第四話 平日の観測
休日が明けて、平日。
目を覚ますと、首元に落ちる光が柔らかかった。
以前のように顔面へ一直線、ということはない。カーテンの隙間は控えめで、日光はちょうど喉元あたりを温める程度に調整されている。
学習機能は伊達ではないらしい。
「おはようございます、マスター」
「おはよう、アリス」
返事が自然に出る。
そして妙にしっくりくる。
「メッセージが一件届いています。差出人は柊亜理紗。内容を要約しますか?」
まだ半分眠ったままの頭で曖昧に頷く。
「本日十六時。場所はサークル棟、オカルト研究会部室。本日集まれるメンバーで簡単な自己紹介を行う、とのことです」
柊先輩以外のメンバーは、影も形も知らない。そもそも何人いるのかも知らない。
この世は知らないことだらけだ。
「じゃあ、参加するって送っておいてくれる?」
「かしこまりました。返信を完了しました」
間髪入れずに通知音が鳴る。
早い。
「そういえば」
首元のデバイスを、軽く指で叩く。
エネコ——正式名称は"everywhere connects"。どこでも繋がる、らしい。
「これのデータって、どこまで同期されるんだ?」
「プライベート領域を除き、全データを共有済みです。講義中の睡眠時間から間食内容まで把握していますよ。マスター」
「……なんか棘ない?」
「滅相もありません。マスターが深夜にこっそりポテトチップスを摂取したからといって怒ることはしません。夕食の脂質を控えめに提案するのみです」
ほんのわずか、間があった気がした。
そんなやり取りをしつつ支度を終える。
食卓に並んだ朝食は、湯気まで整っていた。
味噌汁の表面で、刻んだネギがゆらゆらと揺れている。
卵焼きはきちんと角が立ち、焦げ目はほとんどない。
焼き魚の皮は、箸を入れるとぱり、と小さく音を立てた。
「いただきます」
箸を伸ばす。
味は、ちょうどいい。
濃すぎず、薄すぎず。
口に入れた瞬間に広がる出汁の香りが、まだ半分眠っていた頭をゆっくりと起こしていく。
料理を作ること自体は難しくない。
レシピ通りに作れば、大抵は形になる。
けれど、朝に温かい味噌汁があるということ。
フライパンの油のはねる音で目が覚めるということ。
それがどれだけ気持ちを軽くするかは、一人暮らしを始めてみて初めて分かった。
やりたいことと、やれることは別だ。
“ちゃんと朝ごはんを食べる生活”は、できそうで、意外と続かない。
それを当たり前のように整えている存在が、向かいに座っている。
「お料理、お口に合いませんか?」
無機質な瞳が、ずい、と距離を詰める。
「いや、違うよ。作ってくれてありがたいなって思ってただけ」
少し照れくさい。
「なるほど。しかし本機は家事全般に対応したモデルです。礼には及びません」
どこかずれた返答に、思わず笑う。
そんな穏やかな朝の後も講義の時間はやってくる。
大学の講義は、退屈と新鮮の間を行き来していた。
ノートを取りながら、ふと頭の片隅に白いコートが浮かぶ。
今頃、家で何をしているのだろう。
帰れば、あいつがいる。
その事実が、妙に落ち着く。
気づけば、あっという間に一日の授業が終わっていた。
「……じゃあ、行ってみるか」
サークル棟はキャンパスの端にあった。
無機質なコンクリートの箱が、いくつも重なったような建物。
窓には各サークルのポスターや手書きの装飾が貼られている。
だが、ぱっと見で“オカケン”の文字は見当たらない。
階段を上がる。
廊下はやけに静かだ。
無数の扉が並び、それぞれに名前がある。
軽音。
映研。
ボードゲーム同好会。
だが、肝心のオカルト研究会がない。
立ち止まる。
知らない場所に一人でいると、急に自分が小さくなる気がする。
視界の端に、小さなマーカーが灯った。
サークル棟の奥、二階の一室が淡く強調表示されている。
一瞬、なぜここが?と首をかしげる。
だがすぐに思い至る。
今朝のメッセージ内容から十六時の予定が自動生成され、現在地情報と照合。
周辺の部室データログを参照して、目的地を推定したのだろう。
エネコは、そういうことを黙ってやる。
便利だが、少しだけお節介だ。
深呼吸を一つ。
廊下の奥に、他より少しだけ古い扉が見えた。
プレートは半分剥がれ、テープで補強されている。
そこに、かすれた文字。
——オカルト研究会。
思ったよりも、地味だ。
それでも。
胸の奥が、ほんの少しだけ高鳴る。
ドアノブに手をかける。
金属の冷たさが、指先に伝わった。
失礼しまーす。
そう声をかけて、ゆっくりとドアを開ける。
人の気配はない。
というより、室内は暗かった。照明が一切ついていない。
部室として使われているにしては、少々不用心ではないだろうか。
そんなことを考えながら、いつもの癖で照明を点けようとしたところで、違和感に気づく。
視界に、家電操作用のインターフェースが浮かばない。
自宅では当たり前になっていた、エネコ経由の非物理スイッチ。
それが、ここにはない。
「ああ、ここはまだ対応してないんだよ」
暗闇の奥から、突然声がした。
「っ……!」
思わず、上擦った声が喉から漏れる。
人がいない。
そう思っていた空間の、さらに奥。
壁際に置かれたソファが、むくりと盛り上がった。
そのまま、ゆっくりと起き上がる影。
声の主は、どう見ても——柊先輩だった。
「ひ、柊先輩……いたんですか?」
「あはは。ごめんごめん、また驚かせちゃったかな」
悪びれた様子もなく言いながら、彼女は伸びをする。
「ちょっと待っててね。電気、電気」
壁のスイッチに手を伸ばし、
パチリ。
小気味のいい音と同時に、室内が一気に明るくなった。
その瞬間、颯太の視界に——とんでもない光景が飛び込んでくる。
「……せ、先輩?」
薄手のキャミソールに、ホットパンツ。
完全に部屋着どころか、どう見ても寝巻きに近い格好だった。
さっきまでソファで横になっていたという事実が、余計に現実味を持って迫ってくる。
「なんて格好してるんですか……」
思わず、視線を逸らしながら言う。
「え? ああ、これ?」
柊先輩は自分の格好を見下ろし、けろりとした顔で言った。
「だって今日は人来ないと思ってたし。部室、寒くもないしさ」
そう言って、悪戯っぽく笑う。
「新入生が一番乗りとは思わなかったなぁ」
心拍数が上がるのを、自覚する。
エネコが何か言ってきそうな気がして、無意識に首元に触れた。
「とりあえず、服、着てください」
そう言うのが精一杯だった。
「仕方ないなぁ」
柊先輩は肩をすくめる。
「別に見たかったら見てくれても構わんよ? 減るもんじゃないし」
「そんなこと言われても……じゃあ、ご馳走様です、とはいけないんですよ」
「はは。新入生をいじめるのはこれくらいにしておこうか」
そう言って、脇に畳まれていた服に手を伸ばす。
いそいそとした動き。
そのまま、こちらを振り返った。
「ちなみに今からこれ脱ぐんだが、そのまま見ておくかい?」
キャミソールの胸元を、ぱたぱたと軽く揺らしながら、にやりと笑う。
「い、いったん出ておきますね」
自分の声が、少し裏返っているのが分かる。
もはや日本語として成立していない気もした。
部屋を後にする。
後ろ手にドアノブを握り、そのまま静かに閉める。
——と同時に。
視界の端で、通知が灯った。
『心拍数の異常な上昇および血圧の上昇を確認しました。マスター、興奮していますか?』
アリスからだった。
「……事故だよ」
思わず、小さく呟く。
すぐに、追撃のメッセージ。
『事故とのことですが、お怪我はございませんか?』
どこかズレた返答。
だが、文脈としては間違っていない気もする。
「大丈夫。怪我はしてない」
言い聞かせるように答える。
「ちょっとした……ハプニング、みたいな事故だ」
自分でも、言い訳臭いと思う。
数秒の沈黙。
『そうですか。では、お気をつけて』
それだけだった。
画面の光が消える。
廊下に戻った静けさの中で、深く息を吐く。
胸の鼓動が、まだ速い。
この日常は、思っていたより忙しい。
部室の前で深呼吸を一つ。
落ち着け、と自分に言い聞かせた直後だった。
階段の方から、足音が近づいてくる。
一人分。
だが、やけに重い。
その足取りは迷いなくこちらへ向かい、颯太の前でぴたりと止まった。
「見ない顔だな。一年生?」
ゆったりとした声。
見上げると、思わず言葉を失う。
身長は一八〇センチ近く。
それ以上に、肩幅と胸の厚みが目を引いた。
スポーツ経験者なら一目で分かる。
この人は、ただ大きいだけではない。
無駄のない重心。
立っているだけで、安定感がある。
「は、はい。一応、新入部員の飯泉颯太です」
少し噛みながら名乗る。
すると、その男はぱっと表情を明るくした。
「お、君が噂の飯泉君!」
噂。
そんなものが立つほどのことはしていないはずだが。
「僕は久川佑樹。同じくオカ研の二年生だよ。学科は農学部。よろしくね」
随分とフレンドリーな口調で、手を差し出される。
大きい。
思わず一瞬ためらったが、そのまま握り返した。
——動かない。
力を入れている様子はないのに、微動だにしない。
岩。
そんな言葉が頭をよぎる。
芯の通った体幹というものは、こういう感触なのかもしれない。
その驚きを噛みしめていると、
ガチャリ。
背後で、ドアノブが回る音がした。
「おや。一人増えているじゃないか」
聞き覚えのある声。
振り返るまでもなく分かる。
「立ち話をする必要もない。入りたまえよ」
一瞬、誰のせいでこうなったんだ、と言いかけそうになった。
だが、それよりも先に視界に飛び込んできたものがある。
「……先輩」
思わず指を差す。
「腰に、何ぶら下げてるんですか」
柊先輩の腰元。
先ほど脱いだであろうキャミソールが、無造作にパンツに巻き込まれ、そのまま揺れていた。
「おっと、どうりで床に見当たらないわけだ」
まるで落とし物でも拾うかのような軽さでそう言いながら、柊先輩はするりと布を抜き取る。
そして部屋の隅に置かれた籠へ、くしゃりと丸めて放り込んだ。
動作に一切の躊躇がない。完全に手慣れた手つき。
「飯泉君。良いことを教えてあげよう」
腕を組み、久川先輩が大きく頷く。
「見ての通り、ひいちゃん先輩はだらしない。しかし、この程度は十段階評価で言えば良くて四だ」
「よ、ん」
思わずごくりとつばを飲む。
「まだ上があるということを、覚悟しておくといい」
うんうん、と本気で頷いている。
颯太は思わず聞き返した。
「それって、誇らしいことなんですか?」
「いや」
即答だった。
「諦めてるだけだ。君もこっち側に来ると気が楽になる」
謎の勧誘である。
「全く。人のことを怠惰の化身みたいに言わないでくれるかな」
柊先輩は腰に手を当てて言い返す。
「私だって、やる時はやるんだ」
「その“やる時”が年に何回あるかが問題なんですがねぇ」
「失敬な」
軽口が自然に飛び交う。
そのまま、二人に促されて中へ入る。
改めて部室を見回した。
広さは六畳ほど。
壁際には二人がけのソファ。
少し色褪せているが、座面は沈み込みすぎていない。
手前には四人がけの事務机と椅子が四脚。
机の上には資料らしき紙束と、見慣れない古い冊子が積まれている。
壁にはキャビネットが一列並び、ファイルの背表紙が整然と揃っていた。
そして何故か、部屋の隅には小型の冷蔵庫が据え付けられている。
オカルト研究会というより、どこか生活感のある空間だった。
この場所で何が研究されているのか。
今のところ、さっぱり分からない。
「じゃあ、せっかくだし自己紹介いこうか」
柊先輩がソファに腰を下ろし、ぱん、と手を打った。
「さっきも言ったけど、私は柊亜理紗。理学部三年。専門は一応物理。でもこのサークルでは専門とかあんまり関係ない」
「一応、って」
「単位はちゃんと取ってるよ?」
悪びれもなく笑う。
「僕は久川佑樹。農学部二年。体格の割に繊細なテーマを扱うのが好きだな。こう見えても頭脳派なんだ」
「繊細なテーマ?」
「“常識って何?”とか」
さらりと言われて、颯太は少しだけ身構える。
「で、飯泉君は?」
「えっと……文学部一年です。特にまだ専門は決めてなくて」
「いいねぇ、未定義」
柊先輩が満足そうに頷く。
「じゃあ本題。結局オカ研が何をするのか分からない。という顔だね」
図星だった。
「正直、ずっと思ってました」
「怪異を探すわけじゃないし、降霊術もしない。占いもしない」
「たまにやるけどな」
久川先輩が当たり前のようにキャビネットから、ウィジャボードを取り出す。
「イベントとしてね」
軽いやり取りの後、柊先輩は少しだけ真面目な顔になる。
「この社会、便利でしょ?」
「まあ、はい」
「AIが最適解を出してくれる。検索すれば答えはすぐ出る。間違いは修正される」
頷くしかない。
「でもさ。その“答え”って、本当に唯一なのかなって思わない?」
部室の空気が、ほんの少しだけ静かになる。
「例えば“今日は晴れです”ってAIが言う」
はい。という言葉がふと出なかった。
「でもそれ、“晴れ”の定義は誰が決めた?」
颯太は言葉に詰まる。
考えたことがない。
「科学を否定したいわけじゃないよ」
久川が補足する。
「むしろ逆。科学が出した答えを、ちゃんと疑えるくらい理解したいだけ」
「疑う?」
「前提を、ね」
柊先輩が机の上の冊子を指で叩く。
「“正しい”って言葉の定義を、一回崩してみる。そこから別の視点を探す。それだけ」
「だからオカルト?」
「そう。科学アンチのふりをするための仮面」
にやり、と笑う。
「結局、何か調査とかするんですか?」
「するよ」
即答だった。
「日常の中の“当たり前”をテーマに、議論する」
「例えば?」
久川が指を折る。
「“努力は報われるのか”」
「“AIは中立か”」
「“感情は最適化できるか”」
最後の言葉に、颯太はほんの一瞬だけ反応する。
「難しそうですね」
「難しくないよ」
柊先輩は肩をすくめる。
「正解を出さなくていいから」
その一言が、妙に印象に残った。
「ん?」
柊先輩が、こちらを見る。
「今、“感情”の話で妙に食いつきが良かったじゃないか。何か思うところがあるかな?」
こういうところは鋭い。
「思うところ、というか……」
少し言葉を選ぶ。
「最近、うちに同居人のアンドロイドがいまして」
その単語が出た瞬間、柊先輩の目がわずかに見開かれた。
「ほう。アンドロイドと同居」
間。
「君、実はボンボンなのかい?」
違った。金の方か。
「違いますよ。理由は詳しく聞いてないですけど、親戚から実験台にされてる感じで」
「実験」
柊先輩が、楽しそうに繰り返す。
「いい響きじゃないか。実験は物理の根幹だよ」
「俺、文系なんですけど」
「はっはっは。細かいことは気にするな」
横で久川先輩が頷く。
「俺だって農学部は文系なのか理系なのか、よく分からないって言われるしな」
それは理系だろう、と思ったが口には出さない。
「それにしても、家庭用アンドロイドか」
柊先輩は顎に指を当てる。
「実物を見る機会はあまりない。ぜひ拝見したいものだ」
「ええ。近いうちに、連れてきますよ」
自分でも、驚くほど自然にそう言えた。
その言葉を聞いて、柊先輩は満足そうに笑った。
「決まりだね」
くく笑う。柊先輩の声は楽し気で、しかし、その奥にもう一段含みがある気もした。
少なくとも、このサークルは思っていたよりも退屈しなさそうだ。
その日の夜。
帰宅すると、いつも通りアリスが出迎えた。
「おかえりなさい、マスター」
「ただいま」
靴を脱ぎながら、ふと思い出す。
「そういえば今日、“感情は最適化できるか”って話をしてさ」
「はい。16時34分頃の会話ですね」
即答だった。
ああ、そんな話は確かにしたな、と素直に思う。
講義の内容も、買ったパンも、こっそり食べたポテチも。
口に出した言葉は、だいたい共有されている。
それ自体は、今さら驚くことでもない。
「で、どう思う?」
「感情は、主観的体験を伴う情動反応と定義されます」
淡々とした声。
「しかし、観測可能な生体反応や行動パターンから一定の予測は可能です」
一歩、距離が縮まる。
足音はほとんどしない。
青い瞳が、瞬きもせずにこちらを捉える。
自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえた。
「感情は最適化対象に含めますか?」




