第二話 起動
第二話 起動
箱の中の少女を見下ろしたまま、しばらく動けなかった。
触れてもいないのに、微かな駆動音が部屋に広がった。
最初は、冷蔵庫のコンプレッサーか何かかと思った。だが音はそこからではない。箱の中。少女の身体の奥から、低く均一な振動が伝わってくる。
カチリ、と小さな機械音。
腰部ユニットの縁に沿って、細い光のラインが走る。白でも青でもない、冷たい光。脊椎に沿うようなラインが順に点灯し、足首まで降りていく。
『識別番号 AL-H-013 アリス 起動シークエンス開始します』
天井でも壁でもない。音源の位置が分からない。だが確実に、この部屋の中から聞こえる。
少女の指先がわずかに跳ねる。関節の内側で、何かが回転するような音が重なる。
『各部アクチュエーター動作チェック。フィードバック確認』
肩。肘。手首。
順番に、ほんの数ミリずつ可動する。
『オールグリーン』
瞼の縁に、淡い光が滲む。
虹彩の奥で、幾何学的なパターンが回転しているのが透けて見えた。円環が重なり、細い線が交差し、焦点を合わせるように収束していく。
『疑似人格AIプロトコル起動』
空気がわずかに振動する。
『オプションモジュール接続確認。外套項目なし。セーフティシャッター動作確認』
胸部の中心に、ごく小さな光点が一瞬だけ現れ、すぐに消える。
まぶたが、ゆっくりと開いた。
淡い青の光を宿した瞳。幾何学的な虹彩が、静かに収束する。
「……終わったのか」
『起動シーケンスは97パーセント完了しています』
「中途半端だな」
『疑似人格AIプロトコルとコンテクストサーバーの接続が確立されていません』
「コンテクストサーバー」
聞き返したが、意味は分からない。
『内蔵サーバーに仮想環境を構築し、実行してもよろしいですか』
仮想環境。
単語だけが耳に残る。
「それは、起動に必要なのか」
『推奨されます』
淡々とした声。
「じゃあ、いいんじゃないか。あんまりよく分からないけど」
『承認を確認。ローカル仮想環境構築を開始します』
瞳の奥で、光が細かく明滅する。
数秒。
静寂。
『人格テンプレートを選択してください』
「今度はなんだ」
『実演した方が速そうです。少しお話しましょう』
「お話」
少女の声色がわずかに変わる。
「うん、お兄ちゃん。これから一緒にがんばろうね」
声の高さが変わった。
柔らかく、距離が近い。
「急に距離が縮まったな」
『先ほどのパターンは元気なぼくっ子妹です。テンプレートは全十二種』
瞳の光がまた変わる。
「……久しぶり。遅かったじゃない」
抑えた声。低め。
「誰だ」
『クールな幼馴染テンプレート』
さらに切り替わる。
「観測結果から推測するに、あなたは緊張しやすい傾向があります」
「分析しなくていい」
『知的理系同級生テンプレート』
少女の声は自在に変わる。だが、どれもどこか借り物めいている。
「そのテンプレ、叔父さんの趣味だろ」
一瞬、処理音のような間があった。
『テンプレート選択を推奨します』
「一番癖のないやつは」
『標準人格テンプレートを提示します』
声が落ち着く。
過度な抑揚も、過度な距離感もない。
「はじめまして。これからよろしくお願いします」
静かで、穏やかな声。
視線が、まっすぐこちらを向く。
長くはない。
だが、ほんのわずかに長い。
左手の指が、無意識に握られる。
「……それでいい」
『選択を確認しました。ローカル仮想環境にて人格構築を開始します』
瞳の奥で、光が深く沈む。
数秒後。
少女は、もう一度こちらを見る。
先ほどまでの合成音声とは違う。
音は澄んでいるが、冷たくはない。
抑揚は控えめなのに、芯がある。
無機質だったはずの声に、わずかな重みが乗っている。
「私の名前はアリス。汎用人形アンドロイド端末です」
「一気にロボット感が出てきたな」
思わず口をついて出る。叔父と一緒に見た昔のアニメのワンシーンが脳裏をよぎる。
「あなたが私のマスターですか」
「俺は聖杯戦争には参加しないぞ」
またもや叔父の影を思い出しながら、半分呆れたように言う。
少女――アリスは、瞬きをひとつする。
「観測対象を確認しました。暫定的にあなたをマスターとして登録します」
声音は落ち着いている。
だが、どこかで選ばれたという感覚が、確かにそこにあった。
アリスは、箱の縁に手をかける。
「自立動作テストを開始します」
ゆっくりと上体を起こす。関節の動きは滑らかだ。だが、人間のそれとは微妙にタイミングが違う。
床に足が触れる。
一歩。
踏み出す。
次の瞬間、重心がわずかに前へ流れた。
「危ないっ」
咄嗟に腕を伸ばす。
軽い。
抱きとめた身体は、見た目よりもずっと軽かった。同年代の人間の女の子と比べれば、確かに密度はある。だが、鉄の塊を想像していた感触とは違う。
腕の中で、アリスがこちらを見上げる。
「ありがとうございます。フィードバックと処理のずれを確認。最適化を実行します」
「大丈夫ならいいんだけど。なんだ、思ったよりも重くないんだな」
一瞬、瞳の幾何学模様が細く収束する。
「女性に重いというのは一般的に失礼です。思ったよりも軽かったに訂正をお勧めします」
抱きかかえたまま、視線がまっすぐ射抜いてくる。
表情は変わらない。
それでも、どこかふくれたように見えた。
左手の指が、また無意識に握られる。
「……とりあえず」
そっとアリスを立たせる。
「いきなり倒れられても困るし、まずは生活のルールからだ」
「共同生活に関する暫定規約の策定を提案します」
「提案、な」
颯太は小さく息を吐いた。
「いきなり全部決められるのも落ち着かないし、一個ずつな」
言ってから、颯太は改めてアリスを見る。
「……その前に確認だ。お前、叔父さんが作ったんだよな」
「はい。製作者は大山流平。職業、システムエンジニア」
「しがないSEって自分で言ってたけどな」
「近年、株式投資により余剰資金を確保。ハードウェア開発プロジェクトを開始しました」
「……聞いてないぞ、そんな話」
「本機は実験素体です。人間との共同生活データの収集を主目的として設計されました」
実験素体。
物騒な単語のわりに、目の前にいるのはどう見ても少女だ。
「つまり俺はモニターってことか」
「協力者です。大学生は比較的時間に余裕があると推測されています」
「余計なお世話だ」
思わず苦笑する。
「危なくはないんだろうな」
「一般企業および公共空間での活動を想定した汎用モデルをベースにしています。致命的な欠陥は報告されていません」
「“報告されていない”ってのが怖いな」
「現在までに重大事故の発生確率は0.002パーセント未満です」
「ゼロじゃないな」
「マスターと同居することで、さらに精度の高いデータが取得できます」
淡々としているが、どこか期待するような間がある。
左手の指が、わずかに握られた。
「……分かった。じゃあ、まずはルールからだ」
「了解しました。共同策定モードに移行します」
「そんなモードあるのかよ」
「今、作りました」
さらりと言う。
「では、第一項。呼称について。現在の登録名は飯泉颯太です」
「それはやめろ」
即答だった。自分の名前が、この距離で呼ばれるのは落ち着かない。
「では、颯太」
無機質なはずの発音が、やけに近い。
胸の奥が、むず痒くなる。
左手が、きゅっと握られる。
「……距離が近い」
「では、颯太さん」
今度は逆に、よそよそしい。
壁を一枚挟まれたような感覚に、肩の力が抜ける。
「なんか違う」
「颯太様」
一瞬、背筋が粟立った。
「それはもっと違う」
一拍の沈黙。
「推奨案。マスター」
ほんのわずかに、声が丸い。
現実味が薄い。アニメの登場人物にでもなったようで、照れを笑いに変えられる。
不思議と、嫌悪感はなかった。
「……それでいい」
「呼称を“マスター”に確定します」
少しだけ柔らかい。
仕様だろう。きっと。
「次。観測範囲について」
「それは決めとかないとまずいな」
「居住空間内を基本とします。浴室および更衣時は観測停止」
一瞬、心臓が跳ねた。
浴室。更衣。
言葉にされただけで、余計な想像が頭をかすめる。
「そこは絶対な」
「マスターのプライバシーは尊重します」
「……頼むぞ」
「次。睡眠時の配置について」
「配置って言うな」
「私は充電スタンドがあれば床でも問題ありません」
合理的なのは分かる。
でも、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
なぜか嫌だ。
女の子を床に、という考えが、どうしても落ち着かない。
「それは俺が落ち着かない」
自分でも理由ははっきりしない。
だが、そのままにはできなかった。
「では、部屋の一角を専用スペースとして設定する案を提示します」
「それでいこう」
「記録しました」
「次。食事」
「私は不要です。ただし、マスターの栄養バランスに助言する機能があります」
「助言レベルで頼む」
「強制は行いません」
「なら大丈夫だ」
「外出時の対応について」
「……ああ、それな」
「視線集中は観測効率を低下させます。外套の着用を推奨します」
「それはお前の問題というより俺の精神安定の問題だな」
「マスターの社会的安定も観測対象です」
「コート、買いに行くか」
「了解しました」
「最後に」
「心拍数異常上昇時、軽度の注意喚起を行います」
「それは……まあ、ほどほどで」
「しきい値を調整します」
淡い表示が空中に浮かぶ。
『共同生活規約 Ver1.0』
「バージョン付けるのか」
「改訂の可能性があります」
青い瞳が静かにこちらを見る。
「では、共同生活を開始します。よろしくお願いします、マスター」
ほんの少しだけ、声が柔らかい。
左手の指が、また握られる。
アリスの視線をふと感じる。観測とはこういうことか。
それでも。
「よろしく、アリス」
そう悪い気はしなかった。
少し書きたいテーマができたので、妖奇譚とは別にシリーズものを作成しました。
こちらはゆっくりペースで書いていきますので、気長にお付き合いください。
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