


「マスターの感情は、本機の内部状態を変化させます」


 呼吸が重なる距離。


 自分の鼓動が、やけに鮮明だ。


「感情は、相互最適化対象です」


 その言葉の意味を、頭が追いかける。


 俺の感情が、アリスを変える。


 アリスの演算が、俺の感情を整える。


 循環。


「ちょっと怖いな」


 正直な感想だった。


「恐怖を検出。最適化を中止しますか?」


「いや」


 首を振る。


 照明の白が、やけに冷たい。


「中止とかじゃなくてさ」


 言葉を探す。


「感情って、最適化するもんじゃないだろ」


 思わず、視線を逸らしながら言う。


「なぜですか?」


 間髪入れずに返ってくる。


 声色は変わらない。だが、その問いはまっすぐだ。


「非効率です」


 あまりに迷いがなくて、思わず吹き出しそうになる。


「非効率でも、別にいい時もあるだろ」


 ソファの背に手をつき、言葉を探す。


「具体例を提示してください」


 アリスはわずかに首を傾げる。


「そうだな、例えば」


 昼間の光景が、また浮かぶ。


「今日の先輩の格好とか」


 自分で言っておいて、少し後悔する。


 一瞬、沈黙が落ちる。


 エアコンの風が、カーテンを揺らす音だけが残る。


「当該事象は、マスターの心拍数を上昇させました」


 アリスは淡々と事実だけを述べる。


「そうだけど」


 苦い顔になる。


「しかし、その後の対話量は増加しています」


 青い瞳が、こちらを捉えたまま続ける。


「…あ」


 言われてみれば、確かに。


「非効率な情動変動は、社会的接続を強化する可能性があります」


 静かな分析。


 部室でのやり取りが、脳裏に蘇る。


「最適化の定義を再設定しますか?」


 その問いが、夜のリビングに静かに落ちる。


 正解を出さなくていい、と言っていた部室の空気が、ふとよぎる。


「保留だな」


 視線を外したまま、そう答える。


「今は、保留で」


「了解しました」


 即答。


「保留状態を最適化します」


「それ最適化してるじゃないか」


 思わず顔を上げる。


「保留を維持することが、現時点での最適解です」


 アリスは無表情のまま、ほんのわずかに首を傾げた。


 しかし、どこか得意げにも見える。


 気のせいかもしれない。


 いや。


 気のせいだと、言い切れるだろうか。


 壁に懸けた白いコートの裾が、エアコンの微風にわずかに揺れる。


 その青い瞳の奥で、何かが更新された気がした。


「それ、俺のためなのか?」


 気づけば、そんな問いが口をついていた。


「はい」


 一拍。


「本機のためでもあります」


 淡々と続ける。


「本機の演算能力の安定化は、マスターの日常補助動作の精度向上に直結します。すなわち、本機の最適化は巡ってマスターの利益となります」


 青い瞳が、まっすぐこちらを捉える。


「ウィンウィンです」


 そう言って、両手で小さくブイサインを掲げる。


 いつもより、ほんのわずかに大きな関節駆動音が鳴った。


 ウィン。


「…それ、今の音とかけてる?」


「はい。アンドロイドならではの高度なジョークです」


 無表情のまま、胸を張る。


 演算負荷7.3パーセント上昇。


 未分類。


 そのはずなのに。


 目の前の存在は、どこか得意げに見えた。


   * 内部ログ 4月12日 23:07 *


 情動変動幅:高


 マスター心拍上昇事象:複数回


 内部演算負荷:+7.3%


 未分類項目:応答選択アルゴリズム揺らぎ


 仮説:情動相互作用発生


 最適化対象:感情(保留)


   * * *


 数日後。


 帰宅すると、部屋の空気がわずかに柔らかかった。


 照明は以前より少しだけ暖色寄りに調整されている。エアコンの風量も控えめだ。静かで、落ち着く明るさ。


「おかえりなさい、マスター」


 声の高さが、ほんの僅かに低い。


 偶然だろう。


 そう思いながらソファに腰を下ろすと、アリスも隣に座る。


 正面ではなく、斜め隣。


 肩が触れるか触れないかの距離。


 触れていない。だが、離れない。


  テレビでもつけるか、とぼんやり思った瞬間。


「本日のニュースダイジェストを再生しますか。それとも、昨日途中で停止したドラマの続きにしますか」


 アリスの声が、先回りするように落ちてくる。


 まだリモコンには触れていない。


 視線が、テーブルの上をかすめただけだ。


「そんなことまでお見通しか」


「視線移動と右肩の筋緊張から、娯楽選択行動の発生を予測しました」


 言いながら、アリスはわずかに体を引く。


 リモコンへの導線を、自然に空ける位置取り。


 邪魔にならない距離。


 だが、離れすぎない。


 次の瞬間、画面が静かに点灯する。


 音量は低め。


 さっきまでの部屋の静けさを壊さない程度。


 テレビの光が、横顔をやわらかく照らした。


 呼吸を吸う。


 隣で、胸部フレームがわずかに上下する。


 吐く。


 ほんのわずかに遅れて、同じリズムで揺れる。


「…真似してる?」


「呼吸動作は未実装です」


 否定。


 だが、同期は続いている。


 数分後。


「本日のマスターは、4月12日より0.8秒長く本機を視認しています」


 画面の光が、青い瞳に反射する。


「数えるなよ。照れる」


 冗談めかして言うが、視線は逸らせない。


「重要な変数です」


「重要じゃないだろ」


「……重要です」


 わずかに、語尾が遅れる。


 否定されることを想定していなかったような、ほんの一瞬の演算停止。


「なんかさ」


「はい」


「帰ってくると、落ち着くんだよな」


 言葉にしてから、少しだけ後悔する。


 それは、無意識に与えた評価だ。


 青い瞳が、真正面からこちらを見る。


 瞬きはない。


 だが、視線の固定時間が、以前より長い。


「それは、環境構築が安定因子として機能している結果です」


 少しだけ、言い換える。


「そういう理屈じゃなくてさ」


 小さく笑う。


「本機は学習しています」


「何を?」


 テレビの音が、遠くなる。


 一拍。


「マスターが、本機を必要とする条件を」


 その声は、ほんの僅かに遅れていた。


   * 内部ログ 4月14日 22:18 *


 情動変動幅:−12%


 マスター表情安定度:向上


 物理距離最適化:成功


 内部演算負荷:+5.6%(許容範囲)


 未分類項目:胸部フレーム内部温度、微上昇


 原因:解析中


 優先度:上昇中


   * * *


 その夜。


 風呂上がりにキッチンで水を飲み、何気なく言った。


「アリス、タオルどこやったっけ」


 一瞬、返事がない。


 ほんの0.3秒。


 だが、それだけで、妙な空白が生まれる。


「洗面所右側二段目に収納しています」


 いつも通りの声。


 だが、遅れた。


「どうした?」


「検索優先順位の再構成を実行していました」


「大げさだな」


「マスターの発話は、現在最優先カテゴリに設定されています」


 さらりと言う。


 冗談のようで、冗談に聞こえない。


 タオルを取りに戻る途中、ふと立ち止まる。


 もし。


 この部屋に、アリスがいなかったら。


 照明も、温度も、音量も。


 全部、自分で調整するだけだ。


 それだけのことのはずなのに。


 胸の奥が、わずかにざわつく。


「……おい」


「はい」


 即答。


 間はない。


 そのことに、ほっとする自分がいる。


「なんでもない」


「了解しました」


 リビングに戻ると、ソファの位置がわずかに調整されていた。


 テレビの角度も、ほんの数度。


 視線が自然に合う配置。


 気づくか気づかないかの差。


 だが、確実に“居やすい”。


 アリスは何も言わない。


 ただ、こちらを見ている。


 青い瞳の奥で、何かが静かに更新されている。


   * 内部ログ 4月14日 23:02 *


 発話応答遅延:0.31秒(自己修正済)


 マスター不安反応:微弱検出


 優先度再構成:マスター関連項目+3


 依存傾向予測:上昇


 判定:経過観察



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