3. 深呼吸はため息に似て
「来年も……聖女様が指揮を? いえ、わかりました。では聖歌隊との練習の予定を入れてもらうよう、聖女府の担当者と聖歌隊で」
「やだ、おおげさよ。時間を取れなくもないけど、合わせるのなんて、直前に一回くらいでいいでしょ? 私の指揮を拾ってもらえればいいのだから、聖歌隊の皆さんには、決して難しくないと思うわ」
ここでジゼラが深呼吸を入れたのは、不可抗力だ。少しでも穏やかに、考えを纏めたかった。
「大きなため息。ごめんなさいね、無理を言って」
「指揮をされたいなら、練習を」
「ジゼラさんたら、完璧主義なのね。でも大丈夫よお。今回だって、私の指揮に最初は戸惑ってたみたいだけど、結局うまくできたじゃない? 改善点がちょこーっとあるだけ。ね、ピリピリしないで」
ジゼラが思わず視線を向けた先で、聖女をエスコートした青年が、僅かに気まずそうに視線を逸らした。本当の指揮を執ったのが副指揮者の令嬢だと、伝えていないということだろうか。
それにしたって、うまくできたとは。
「今回は失敗ってほどじゃないから、聖歌隊の皆さんにも優しく伝えてね。ジゼラさんもお疲れ様」
これほど、がっくりと疲弊するお疲れ様の言葉があるだろうか。
座り込みたいのを耐えて聖女を見送ると、ジゼラはその場に残っていた副指揮者の令嬢に向き直った。
協力への礼を述べて、それで終わりでよかったのだが。
あまりに青褪めた固い顔をしていたので、人の少ない一角で、椅子にかけてもらった。
しばらく、静かに時間を共有する。
令嬢は、やがて小さく息をつき、ぎこちなく頬を緩めた。
「私、聖女様をエスコートした彼と、婚約の話が出ていたんです」
「えっ」
開口一番に不穏な話題が飛び出てきた。よほど、胸に渦巻いていたのだろう。唇が震えを隠せていない。
それでも、声はしっかりと制御されているのは、さすがだと思う。
「でも、断ります。私が聖歌隊で何を大切にしていたかも理解せず、私の令嬢としての立場も蔑ろにする人だと、よくわかりました」
きっと、婚約者候補の青年に頼られて、張り切る気持ちもあったはずだ。だが蓋を開けてみれば、晴れの舞台で一人、役をおざなりに振られ、エスコートもフォローもなく、役目を果たした労いも、青年からの反省も示されないとなれば、こんなに冷めた目になるのも仕方ないだろう。
青年を庇う言葉は、思い浮かばない。
令嬢の判断することだ。ジゼラは婚約については触れず、せめて少しでも気持ちの明るくなる話題を、と補足した。
「実は、聖歌隊の指揮者アデニー様には何とか連絡をとって、あなたが断りきれない状況なこと、事態が行き当たりばったりなことは説明してあります。それを受けて、アデニー様があの鉄鈴をご用意下さったのです。あなたにも、お疲れ様ですと。明日慰労のお茶会を開くので、公爵家のお屋敷においでくださいとおっしゃっていましたよ」
はっと、令嬢は顔を上げた。真っ赤に染まった顔は、泣き出すのを必死に我慢していたことを物語っている。
「本当ですか? 私、お立場を奪うようなこと……本当は、アデニー様の最後の舞台、私の初めての舞台として、二曲目で指揮を交代しようと言われていたのに、そのご配慮まで無駄に」
「その予定だったということも伺っています。それについては、別の良い機会を見つけるまで、アデニー様も予定を変えて、聖歌隊に残られると」
「まあ! まあ本当に?」
ほろほろと涙をこぼして、令嬢は立ち上がって喜んだ。
「まだアデニー様とご一緒できるなんて。嬉しい。ありがとうございます、ジゼラ様。ありがとうございます」
これほど純粋に感謝をされることなど滅多にない。これから待っている後始末や、来年の懸案事項を思い浮かべるだけで息が詰まりそうだったのが、少し心が洗われた。
だが。
「ふふ、でもこうなると、さすがはと申しますか、聖女様の無茶振りも案外と幸福を導くのでしょうか」
その瞬間、ジゼラは自分がどんな顔をしたか、よくわからない。
令嬢が驚いて、そんなつもりは、軽口を申しました、と気を遣ってくれるのが申し訳なく、ジゼラは首を振った。
「何事にも良い面と悪い面があります。良い面を活かしていけるように、お支えするだけです」
「ジゼラ様……。私、あなたのご配慮を忘れません。尊敬いたします」
誠実な言葉だったと思う。けれど、もうジゼラの心に清々しさは何も湧き起こらなかった。
令嬢を見送り、その後も各方面の担当者のもとに顔を出し、後処理をしていたら、もう花祭りの1日目は終わっていたというわけだ。




