第6話 水野 遥
窓を少しだけ開けて、そっと外を覗いた。
庭先に見慣れた背中が立っている。ジャージ姿にだらしなく羽織ったパーカー――美和ちゃんだ。
彼女は腕を組み、古民家の庭で直樹さんに何かを言っていた。
「ねえ、アンタさ、なんでこんなとこ来たの?」
声がはっきり聞こえた。あの人に、あんな直球で訊くなんて……私にはとてもできない。
直樹さんは、少し驚いた顔をしてから木材を地面に置いた。
「……まあ、いろいろあってね」
「いろいろって何よ。アンタ、ネットで調べたらすぐ出てくる有名人じゃん。バリバリやってたのに、仕事やめて田舎でDIY? 普通じゃないよ」
やっぱり、美和ちゃんはもう調べていたんだ。スマホひとつで分かることを、私はまだ検索もしていなかった。
直樹さんは苦笑して、少し目を伏せた。
「普通じゃないのは分かってる。でも、都会で続けていくのは正直もう無理だと思った」
「なんで? 金も地位もあったんでしょ?」
「……数字ばっかり追いかける毎日で、人と向き合う余裕がなくなっていた。他人からの評価のためだけに生きてるようで、どんどん自分がすり減っていった」
私は息をのんだ。
普段の彼からは想像もつかない言葉だった。
美和ちゃんはタバコを弄びながら睨むように言った。
「それで逃げてきた?」
「あははっ。……そうだね。逃げてきたって言われても仕方ない」
あっさりと認めるその答えに、逆に嘘っぽさは感じなかった。
「で、逃げてきて何するの?」
「……最低限、生きるためのことをやる。冬を越せるように、この家を直す。それだけだ」
直樹さんは腐った柱を補強した離れを見上げながら、淡々とそう言った。
私は胸が熱くなるのを感じた。
「生きるために家を直す」――たったそれだけなのに、なぜか強い言葉に思えた。
美和ちゃんは鼻で笑いながらも、口元をわずかに緩めた。
「仕事も肩書きも捨てて、木くずまみれで“生き返る”ってか。……まあ、危なそうな人じゃないってのは分かったよ」
直樹さんは何も言わず、ただ微笑んだ。
その表情を見ていたら、私は思わず窓のカーテンを引いた。
美和ちゃんが代わりに聞き出してくれた本音。それを聞けただけで、私は少し救われた気がした。
日が落ちて、空が群青に染まるころ。
庭の向こうから、美和ちゃんがこちらへ歩いてきた。
「おーい、遥」
コンビニの制服のまま、片手をポケットに突っ込みながら気だるそうに手を振る。
「どうだったの?」
私は縁側に出て、少し緊張しながら尋ねた。
美和ちゃんは「ふう」とタバコの煙を吐き、腰を下ろした。
「まあ、危なそうな感じはしなかったね。アンタの言ってた通り、“ちゃんとした人”っぽいよ」
「ほんと?」
「うん。少なくとも、いきなり襲いかかってくるようなタイプじゃない。むしろ真面目すぎて、少し疲れちゃったんだろうねって感じ」
私は胸を撫で下ろした。
美和ちゃんはさらに続けた。
「それとさ、ちょっと気になってネットで調べたんだ。“田原直樹”って検索したら、結構出てくるね」
「……やっぱり、有名な人なの?」
「そこそこ、ってレベルじゃないよ。元々大きなIT企業で活躍してたっぽいし、そのあとベンチャー創業メンバーとしてVTuberとかの事業やってたみたい。そのベンチャーを上場させた時のインタビュー記事も残ってる。たぶん、村の人が心配してるような“得体の知れない男”じゃない」
私は驚いて言葉を失った。
直樹さんがそんな経歴の人だったなんて、全く想像していなかった。
「じゃあ、なんで……」
「さぁね。さっき本人に聞いたけど、“疲れたから逃げてきた”って。案外それが本音なんじゃない?」
美和ちゃんは肩をすくめて笑った。
「まあ、肩書き捨てて木くずまみれで遊んでる方が楽しいっていうなら、それもアリかもね」
私は縁側の板に爪を立てながら、うつむいた。
母に「やめなさい」と言われて落ち込んだ心は、少しずつ色を取り戻していく。
――やっぱり、直樹さんのDIYをもっと手伝ってみたいな。
理由なんてまだ分からないけれど、その気持ちだけは確かだった。
「でもさ」
帰り際、美和ちゃんは足を止めて、じっと私を見た。
「危ない人じゃないってのは一応分かったけどさ。遥はカワイイ系だし、危ない人でなくても、ついつい手が出ちゃうのが―男って生き物だからさ、……あんまり信じすぎて深みには絶対ハマるなよ」
その声音は冗談めかしていたけれど、目は真剣だった。
「……うん」
私は小さく頷いた。
「ま、私も時間があるときは、たまに様子見に寄るからさ。お前ひとりで入り浸ってるより、世間体的にもマシでしょ」
そう言って片手をひらひら振り、国道141の方へと歩いていった。背中に夕暮れの色が沈んでいく。
* * *
その夜。
夕食が終わり、食卓にはまだ湯気の残るお茶と漬物の小皿が置かれていた。
母が茶碗を片づけようと立ち上がった時、私は思わず声を出していた。
「……あのね」
ふたりの手が止まる。父は新聞を畳み、母は私を振り返った。
胸の鼓動がうるさいほどに高鳴る。喉が渇いて声が出にくい。けれど、言わなければ。
「お隣の直樹さんのDIYのお手伝いを……もうちょっとしてみたい」
言い終えた瞬間、部屋の空気が静かに重くなった。
母はすぐに顔を曇らせ、真っ直ぐに私を見据えた。
「遥……母さんは、あまり賛成できないな」
頭では分かっていた。こう言われるだろうと。
でも実際にその言葉を耳にすると、胸の奥がきゅっと縮み、息が苦しくなった。
「……でもね、すごく楽しかったんだ」
私は必死で言葉を繋いだ。
「この前、撮影を手伝ったとき、自分の映像が動画に入ってて……すごく嬉しかったの。窓から眺めてるだけの毎日と違って、“自分もそこにいた”って思えたの」
母は黙ったまま、視線を落とした。
私はなおも続けた。
「今まで、学校に行く意味も分からなくて……。でも直樹さんの作業を見てると、少しずつだけど、心が動くの。何かをつくるって、すごいなって。だから、もっと関わってみたい」
震える声が自分の耳に届いて、恥ずかしいほどだった。
けれど、これは本当の気持ち。
母に否定されると分かっていても、伝えたかった。
沈黙が流れる。
父が腕を組み、しばらく考え込んでいた。やがて、静かに口を開いた。
「……分かった。俺から田原さんに話をしてみるよ」
「えっ……?」
思わず顔を上げる。
「先方に迷惑でなければ、遥がやりたいようにすればいい。ただし、それで本当に彼にとっても助けになるのか、きちんと確かめる必要がある」
父の声は穏やかだったが、どこか厳しさも含んでいた。
母はなおも不安そうに口を開いた。
「でも……世間の目もあるのよ。村は狭いんだから。女の子がひとりで男の人の家に通うなんて、何を言われるか……」
「だからこそ、俺が正面から話をするんだ」
父は母を制するように言った。
「仕事柄、移住者のサポートは俺の担当でもある。相手の考えを聞いて、筋が通っているなら、見守るのも親の役目だろう」
母はしばらく黙り込み、やがて小さくため息をついた。
「……あなたがそう言うなら、私は反対はしない。でも、遥。母さんは心配だからね」
その目は、私を突き刺すように真剣だった。
私は大きく頷いた。
心臓の鼓動はまだ早い。でも、胸の奥には確かな光があった。
――これで、少しは前に進めるといいな。




