10. 遠征が招いたもの2
「ジゼラ!」
ヴィットールが腕を引いて庇ってくれなければ、石はジゼラの顔に当たっただろう。
拳大の石は、ヴィットールの固い制服の襟に当たって落ち、鈍い音を立てて石畳を打った。
「あっ!」
石が当たらなかったことを悔やんだ顔をしたのも一瞬、衛兵たちに地面に押さえつけられて、少年は怯えた顔をした。
「ジオ! すまない! いえ、申し訳ありません! 何もわからない子供で! 許してやってください」
「と、父ちゃん! だって、だってこいつのせいで、うちの村の食べ物も畑もめちゃくちゃになったんだろ?」
「黙れ! 口を閉じろ」
親は必死の顔で叫ぶ。
まさか、付いてきているとは。まさか、石を投げるなんて。
一旦冷静になればよく見えてくる。
事務官と聞いて想像した、彼らの領主が抱える粗野で仕事をやる気もない愚鈍な土地役人とは、まるで違う。
ジゼラという娘も、その娘の怪我の様子を気にする男も、その周囲の者たちも、陽の光をすべて吸い込むような深い上質の黒の布を身につけて、艶やかな髪と肌と、整った顔立ちをしている。何もかもが、違う。
貴族だ。王宮の事務官とは、貴族なのだ。
衛兵に拘束され連行されても、まだしも人間として扱われたかもしれない。
だが、背中で怒り狂っていそうなこの若い事務官が、ここにいるすべての村民を殺したとして、誰も事務官を咎めないだろう。
村では決して逆らってはならない領主よりだが、そんな領主だって吹けば飛ぶほどにはるかに高い地位にいる相手なのだと、やっと理解した。
「黙って、顔を伏せろ」
「なんでだよ」
「いいからいうことを聞け」
だが少年の方は、突然の宗旨替えを納得しない。
親子の言い合いは、しかし、ぶつりと途絶えた。
ヴィットールが、親の頭を石畳に押さえつけつつ、剣呑な目で子を睨みつけたからだ。
「お前ら、ほんと何言ってんの?」
「ヴィットール、やめて」
「どうせあのくそ聖女がジゼラさんに責任を擦り付けたんだろ? いつものことだ。でもいつもいつも、聖女だけが悪いわけじゃない。周りの人間が自分の目で見て頭で考えれば、そんな戯言に易々と騙されるはずがない」
「ヴィットール!」
聖女の悪口は、禁句だ。
叱りつけるように名を呼ぶと、ヴィットールの動きが鈍った。
ジゼラはその隙に、まだわかっていない顔の村人たちに向けて、誠意を示す印として、胸に片手を当てた。
「あなたがたが、今回の騎士団遠征によって何らかの被害を受けたというならば、まず、宰相府の事務官として、力不足をお詫びします。ただし、私は遠征の責任者ではありません」
少年が、睨みつけていた目を、丸くした。
「責任者については私からは話しませんが、宰相府としても、もっと事前に出来ることはあったかもしれない。退避勧告だけでは、被害を防げない可能性はわかっていたのに、無念です。代わりに、遠征で生じた損害の補填をします。これは、国王陛下の認可も既に得ています」
少年は理解できないのか、目をキョロキョロとさせ、大人たちは、互いに顔を見合わせた。
「遠征の経路にかかった南東地域の村々には、領主を介さずに、村長から直接宰相府へ損害を報告してもらいます。宰相府側でも現地調査をした上で、妥当な補償金額を貨幣か現物で支給します」
「ほ、本当か?」
「ええ。……すでに各村長の元には通知が届いているはずです。入れ違いになったのですね」
はあ、とため息をついたジゼラは、確かに美しい若い娘なのに、目は充血し、顔は青白く、クマが酷い。相手が、今にも消えてしまいそうなほど疲れ果てていることに、村の民たちはその時ようやく気がついた。
「衛兵の皆さん、お勤めご苦労様です。事情は今の通りですので、皆さんの拘束を解いてください。帰りの馬車を宰相府で用意しましょう。村宛の補足の指示書を持っていってもらえるなら、伝令の馬車程度ならすぐ必要分用意できるでしょう」
そのまま、衛兵たちに引き起こされた村民らが我にかえる前に、ジゼラは幾人かの事務官に後を託し、その場を去った。
「ジゼラさん、よかったんですか?」
「ええ。もう、あそこにいる必要はないもの?」
判断を下せば、あとは事務官たちが動いてくれる。
「でもあれだと、無罪放免じゃないですか。冤罪で人に石を投げておいて」
「そうね。でも、子供のしたことよ。しかもヴィットールが守ってくれたし」
「子供の石だけじゃないでしょう。大人の言葉だって、石飛礫と同じですよ」
ヴィットールは怖い顔をしている。肩にも力が入っていて、許せないと全身で訴えているようで、ジゼラはふっと笑ってしまった。
「ジゼラさん!」
「あっ、ごめん。馬鹿にしたとかじゃなくて。——安心したみたい」
石と、言葉。それらに乗せて、憎悪を投げつけられた。
国の中枢近くにいると、似たようなことはある。むしろ完全に反対勢力が見えなくなほうが恐ろしいと、学んできた。だからこそ、今回だって、なんとか冷静に対処できたと思う。
それでも、手が震えてしまうのは、今回矢面に立たされたのが、公的な権力ではなく、ジゼラ個人だったからだろうか。
「こんなんじゃ、だめだね。とてもとても、難しい交渉なんて任せてもらえない」
自分への失望の方が辛くて、笑顔が作れない。
「そんなことない。誰だって、宰相閣下だって、怖しいと感じる時はあるはずですよ」
「そう、かもね。でもその感情に負けないようにならないと。私、ほんと、まだまだね」
ヴィットールが何か言いたげな顔をしたのも、今は視界に入れないようにして、先を歩いた。
前を向いていないと、ヴィットールを振り返ってしまうと、泣いてしまいそうだったから。
その背を、少し遅れて追いかけながら。
「さて、どうしてくれようか」
ヴィットールは剣呑に呟くと、ふと目の上に手をかざした。日差しが避けたのか、それとも、ちらちらと目の中に閃く紅い舌炎を隠したのか。




