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第7話 田原 直樹

 週末の夕方、お隣の水野家の玄関をくぐると、出汁の匂いが漂ってきた。

 「どうぞどうぞ、遠慮しないで」

 母親に案内され、居間に通されると、ちゃぶ台の上には煮物や漬物、それにビールの缶が並んでいた。


 「いやぁ、田原さん。お忙しいところすみませんね」

 にこやかに迎えてくれたのは、水野悠一さん――遥ちゃんの父。役場でIターン促進を担当していると聞いていたが、仕事着のときより柔らかい表情をしていた。

 「いえ、忙しいなんて事は全然ありません。こちらこそ。いつもお世話になってばかりで、気も利かないで本当にスイマセン」


 グラスを満たし、乾杯を交わす。

 一口飲んだ悠一さんは、少し真顔になった。

 「……娘が、田原さんのDIYを手伝いたいと言い出したんです」

 「え?そうなんですか?」

 「ええ。正直、驚きました。あの子はこのところ元気がなくて……。高校に入ってみたものの、学校にも行けず、家にこもりがちで。だから自分から“やりたい”と言ったのは本当に久しぶりなんですよ」


 父親としての率直な安堵が伝わってくる。

 「そうだったのですか……」

 「ええ。だから、私は嬉しいんです。……ただ」

 グラスを置き、表情を引き締める。

 「親としては心配もあります。一人娘ですからね。こう言っては失礼だと承知の上ですが、田原さんのような30代の男性のところに10代後半の娘が通う。他の村の人がどう見るか、変な噂にならないか……それに、あなたの作業の邪魔になっていないか……」


 その言葉に、オレは少し黙り込んだ。

 確かに――彼の立場なら当然の不安だろう。


 「……正直に言えば、遥ちゃんが来てくれて、いろいろ助かった事は多いのは事実です」

 ようやく口を開いた。

 「作業をビデオカメラで撮ってくれるだけでも記録が残りやすいし、ちょっとした相談や雑談ができるだけで、オレとしても少し気持ちが楽になるんです。誰もいない場所で一人で黙々とやるつもりでここに来ましたが……なんだろ、思っていた以上に、悪くない出来事でした」


 そこまで言って、少し言葉を探した。

 「でも……」

 悠一さんが目を細め、続きを促す。


 「……でも、迷いも、それは当然あります。オレは今まで企業の経営を見てきた人間でもありますが、一方で、そんな生き方に疲れて、それを捨ててきた、そういう人間でもあるわけです。そんなオレが、これから自分の生き方を考えていかなきゃならない遥ちゃんを、どういうレベルでも巻き込んでしまったとして、本当に彼女のためになるのか……。そこは、正直難しいとことろだと思っています」


 自分の胸の中にある葛藤を、そのまま口にした。

 悠一さんはしばらく黙ってオレを見つめ、それからゆっくりとうなずいた。

 「私個人としては。実のところ、最初から田原さん次第だと思っていました」


 そして少し笑みを浮かべる。

 「私としては、遥がやりたいと言ったこと自体が大きな一歩なんです。だからこそ、彼女が迷惑をかけていないか、それだけが気がかりで」

 「……迷惑なんてことはありませんよ。まぁ、こんなオッサンに付き合ってもらっても、遥ちゃんが面白いのか、オレには分かりませんけれど」

 そう答えると、悠一さんはふっと表情を緩め、グラスを持ち上げた。

 「いえいえ。…なら、よかった。……これからも、どうぞよろしくお願いします」


 静かにもう一度グラスを合わせ、ビールを口に含んだ。

 その横で、遥ちゃんが少し照れくさそうに、でもどこか嬉しそうにこちらを見ていた。


 グラスをもう一度傾けたあと、水野さんがふと真顔になった。

 「田原さん、一つ、聞いてもいいですか」

 「はい」

 「……なぜ、そこまで社会的にも評価されていた立場を捨てて、ご自身で上場させた事業を退任してまで野辺山に来たんですか?」


 その問いは、最初に会った時にも軽く触れられたことがある。

 だが今は、父親として、そして役場の人間として、本気で答えを求めている視線だった。


 オレはしばらく黙り、ビールの泡が消えていくのを眺めていた。

 ――逃げてきた。ただそう言えば楽だろう。けれど、それだけではない。


 「……株主から、あるいは市場から求められることって、分かりますか」

 「収益ですか」

 「ええ。絶えず“もっと上げろ”と言われ続けます。昨日より今日、今日より明日。収益を伸ばし続けることが正義で、それを達成できなければ存在価値がない。あの世界は、そういう仕組みです。今も、そしてこれからも」


 自分でも声が少し硬くなっているのが分かる。

 「だから、オレは考え続けました。どうすれば数字を作れるか、どんな仕組みを入れればもっと利益が出るか。それに応えなきゃ、役員の席に座ってはいられない」


 水野さんは黙って耳を傾けていた。

 オレはさらに続けた。


 「でも……そのために、部下に仕事を振り、過負荷をかけ、疲れているキャストにも“もう一踏ん張り”と背中を押した。大切に育ててきたキャストの女の子たちが、泣きそうな顔で配信に立つのを見ても、数字のために、それを黙認している自分に、いつしかうんざりしてしまったんです」


 記憶が胸を締め付けた。

 ステージの裏で、かすれた声で台本を読むキャスト。睡眠も削りながら企画を回し続けたスタッフ。その顔を、オレは何度も見ていたし、恐らくは、オレがそれを強要していたのだ。


 「……そんな生き方が、本当に嫌になったんです」

 思わずグラスを置き、両手で顔を覆いそうになる。

 「もっと楽しい、エンターテイメントを創りたいと思って始めた仕事なのに、最後は自分自身でエンターテイメントから最も遠い場所にいた。……そう気づいたとき、もう続ける意味が見えなくなりました」


 言葉が途切れた。居間に静けさが落ちる。

 水野さんは腕を組んだまま、じっとオレを見ていた。


 部屋の中に、時計の針の音と外から入り込む夜風だけが響いていた。


 やがて、ゆっくりと口を開いた。

 「……率直なお話を聞かせて頂き、ありがとうございました」

 その声音は柔らかいが、どこかに父親としての厳しさがにじんでいた。


 「私も役場でIターンや移住の相談を受ける立場です。都会に疲れた、心を休めたい。そう言う人は確かに少なくありません。ただ……正直にここまで話してくれた方は、初めてですよ」


 オレは黙ってうなずいた。

 水野さんはグラスを手に取り、少し揺らしてから続けた。


 「一人娘の父として言えば……正直、簡単に、いいよと言える話ではありません。妙齢の娘が、三十代の独身男性の家に通う。世間の目を気にすのは理解頂きたいです」

 その言葉は重く、オレは素直に受け止めるしかなかった。


 だが次の瞬間、水野さんは小さく笑った。

 「それでもね。遥が自分から“やりたい”と言い出したのは、本当に久しぶりなんです。高校生になってから元気をなくしていたあの子が、少しでも前を向けるのなら……それは親として嬉しいです」


 グラスを口に含み、ゆっくりと置く。

 「だから、こう考えることにしました。あなたの話を聞いて、少なくとも不誠実な人間ではないと分かった。もし娘があなたの作業を少しでもお手伝いして、少しでも役に立つというのなら、それは意味のあることかもしれません」


 オレは胸の奥が温かくなるのを感じた。

 「……ありがとうございます」


 「ただし」

 水野さんは指を軽く上げた。

 「遥が入り浸るようになれば、村の人達の目もあります。そこは親として、そして役場の人間としても気にしています。ですから、大変申し訳ないのですが、田原さんの側でもしっかり線を引いて頂けないでしょうか?」


 オレは真っ直ぐにその目を見返した。

 「承知しました。遥ちゃんに無理をさせるつもりはありませんし、オレ自身も……彼女の将来を奪うような関わり方は絶対にしません」


 水野さんは短くうなずき、グラスを掲げた。

 「なら、もう一杯どうですか」


 グラスの縁が触れ合い、小さな音を立てた。

 その横で、遥ちゃんが少し安心したように笑みを浮かべていた。


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