第1話 何かが揺れた朝
「オネェさん……誰?」
「はあっ……はあっ……誰って……言われましても……。」
「またトッチーがやらかしてくれたのかよ?……まぁ、話してる場面でもねぇかっ!取り敢えずそっち!公園の隅にでも避難しときなっ!……さて、行くかね?ジョロッ!」
「オンッ!」
目の前の二人組は、そう言い残し、謎の生き物へとゆっくり歩き出していった……。
◆◇
それは、ほんの数十分前の話だ。
まだ三日月が、山沿いの高級リゾートマンションの向こうに沈みきる前。
自分の吐いた息の温かさに、包まれる感覚を何度も繰り返しながら、今日子はルーティンである早朝のジョギングをしていた。
走るコースも毎日見慣れた、代わり映えの無い住宅街。
都会と言われる場所よりは少し離れ、今走っている坂道は、そのまま最後まで登ってゆけば、いわゆる低山と呼ばれる山の頂上へと辿り着く。
しかし、頂上は今日子の目指すゴールでは無く、途中で違う道へと進路を変える。
この場所から10分も走れば海。と言っても海水浴場とはほど遠い、自衛隊の船が停泊し、駐屯地と呼ばれるものがある街、横須賀市。
今日子はこの場所に居を構えている。
冬の朝は明けるのが遅い。まだ空には星が瞬き、日の光が差すには未だ少し余裕がある事を今日子に感じさせている。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……。」
前日の何時に眠りにつこうが、ひどい体調不良で無ければ、今日子は決まった時間に家を出て、ひと汗流す事を自分に課している。もう3年位になるだろうか。
きっかけは大層な事でも無く。テレビドラマを見ていて、ふと思い付いただけだった。
思い付いたら即行動。場合によっては長所にもなり、短所にもなる。
ただ、今日子は飽きっぽい訳では無い。手を付け始めたらそこそこ長く続く。
この日のジョギングも、そうした今日子の性格を体現している、行動の一つなのである。
都会と比べて、視界に広がるのは比較的豊かな緑。
竹藪がそこかしこに見受けられ、野良猫の他にハクビシンやタヌキなども時には出くわす土地柄。
実家暮らしの今日子は、この土地に生まれ育ち、地元の小さな商業出版社で記事を書く事を生業としている。
俗に言うフリーのライターである。新しいお店やイベントの情報があれば出かけて行き、その記事を書き、出版社に送ってという毎日。
ガッツリ稼ぐという仕事では無い。長い休みも取ろうと思えばいくらでも取れる。多分仕事の発注は無くなってしまうだろうが、そうなれば似たような仕事を探せば良いだけの話なのである。
が、今日子の性格上、そのような事もせず、月に2回の連休以外は、日曜日しか休まないと自分で決めて、取材をし、文章を書き上げるという毎日を送っている。
年齢も三十路を越え、両親からも、若い時の様に彼氏の詮索などもされなくなってきている事実に、多少焦る気持ちもありつつ、そこは実家暮らしの気楽さが、モラトリアムな雰囲気を未だに引きずってしまう要因なのかも知れない。
今日子はジョギングコースの終盤である、自宅近くの小さな公園に立ち寄った。
ハリボテで作った様なパンダとワニが右端にあって、中央に滑り台があり、左端にブランコが2つとベンチが1つの、小さな公園。
自宅に戻る前のストレッチ。
ここで今日子はクールダウンをしてから帰宅というのもいつもの流れ。
普段なら余計な事も考えずに身体を動かして帰宅する今日子であったが、この日は妙に頭の中で考え事が浮かんで来る。
(私……このまんまで良いのかな……。)
仕事の内容も、数年もやってると似たような流れ。
特に大きな変化も無く。それはプライベートも然り。
漠然とした不安が最近、今日子を苛んでいる。
まだ両親も健在。父親は自分で建築関係の会社を1代で興し、それなりの収入もある。
そのおかげで今日子も、そこまでお金にガツガツせず生活していけるのであるが、いつまでもこのままで良いのかと、思いながら過ごす日々に、焦燥感を感じているのである。
そんな事をぼんやり考えていながら、ベンチに座って足首を持って、グルグルと手でひねっていた今日子の耳に、かすかな声のようなものが聞こえてくる。
「だから……じゃて。時間が……。」
今日子がその声を不審に思い、声のする方へと静かに歩み寄る。
公園中央の滑り台より向こうの、低木が植えられているスペース辺りで聞こえているが、正直人の隠れる場所などは無く、少しだけ今日子も不安を感じるが、やはりそこはライターという職業から来るものなのか、好奇心が勝ってしまい、息を殺してどんどん近付いてゆく。
「まだ来れんのか?そろそろ実体を現してしまうのじゃがのう。……お主のパパさんに、早く来るよう急かして貰えんか?」
(何?フェンスの向こう側の家から?でも電気付いてる家なんて無いし、スマホでも落ちてる?でも変な会話なのよね……。)
好奇心に勝てない今日子は、目の前の木の枝を、そっと右手でよける。
「はあっ?」
「なんじゃっ?」
今日子の視界に飛び込んできたのは……。
その時点では、今日子はまだ知らなかった。
この薄毛のおじさんが、あの数十分後の騒動の……引き金になる事を。




